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【解説】2020年代の「ファッショントレンド」を見通す
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
2年くらい前に未成年中心のヒップホップイベントへ遊びに行った時、スニーカーを履いている子が全然おらず、服装がストリートからパンク&Y2Kスタイルに完全に移行していることにとても驚きました。確かに冷静に見てみればBLACKPINKのスタイルやTikTokの#タグ、インスタ広告で見かける中国通販などY2KスタイルがZ世代には新鮮に見えていることがわかります。
本稿ではテーラードスタイルへの回帰が謳われていますが、昨今のコレクションなど参照する限り、Y2Kスタイル的な異素材感や、スーパーオーバーサイズのテーラードなど、どちらかと言うとテーラードの破壊と再解釈に主眼が置かれているように感じます。今までストリートの象徴だったオーバーサイズがとうとうテーラードという本丸を侵食し始めた、という印象です。
端的に言うと、ストリートスタイルがウケなくなったので、ハイブランドが若者にウケるテーラードを作り始めたということです。
しかしこれは文脈的に言うと服の再構築を目指した80年代のギャルソン/ヨウジ、90年代のゴルチエ/マルジェラといったパンクの血脈に回帰しようという流れに近いように感じます。現在テーラードがファッション業界の前面に出ているのはそれが流行だからではなく、その解体ショーのためにまな板に乗せられた状態という解釈の方が近いのではないでしょうか。
しかし視点を変えてみると、パンクの大本流であるヴィヴィアンウェストウッドほどテーラードにこだわっていたブランドもないとも考えられます。バチカンあってこその無神論であるように、クラシックテーラードあってこそのパンクだし、女王陛下あってこそのセックスピストルズなのですから、パンク潮流のコインの裏側として、ブランド側のクラシックテーラードへの逆説的な愛と理解は不可欠でしょう。
とは言えこれでクラシックなテーラードはおしまいとならないのがファッションという世界の常で、またしばらくすればクラシック回帰の時代がやってくるでしょう。ファッション業界は進化論に関心がなく、変化と言う発想だけで動き続けているのですから。
Twitter、文字数制限を4000字に拡張か イーロン・マスクCEO「Yes」と認める
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
心底素晴らしいと思います。
正直言ってTwitterの140文字制限が人類の著しい読解力低下を引き起こしており、ひいては社会の分断を招いているとすら言っても過言ではないと思っているのですがみなさんどうでしょう?
人間の脳というのは必ず楽な方に流れるようにできていますので「140文字で議論をしよう」と言うルールになれば敢えてそれ以上の文字数で議論を進めようとする者はどんどん減っていき、そして一度それが趨勢になると「なんだ、たったの140文字なら自分にも読めるし書けるじゃないか」と考えた読解力の低い人間が議論の場にどっと流入して、ただの「個人的感想」をあたかも「社会改革の理論」かのように熱弁し始める(しかもたったの140文字で!)という地獄のような光景が広がる、それが今のTwitterの状況ではないでしょうか。
特に東日本大震災以降、日本におけるTwitterは運動家連中のアジテーション場所となってしまいました。恐らく彼らに長文を書かせたら到底読めたものじゃないものじゃない文章になることでしょう(Twitter登場前はFacebookなどで時折そのような文章を見かけることがありました。それでもその数はそんなに多くなかったものです。なぜって誰であれ140文字以上書けば、自分のの発言が支離滅裂であることぐらいすぐに気づくのだから)。140文字ならば読解力はもちろん、構成力も論理力も要らないのです。彼らは懸命につぶやき「自分も政治や社会に参加できているのだ」という心地良い実感の中で安心しますーーそれがアルゴリズムによって見せられたフィルターバブルの中の夢だとは気付かずに。そう140文字の短文の世界では、トランプ政権を批判する人と、猫画像を集める人と、子育て漫画を読み耽る人は、永遠に交わることがないのです。
読解力のない人間が書いた政治的主張「もどきに」ついて、まともなサイレントマジョリティは恐らく「そういうのは140文字でやることではないだろう」と静かにミュートし続けているのだと思いますがそれももうすぐ終わりになるのでしょう、なって欲しい、なって下さいお願いします。
今私が望んでいるのは専門家による理知的かつ建設的な議論と、見知らぬ誰かの今夜のお味噌汁や公園から見た夕日を見せてくれていたあの頃のTwitterを返して欲しいということただそれだけです。
Twitterに長文添付機能を実装すると発表 イーロン・マスク氏「メモ帳スクリーンショットの不条理を終わらせる」
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
心底素晴らしいと思います。
正直言ってTwitterの140文字制限が人類の著しい読解力低下を引き起こしており、ひいては社会の分断を招いているとすら言っても過言ではないとそう思っているのですがみなさんどうでしょう?
人間の脳というのは必ず楽な方に流れるようにできていますので「140文字で議論をしよう」と言うルールになれば敢えてそれ以上の文字数で議論を進めようとする者はどんどん減っていき、そして一度それが趨勢になると「なんだ、たったの140文字なら自分にも読めるし書けるじゃないか」と考えた読解力の低い人間が議論の場にどっと流入して、ただの「個人的感想」をあたかも「社会改革の理論」かのように熱弁し始める(しかもたったの140文字で!)という地獄のような光景が広がる、それが今のTwitterの状況ではないでしょうか。
特に東日本大震災以降、日本におけるTwitterは運動家連中のアジテーション場所となってしまいました。恐らく彼らに長文を書かせたら到底読めたものじゃないものじゃない文章になることでしょう(Twitter登場前はFacebookなどで時折そのような文章を見かけることがありました。それでもその数はそんなに多くなかったものです。なぜって誰であれ140文字以上書けば、自分のの発言が支離滅裂であることぐらいすぐに気づくのだから)。140文字ならば読解力はもちろんのこと、構成力も論理力も要らないのです。彼らは懸命につぶやき「自分も政治や社会に参加できているのだ」という心地良い実感の中で安心しますーーそれがアルゴリズムによって見せられたフィルターバブルの中の夢だとは気付かずに。そう140文字の短文の世界では、トランプ政権を批判する人と、猫画像を集める人と、子育て漫画を読み耽る人は、永遠に交わることがないのです。
読解力のない人間が書いた政治的主張「もどきに」ついて、まともなサイレントマジョリティは恐らく「そういうのは140文字でやることではないだろう」と静かにミュートし続けているのだと思いますが、それももうすぐ終わりになるのでしょう、なって欲しい、なって下さいお願いします。
今私が望んでいるのは、専門家による理知的かつ建設的な議論と、見知らぬ誰かの今夜のお味噌汁や公園から見た夕日を見せてくれていたあの頃のTwitterを返して欲しいということただそれだけです。

「本気」の宇宙人探しについて語ろう
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
非常に興味深いですね。科学と非科学(と人々が信じ込んでいるパラダイム)の境界に科学者が本気で取り組む。これこそが本当の科学だと思います。
文系の素人意見ではありますが、もし地球外生命体が存在するのだとして(多分存在するのだと思いますが)、その種が人類と同じように「知的」生命体であることを重視しているかどうかは疑問ですよね。ひょっとすると(人間から見たら)下等生物であることを重視したまま文明を築き上げている生命体かもしれませんし、ウイルスだって「ひょっとしたら宇宙人なのでは?」と大真面目に議論されたりするくらいですから、無機物が無機物のままとんでもない構築物を作り上げているかもしれません。「それは生命体ではない」と切り捨てる事は容易ですが、それがどう考えても「知的」に「創作」された構築物だったとしたらどうでしょう?
これらの文明も、人類が認識できる物質で構成されていることが前提としてあるわけですが、さらに進んで人間が認識できない物質や概念ーー暗黒物質やそもそも人類がまだ認識していない、物質ですらないかもしれない新しい概念ーーで構成されている文明だってあり得ます(というかこの広い宇宙では、それらの方が遥かに可能性が高いのではないでしょうか)。
そう思うと、まだ人間が認識していないだけで、ひょっとすると月にも宇宙人はいるのかもしれないし、この地球にも人類と並行して、何億年も前から宇宙人はいるのだけれども、お互い認識できていないだけなのかもしれません。何せよこの話は夢が広がる話だと言うことです、読んだ人がワクワクしてこんな乱文を書き散らかすぐらいには。
「Twitterのタイムラインをごちゃごちゃにする仕事」は本当に実在したのか? 話題の元Twitterエンジニアに聞いた
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
いや、どう考えても最新順の方がいいです(笑)。それから人のイイネも表示しないでください(笑)。
多分、イハラさんがおっしゃっているのは、Twitterをメディアと定義して考えた場合の満足度なんですよ。実際、現在Twitterは世界最大のメディアとして活用されているわけで。メディアとしてなら重要順のTLの方が満足度が高いのはわかります。
ところがユーザーはそれまでSNSとして利用していたわけです。身の回りの友達が今どこにいるのか、何をしているのかが知りたくて使っていた。今はTwitterのその機能は完全にInstagramのストーリーに奪われ、アクティブユーザー数でも完敗しています。
私自身、ちょうどタイムラインがごちゃごちゃしたあたりからTwitterをほぼ使わなくなり、Instagramに完全に移行しました。Twitterはまさにメディアとして見てるだけですね。そういうユーザー結構多いんじゃないですか。一応ログインしているのでアクティブユーザ数には数えられているけれども、っていう。少なくとも、私の中じゃあの時点からTwitterは死に体です。イーロンマスクのフェニックスの羽根に期待します。
AI創作の俳句、高浜虚子の句より評価高く 京都大学の研究グループ調査
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
エロマンガで飯を食べているプロのエロ漫画家です。もう10年以上もこの仕事で飯を食っています。
今年10月にNovel AIという二次元美少女に強いAIがリリースされてからというもの、エロマンガ業界ではにわかにAIによってイラストを描くことが当然となってきています。漫画業界全体の中でも最も「使い捨て」にに近いジャンルであるだけにその影響はとても大きいようです。
ところでよく「AIによって創作の仕事が奪われる」なんてことを嘆く人もいますが、現状自分はあまりそのような印象を受けておりません。あくまでここ1ヵ月の印象に過ぎませんが、AIの描いたイラストの特徴は「技術的にはとても上手なのだけれどもあまりハッとさせられるものがない」といったものです。AIの描くイラストというのは、今までに存在したイラストの集積データに拠るものですから、確かに極めてクオリティの高い「なんだかそれっぽい」イラストにはなるのですが、それは逆に言えば「見たことのないイラストというわけではない」ということなのです。
どんな表現でもそうですが、第一線で活躍している人というのは日々「見たことのない」表現を生み出し続けているから第一線なわけで、その独創的なクリエイションの要には必ずフェチとすら言えるほどの強い癖があるものですが(尾田栄一郎も鳥山明も凄い癖絵でしょう)AIにはそういったものがありません。もし無理にAIに癖を作らせるとするならば、それを作った人間の意思が働いており、それはもはやAIが描いた絵ではなく、人間が描いた絵になってしまうのではないでしょうか。
そういった意味でAIの生成するイラストは、300円ショップやファストファッションなどでよく見られる「なんだかそれっぽくおしゃれな」大量生産デザインみたいなものに近く、そういったビジネスには大変有用とも考えられます。
「敵にはならないな」と思う一方、私自身AIには非常に可能性も感じています。今後背景やモブキャラなど独創性の必要ない箇所は全部AIに描かせちゃうかもしれません。要は使い勝手なのでしょう。
そういや昔読んだAIと将棋の戦いの歴史本の中にこんなエピソードがありました。AIと人間が戦った場合、人間はAIに勝てないのだけれども、人間+ AIがAI単体と戦った場合、AIは人間+ AIに勝てないのだそうですよ。
財布に優しい国「ジャパン」、観光大国を確信させる数多の状況証拠
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
正直言って富裕層はお得かどうかなんてあまり問題にならないような気がするんですけれどもどうでしょうか。富裕層にとって重要なのは「良いものかどうか」であってむしろ高ければ高いほどその担保になる、高い価格が良いサービスの証拠金となるわけです。実際ワインに比べて日本酒は安すぎるから買わないという話もよく聞きます。
私も食べログなどでレストランを調べるときには、大事な相手に迷惑がないように客単価10,000円以上で検索しています。情報化社会においては、お得であるはずの単価10,000円未満のレストランは見てすらもらえないというわけですね。
こんな風に、お得である事は決していいことばかりではないでわけです。ビジネスモデルを大衆向け激安店か富裕層向け高級店に振り切らないと、アマゾンに置いてある微妙な値段の(かつて世界を席巻した)日本製家電みたいになっちゃいますよ、と私は思います。

結局「遅く考える人」が賢い理由
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
植原先生のおっしゃっている事は、どちらかと言うと哲学と言うより脳科学の分野である気がします。
脳科学とは、思考の玉座を”脳”であると規定し、その上で脳の「癖」とはどのようなものかを考えることでより効率的な「思考力を育成」しようという実学ですから、まさに先生のおっしゃっている事にぴったり当てはまるように感じます。しかし哲学は必ずしも「脳」を思考の中心とは考えません。哲学では思考は自我の外にある可能性もあります。哲学は実利的な意味で言うと残念ながら無意味です。
植原先生は話の補助線としてあくまで便宜的に引用されただけかも知れないですけれども、そもそも哲学をニーチェを始めとする思考触発系とアリストテレス”ほか”を始めとする思考力育成型に分けるのは随分と乱暴な話でして(”ほか”って誰ですかね?)ニーチェはゾロアスターに自分を重ね合わせちゃうくらいの言わば西洋哲学殺しのジョーカーみたいな人ですから、アリストテレス”ほか”にとどめを刺すために敢えてああ言う詩的な書き方をしているわけで、あの語り口は極めて戦略的であるという様にも考えられるわけです。
ちなみに哲学の世界では一般的にアリストテレスと対置されるのはプラトンです。イデアvs自然科学とでも言いましょうか(これも雑な物言いですが)、西洋哲学史は教会とルネッサンス運動、実存主義と構造主義に至るまである意味この対置の変奏に過ぎないとすら言える訳です(これまた恐ろしく雑なのでよく人のこと指摘できたもんだなと自分でも呆れています)。そこに触れずにいきなりニーチェが出てくるのはかなり不自然な話のように感じますが、哲学に少しでも触れたことがある皆さんはいかようにお感じなられたでござるか
【山口周×KDDI】「選ぶ技術」が生死を分ける。リベラルアーツの正しい活かし方
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
リベラルアーツと言うからなんとなくかっこいいものに見えますが、要は教養のことでしょう。みんなで教養をもう一度学び直そうと言うことです。
山口さんの仰ってる事を要約するとこうなります。即ち、経営科学は所詮戦術に過ぎぬから底が浅い。そうじゃなくて世界中のあらゆる基礎的な知識を学び戦略を得ようと。しかしそうなったとき日本人はついクイズのようなトリビアルな知の集積を持てばいいと考えがちになってしまう。本当のリベラルアーツはそうじゃないんだと、そう言ってるわけです。
しかし山口さんは「じゃぁ本当のリベラルアーツはどういうものなのか」そこから先を言わない。どうして言わないか分かりませんが、代弁させていただくとリベラルアーツとはアナロジー(比喩)のことなのです。
トリビアルな知の集積の話法とは例えばこのようなものです。「貨幣とは、商品の交換の仲立ちとして古代〜中世にかけて発明された概念。日本における最初の例は和同開珎とされる」。
このままで辞書を読めばわかるただの「情報」です。
しかしリベラルアーツの人は、例えばこう続けます。「貨幣の特徴として、価値の貯蔵、価値の交換材、価値の物差しになる、などの点が挙げられる。この点において、貨幣と言語は非常によく似ている」。ここには二つの概念を比喩する能力、言い換えれば「類似」の発見があります。
つまりリベラルアーツとは、雑多な情報から類似性、もっとはっきり言ってしまえば「本質」を見抜く技術のことなのです。
単なる情報から、AとBの本質が同じだと見抜くことでこの世界の情報を編集し、自由に並び替える「liberal 」技術「art」というわけです。これを使いこなすことで世の中をプログラムのように自由自在に書きかえることが出来るようになるというわけです。もちろん資本主義というゲームのプログラムも例外ではありません。
ただ身も蓋もないことを言うなら、これを学ぶのは義務教育の仕事のはずなのですけどね。
史上最長「ハーバード大学の80年間724人追跡調査で判明」人生に最大の幸福をもたらす"意外な要素" - 「同窓会に行かない」人が失うもの
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
1回読んで私の読解力不足かもしれないと思い、もう一回読み返したのですが、ハーバード大学の追跡調査と同窓会は一体何の関係があるのでしょうか。「同窓会に行かない人が失うもの」ではなく、正しくは「豊かな人間関係を築けなかった人が失うもの」ではないでしょうか。
学校とは家畜よろしく無作為に選出された数十名を10メートル四方の小部屋に数年間強制的に詰め込むことですから、気やそりの合わない人がいて当然でしょう。たまたま全員と気があった人は行ったらいいと思いますが、そうじゃない人は行く必要なんてないんですよ。気の合う友達数人とだけ会って、たまにご飯でもすれば宜しい。
最後に1つ付け加えるとすれば、人生に不幸をもたらす最大の要素は「人間関係によるストレス」だそうですよ。
1年間の授業料「900万円」でも入学希望殺到…超富裕層向け「全寮制スクール」の実態
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
学費が高いか安いかなんてどうでもいいんだけれども、自分の子供が多感な時期に、親として直接向き合ってあげることができなかったとなれば、私であれば一生悔いが残るような気がしますがいかがでしょうか。
子供の人生は子供が決める、それは当たり前ですが、そばにいて親として誠心誠意向き合ってあげられないのでは親としている意味がない。その「誠心誠意」が、「高いお金を払って高い学校に通わせてあとは放置することだ」と考える人ならば別に構いませんが。
更に言わせていただけば、エジンバラ大学に行ってフォーチュン500の企業で働くというごく普通の人生、失敗しない生き方、それって結局普通の日本企業で就職して定年まで働くと言うのと何が違うのでしょうか(いや収入は10倍以上違うかもしれませんが)。それを目指すならこの究極のジョーカーこと全寮制とやらは今までの日本の教育と一体何が違うのでしょう?
アート思考ができる人は「正解」ではなく「好き」を見つけるのが上手い
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
プロのエロマンガ家です。もう10年以上1回見たらそのまま捨てられる使い捨ての絵画を描き続けてきました。
私の作品を綺麗に額に飾ってリビングに展示してあるなんて言う人は恐らくこの世に1人もいないでしょう。
ここ数年、アート思考と言うものがよく取り上げられています。しかし日本人は本質的にアートにあまり関心がないように思います。というより持ちようがないのです。なぜかと言うと(現代)アートとは、一言で言えばキリスト教の鬼っ子だからです。
日本人の信奉する仏教と、キリスト教の最大の違いは何でしょう。多くの人は一神教と多神教と答えるでしょう。確かに反論もありますが、確かに仏教にはキリスト教のように公会議を行い異端審問をするような性質はありません。それ故経典や宗派が星の数ほど存在するわけです。仏教には正統(orthodox)と言う考え方がないのですね。
宗教的「正統」が存在する西欧社会には、何につけてもキリスト教的に「正解」の答えが存在します。それは宗教的性格であるが故、社会というより心を直接縛るものになります。日本社会においては「世間」や「空気」や「同調圧力」と呼ばれ社会を縛っているものが、西欧においては「正統」という形で直接心を縛っているのです。
日本社会に於いてホンネやタテマエといった心の自由が社会的に許容されているのも実は「同調圧力」が心でなく社会を縛るものだからなのですが、西欧の「戒律」は心を直接縛る性質故に、精神分析でいうところの「抑圧」をもたらします(よく日本人にはエディプスコンプレックス的な「抑圧」がないと言われるのもこれが所以ですね)。
この「抑圧」に対しての反駁こそが(現代)アートというものです。要するに父(神)が「こうしろ」と決めたこの世界の「正解」に対して、従うか反抗するのか、今すぐ答えろ(さもなくばおまえの自我は空の彼方へ雲散霧消するだろう)といった切迫した応答を西欧人は常に迫られているのです。それも一事が万事そうなのです。Show the Frag, 「おまえは敵か味方か!」これは抑圧のない日本人にはわからない感覚でしょう。だから我々は現代アートを見ても首を傾げるほかないのです。我々にとって面白おかしい生活の一部を切り取った「春画」が、西欧人には「神への反攻の狼煙」だというのですから、人間とはどこまでも分かり合えないものです。
インテリ気取りで「受け売りの知識」を披露私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
このような議論が繰り返されるたびに思うのですが、亜インテリ化の根本的要因は1票の価値が1億2000万分の1しかない1票の軽さにあり(本論で言われている所の合理的無知)、その切迫感のなさにあるとするならば、解決方法は政治単位の極小化、すなわち地方分権にしかないと思うのです。
そもそも古代ギリシャで民主制が発達したのは、ローマやオリエントのような帝国と比べ、有権者にとって政治は非常に身近で、それ故1票の重さがはるかに重いという都市国家ならではの要因があるはずで、現代日本、さらに言えばヨーロッパ諸国も含め、このような近代国民国家由来の国において本来民主制がふさわしいかには、本当のことを言えば疑問符がつくのです。
かといって民主制が先進文明国の証明書となってしまっている現代社会において今更それを止めると言うのは代替案もない以上全く現実的ではなく、ならば取れる唯一の方法は政治単位の極小化、すなわち日本の連邦化、さらに言うならば都市国家化です。
本来の間接民主制にはそのような意味もあって、直接民主制では人間の身体感覚から離れてあまりに大きくなってしまっている政治をコントロールするという意味で有用なのです。それが今の日本の政治システムでは間接民主制の意味がただの派閥政治の道具になってしまっている。これだったら総理大臣を直接選挙で選んだ方が良いと言う議論になってしまうのももっともであり、一刻も早い政治権力の地方分散が望まれます。

急成長中の「クラシックカー専用保険」がSPAC上場へ
山田 龍郎株式会社シコシコギャング 代表取乱し役
最近身の回りのセレブの友達がみんなこぞってクラシックカーに乗り始めています。
クラシックカーのみならずヴィンテージ市場は好調なようで、車はどんどんダサく、洋服はどんどんペラペラになっていく時代ですから(資本主義の構造的に仕方のないことです)、若者が最先端のサードウェーブカフェよりも昭和レトロな喫茶店を居心地良くクールだと感じるのも詮なきことでしょう。
しかしながらクラシックカーの維持は大変難しいようで、大袈裟でなく、きちんとメンテナンスして通常使用の運転をしていてもいつエンジンが炎上するかわからないようなものも少なくなく、それが今まで富裕層のクラシックカー需要を控えさせていたのです。
そこで近年ではこのようなクラシックカーに特化した保険の他、クラシックカーの部品を可能な限り最先端の部品に替えるレストアや、それどころかボディーデザインのみクラシックで、中身は最先端のシステムで完全EV化された車なども登場してきました(ジャガー社のE-TYPE ZEROなどまさに良い例でしょう)。
セレブたちにとってクラシックカーは「自分は美というものがわかる文化的な人間だよ」と言う事をアンダーステートメントに主張しながら「誰も見たことのない車に乗りたい」という承認欲求も完璧に満たしてくれる道具。この流れは今後ますます加速していくでしょう。

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