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【3分解説】アップルはなぜ、「自動車事業」に乗り出すのか
NewsPicks編集部
桜井 剛
自動運転のEVが普及した後では、自動車はこれまでの「運転する場所、載せていってもらう場所」から大きく変容して、電子機器に体中を囲まれて時間を消費する個人スペースになるのだから、SFで描かれてきた社会の実現を現実的に想像することができるという意味では、すごく面白い時代なのだろうと思います。 ただ、具体的にどういう未来を想像できるのかを考えてみると、どこからか借りてきたイメージしか浮かばず、自分の想像力の貧困さにうんざりします。きっとこれまで見てきたSFのビジュアルイメージが強すぎるので邪魔をしていることと、自分の欲望がどんどんとらえにくくなっていることの両面で、発想の貧困さを生んでいるのだろう、という気がします。自分の欲望といかに向き合うか、そこに他人と共有できる面を見つけられるか、そういうことがこれからは必要とされる人なのだろうという気はしますが、いったい何をしたらいいのやら、です。偉大な先人の想像したSF的未来に触れるのは「今の教養」としては面白いけれど、自分の欲望と向き合うのとは違う気がするから、逆にそういうものから大きく距離を離れてみて、まったく別の自分独自の角度から見る必要があるのだろうなぁ、と思う。
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森騒動とは何だったのか。上野千鶴子氏が語る「男性もイエローカードを出すべきだ」【前編】
Business Insider Japan
桜井 剛
森騒動で、日本社会の膿が可視化されたことは良かったことだと思うけれど、男女の性差(ジェンダーが違うことによる差異)について語ることがタブーのようになってしまわないか心配です。LGBTの人の苦しみは、自分の体とジェンダーのギャップなのだと思うので、そこにギャップがあることは間違いない。なのに、ギャップについて語ると叩かれるようになるのなら、それはまずいと思う。 言葉は切断するものなので、どうしたって人を傷つける側面がある。だから言葉で人を気づ付けない一番いい方法は語らない事なんだけれど、それだと断絶になるから、傷つけることを理解した上で語り合うしかない。もちろん何でも言っていいわけじゃないし、取り返しのつかない言葉というものはある。けれど「この言葉はポリティカルにコレクトか?」そんなことが脳内で無自覚に想起されてしまう世の中は、傷つけ合って再生することで繋がるチャンスを過剰に奪ってしまって、断絶を促進するしかなくなってしまうのではないか、と思います。もちろん、こういう話はバランスの問題なのですが、過剰に「ジェンダー差異」についての議論の機会が奪われる方向にバランスが崩れそうで怖いです。
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【衝撃】日本人が見えていない、日本の「ビッグビジネス」
NewsPicks編集部
桜井 剛
記事の内容と外れてしまうのですが、「アニメーションの力」が最近色々と語られていますが、個人的には実写じゃなくてアニメである必然性について、腹落ちしていなくて気持ち悪い状態が続いています。 実写と比較した場合に、アニメの方が「人物の表情」をはじめとした画の表現として情報量が落ちるのだけれど、情報量を上げるとアニメの良さの大きな部分が消えてしまうことが本質的で、そこに強みがあるのではないか。つまり、表情の情報量が落ちていること、そのものに何か強みがあるのだろうと思うのですが、じゃぁなんでか、がよく分からないなぁと。 でも最近、「進撃の巨人」の作者の諌山さんが「自分に画力が無いと知っているが、そこを上げるつもりはなかった」と言っていたのがヒントである気がしています。つまり、諌山さんは、プロットに力があれば、画力はある程度以上は不要と踏んでいたわけなのですが、もしかしたらプロットの力を最大限生かすためには、画のもつ情報量を落とすことが有効なのかもしれない。小説が想像力を掻き立てるメリットがあるのと同じように、画の情報量が落ちていることで、物語を共有する力は上がっているのかもしれない。そして小説にはプロット以外に文体の個性が重要であるように、アニメ(や漫画)には画の癖や、情報量をいかに上手に落としているか、ということが意外と重要で、見る人の中で物語を有効に立ち上げることに有効に機能しているのかもしれない。そこから考えた時の、アニメ作品の魅力を語ることができるかもしれないなぁ、と。宮崎駿さんの絵の情報量の落とし方は、絶妙ですよね。例えば、自画像を豚にして描いた落書きとか。
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「自由と自己責任」という嘘〜成果主義のうさんくささはどこから来るのか〜
Yahoo!ニュース 個人
桜井 剛
自由意志は便利な概念だけど、科学的には幻想であって、何かが原因になっていない、「ある個人の内部からのみ発生した意思」なんてあり得ないことは、そりゃそうだと思う。そして、意思と呼ぶことができない何かに突き動かされて人は生きているのだから、責任も究極は幻想である。でも、そんな哲学っぽいことを言っていても社会は回らないので、意思も責任も「多くの人の間でかなり普遍性のある幻想(=お約束)」として受け入れて、人々は暮らしているし、そんなことに文句を言う人もいない。けれども、成果主義のような「XXX主義」の話になると、そう簡単にはいかない。信じているものが信じるに足るものかを洗い直さないと、うさん臭さから抜け出せない。だから「意思も責任も幻想」だったよね、というところまで立ち戻って、成果主義を捉え直す必要があるのではないか、というのが記事の趣旨だと思います。 記事の内容は、まったくその通りだと思いますし、成果主義をもう一度評価し直すためには有効な手段だと思います。ただ、「意思も責任も、客観的に存在する事実」と信じている人とは共有できないことが、大きな障害になると思いますし、自己責任論のような「安易な正義」を無反省に振りかざすような人がもしかしたらどんどん増えていて、そういう「うさんくささ」と戦う方法論が社会的に受け入れられにくくなっている傾向があるのではないか、という懸念があります。
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