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「え、YouTubeでは先生と違う説明をしてたんですけど…?」教育系YouTuberの影響で“ヤバい学生”が増えている
文春オンライン
arai h農業 理学
この記事はタイトルが煽り気味で反感を呼ぶ感じになっているので、ものすごく気持ち悪いですが、書いている内容自体はマトモというか、普通というか、凡庸でした。というか、だから煽り気味のタイトルにしたんだろうなと思いますが。 私は大学では物理学専攻だったんですが、高校では物理の授業は大嫌いで、受験勉強で塾に行き始めてからようやく物理が好きになった学生でした。 なぜそうなったかというと、普通の高校で教えている物理というのは本当に非合理的で分かりにくいからです。 力学の単元で言ったら、本来なら運動方程式(F=ma)と微分積分さえ分かっていれば導出できる公式や途中式のようなものまで何十個も全部暗記させます。 電磁気の単元なら、マクスウェル方程式と微分積分が分かっていれば導出できる式を何十個も全部暗記させます。 物理なんて歴史とか暗記が苦手な連中が集まって来がちな分野なのに、高校の物理の授業では、そういう連中に向けて大量の暗記を強制してきます。 こうして、数学はそんなに嫌じゃないのに物理は大嫌いだという高校生を大量生産していた(未だにそうなのかな?)のが当時(20年前くらい)の高校物理の授業でした。 そして大学では、高校で教えている物理は非合理だからと言って、1年生のうちに高校物理を微分積分を使った形で全部勉強し直させています。 すごくアホらしいです。こういうのは本当に早く変わって欲しい。 記憶力の鍛錬は必要かも知れないですが、それなら歴史の元号でも暗記させたほうがよっぽど為になる気がします。
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【新連載】行動経済学から「本能との付き合い方」を学ぼう
NewsPicks編集部
arai h農業 理学
正直、今まで私は何となく行動経済学というものに強い違和感を持っていました。それが何故なのかよく自分でもよく分からなかったけど、今になってようやく分かってきた。そのおかけで、これからはもっと行動経済学について知っていこうと思えるようになるかもしれない。 その違和感というのは、「合理」と「非合理」についての捉え方が、私と行動経済学で全く正反対だったということです。 わたしの中では、合理的な行動というのは多くの人間が同じような価値観や目的でとるような行動のことで、だから反対の非合理な行動に各人の個性が現れるということになっています。 しかし行動経済学ではそれとは逆。 各人は個性的な目的や価値観を持っているから、それに基づいてとる行動は「合理的」な行動。 それに伴わない反射的だったり生理学的だったり人間本性的に現れる行動が「非合理的」な行動で、これはパターンに落ちて同じようなものになりがち、ということになっているようです。 わたしの中では、その「非合理」な行動というのは、特に言語化しようとされてないだけの、身体的心理的な要請で自然に現れる「合理」的な行動とみなしています。 だから、「非合理性」を経済学で「科学」すると言われても、私には違和感しか無かった。科学出来ない部分が非合理性だろうと思っていたので。 普通の人にはこの違いは単に言葉の当て方の違い以上のものには思われないのかも知れないですが、 私には何か、大きな文化圏の違いみたいなものに感じました。 私には、言語化される目的や価値観やモチベーションのようなものに個性が宿るとは、どうにも信じきれなくて。 例えば、様々な研究発表の目的や動機がみんな同じようなものになっていたりするのを見ると、本当にそんなところに個性が宿るのか?とは思ってしまうと思うんですよね。まあそれは、大衆の理解を求めなければいけない「発表」という性質上、ある程度は仕方のないものではあるんですけど。 しかし、これまで違和感を持っていた「行動経済学」に対しての付き合い方というのが少し分かった気がするので、これから少しずつ知っていきたいと思うようになってきました。 それから、もっと価値観や信念の力を信じても良いのかなとも少し思えてきました。
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多子世帯「大学無償化」へ 25年度から、所得制限なし
共同通信
ぎこちない性体験リアルに 若者の危ういネット知識描く ノルウェー公共放送「ライク ミー」
東京新聞 TOKYO Web
arai h農業 理学
まず私は良い歳になるまで、他人を尊重するという感覚がよく分かりませんでした。「尊重」だか「尊厳」だかというような言葉を鼻で笑っていました。薄っぺらい人間がロンダリング的に好むつまらない言葉だと思っていました。 今では私もその辺をある程度は反省していて、尊重というのは大事なことなんだなと、頭では段々と理解できてきたつもりの感覚が出来てきました。 そんな私がアタマデッカチ的に思うこと。他人を愛する、他人を尊重する、他人のアイデンティティを守るということは一体どういうことなのか。 それは、その人のこれまでの歴史・在り方・過ごし方を自分なりに理解して、同じ方向を向いて差し上げるようなことかなと思っています。これまでのその人の「時間」を自分なりに一緒に大切に思うこと。 子どもたちは、まだ年齢を十分に重ねていなくて「時間」の重さの感覚理解が十分でない上に、 学校では時間や歴史や個別性にあまり関係なく成立する普遍的なことこそが大事なのだと教わりがちだと思います。 そしてそのうち、敢えて明確にそのようには言わないけど、それ意外の個別的なことについては大して知ったり学んだりする意味がないと自然になっていきがちではないですか?少なくとも私は、正直結構そんな感覚にはなっていましたよ。 ポルノというのも、その普遍性の方に位置するものと私は思います。多くの人から魅力的に思われるからこそ存在するものですからね。 でもそれだけでは愛や尊重というものからはどんどん遠ざかってしまうということだと思います。 ここでこの監督さんがポルノを批判するのもそういうポイントですよね? 具体的な性教育の内容も大事なのかも知れないけど、まず前提として大事にしなければいけないのは、その辺りの感覚なんじゃないかなと私は思ってますし、 そういう理解があればポルノから悪い影響をうけることなんて大して無いんじゃないかなあと思ってしまいます。 今はやたら「多様性」と言うし、「正しい」性だの愛だのなんてものには疑問をぶつける時代ですから、教育だけでこの問題をなんとかするというのも難しい気がします。 それで返って、そこから外れた私やアイツは穢らわしいだとか、反動でむしろ更に暴力的な方向に行ってしまうとか、またそういうトラウマみたいなものにならなければ良いですが。
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