「幸せとは何か。」飲み会の言語化を試みて失敗した話
トピックス「弱さ考」を書いているNewsPicksパブリッシング(NewsPicksの出版部門)の井上さんと一緒に、トピックスチームのリーダー染原さんの自宅に先日伺う機会がありまして、染原さん夫妻と井上さんとで色々と話をしました。
人間類似性で共感して異質性で成長するもの。似たところがあるとそれだけで好感を持ちますし、盛り上がります。出身地、好きなもの、苦手なもの、趣味嗜好。(例えば私は群馬県出身で学生時代野球をやっていたので、群馬出身とか野球部出身と聞いただけでやたらに親近感を感じてしまいます)。
でも似たところだけだとどんなに話が盛り上がってもあまり発見もないわけで、それだけでは今ひとつ物足りない。発見は異質性があるからこそ。
つまりは類似性と異質性の両方のバランスが大事だと思います。異質性がないと発見も成長できないけど、そもそも類似性がないと話したいと思わない。
そんな感じで、井上さんと染原さん夫妻と私は、(私が勝手に思っているだけの可能性が高いですが)そんな類似と異質のバランスが良い感じで、こんな関係は意外と貴重なのかも、、、と感じた日でもありました。
NewsPicksパブリッシングの「大人に、新しい「問い」を」という問い
その日、何のきっかけかはよく覚えてないですが、幸せとは何かという話題になりました。
そんな時、最近川上未映子の小説にハマり、影響されている自分は思うわけです。そこに出てくる人たちは、深く考える人ほどどんどん追い詰められ不幸になっていく、何も考えないことが一番幸せなんじゃないか(個人の感想です)。
私は腕まくりして熱弁をふるいます。
ただそうなると当然問われるわけです。NewsPicksであり、NewsPicksパブリッシングの「大人に新しい「問い」を」はどうなるのかと。そもそも我々は、その考えるきっかけを作っているのではないかと。
なるほど。。。確かにそう考えると、何も考えないことが幸せというのはだいぶ極端な話で、考えないのは楽であることは間違いないが、それをもって幸せというのもだいぶ違うか。。。思い直しました。
そう、何も考えないことは楽だし、他人に流され翻弄されるのはある意味甘美でもあります。
一方で考える行為は自らの選択であり、それは喜怒哀楽を伴うことです。
喜怒哀楽の振れ幅を広げ、人の器を広げる
誰かに悲しみや喜びをぶつけられた時、その人以上に悲しんだ経験や喜んだ経験がないと本質的に寄り添えないし、その人の気持ちは決してわからないと思います。
つまりその人に本質的に寄り添うためには、相手の喜怒哀楽の振れ幅より自分の喜怒哀楽の振れ幅が大きいことが必要で、その振れ幅のサイズこそが人間の器というものではないか。
あの時に戻りたくないという経験はきっと誰にでもあって(私なんてそんなのばかりです)、ただあの時がなければ今の自分がないという経験も誰にでもあって(そんなのばかりです)、それをいくつ積み重ねたかが喜怒哀楽の振れ幅を広げることであり、自分の場合それが幸せに通じるんじゃないかとも思いました。
ここまで書いてみて、何か結論めいたものがあるかというと、、、
ありません。。。
飲み会の会話の言語化に整合性を求めるほどにナラティブは削がれ、リアリティは失われていきます。
そして何より、人生はそれぞれに固有性の高いもので、誰かに押し付けられた幸福論は基本的に何の役に立たないもののような気もします。
ただそういうことを話せる空間はきっと普遍性を持って大事で、気軽に真剣な話をする場というのはあるようで意外とないものかもしれません。
気軽に話をしようと思うと話題がライトになり、真剣な話をしようとすると何となく雰囲気作りからかしこまる。
そんな気軽さと真剣さの両立できる場があること自体が、つかみどころのない自分の幸せそのものなのかもしれない、と思ったりもしています。
トップ画像:Unsplash(Michael Dziedzic)
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