当事者になる偶然と、当事者でいる意志について(3.11に寄せて)
今年も3.11を迎えます。
東日本大震災から13年。当時の中高生は30代に差し掛かり、当時20代だった若手は40代に差し掛かる。
光陰矢の如し。全員が13年分年を取りました。3.11の共通体験が少しずつ希薄になる中で、今回のトピックスは自分にとっての記憶と記録を接続する、むしろ自分のための記述です。
極私的震災体験
3.11当日、私は福島で被災しました。
当時、自分は企業再生支援機構という官民の企業再生ファンドにおり、その投資先が福島の会津若松にありました。再生計画が承認され、体制変更の機関決定を行い、派遣される常勤の経営チームとして現地入りした直後のことでした。
私のミッションは最長3年間(機構法で決まっています)で、投資再生先の企業(福島県会津若松市にあるバス・タクシーなどの公共交通を担う企業でした)に、常勤役員としてマネジメントラインを持ち経営を行う。そして支援決定の前提となる再生計画を超える結果を出し、次のスポンサーにEXITするまでが主たる職務でした。
そこに、痛恨の震災であり未曾有の原発事故が起きました。
震災から数日間、原発付近の避難区域は、事態の深刻度と同調するように、3km、10km、20km、…と次々と拡大していきました。
自分がいた会津若松は原発から95km。まだ余裕はあったものの当時は放射線が迫ってくる錯覚に陥っていました。思い返せば、自分はその危機感を足元の震災対応に集中することで、精神の均衡を保っていた気もします。勇ましさのかけらもなく内心は戦慄していました。
企業再生経営をしていた企業はバス・タクシー・旅行代理店が主要事業だったのですが、旅行はすべてキャンセル。手数料なしで払い戻し。
高速バスが走る高速道路は、緊急車両しか通れず、収支のめどがつかず。
市内を走るタクシーは震災の影響で電話は一時的に不通。
そして何より燃料不足が深刻で、需要があってもバスが走れない。給油できないので自社タンクで燃料がなくなるタイムリミットも迫る(当然私も家に帰れない。。)
思い返せばその時の自分にあったのは「会社を救うために、あるいは福島に貢献するために何としてもやってやる」という勇ましい思いでは決してありませんでした。
「今この状況にある自分には、もはや逃げ出す選択肢がなくなってしまった。消去法的には腹をくくってやるしかない」という何ともいえない悲壮感だったように思います。
そんな情けない気持ちの一方で、周囲の仲間の平常心である様子に感銘を受け、そんな葛藤の中で必死にジタバタしながら仕事をしていました。
その過程の喜怒哀楽を書き始めると、全く別テーマになってしまうので、そこはまた機会があれば。
そして、いろいろあって3年後、そのジタバタ感が粘りに通じたというか、どうにか再生を果たすことができました。今はEXIT先である、経営共創基盤(IGPI)のみちのりホールディングス傘下となり、更に成長に磨きがかかっています。
さてここからが今日書きたかったこと。
当事者になることと当事者でいること
それから更に10年が経ちました。
最近では、すっかりその当事者としての感覚が薄れている自分にも気づきます。
改めて思うのは、当事者になるのと、当事者である(あり続ける)のは、大きな飛躍があること。
そこをつなぐには強い意志が必要だと思います。
私は再生完了し、帰京した後も年に1回は必ず福島に行くようにしていました。
2011年の夏頃、一時帰宅の被災者輸送をしていた原発付近にも、ようやく2019年ごろ落ち着いたタイミングで行くことができました。
ただそれでもコロナを挟み、ふと気がつくと数年福島と向き合っていない自分にも気づきます。
自分が当事者になったのは偶然でも、そこを離れた後に当事者でい続けること、コミットし続けることは本当に難しい。
放射性物質は見えないから不安でもあり、でも見えないからこそ慣れてしまう。コロナウイルスも同じ。震災への危機管理も同じ。見えないから不安。でも見えないから慣れる。全て根っこが通じるメタファーでもあります。
当事者になるのと、当事者である(あり続ける)のは、改めてとてつもない飛躍があります。でもそんな当事者感であり、自分の人間観や仕事観を作ってくれたのは、間違いなく3.11の危機を自分なりに乗り越えた身体感覚でした。
毎年この日だけ思い出したように震災を言うのも白々しくて、ちょっとここで書くのもやや迷いましたが、いやそんなことどうでもいいじゃないかと。つべこべ言わず年に1日くらいは、誰のためでもなく自分のために福島に想いを馳せ、当事者であり続けたい。改めてそう思っています。
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