39 今年は「中庸」な日本論を。そしてTOKIOは再び飛び上がり雲を突き抜け星になれるのか。

2023年1月22日
全体に公開

 明けましておめでとうございます、と言うには少々遅すぎましたが、チャイニーズニューイヤーとなりますので、良しとしたいと思います。

 さて、今年の1回目の記事ということもあり、少々抽象的かつ大上段にはなりますが、ここ数年間、特に昨年あたりに強く感じていたことを書きたいと思います。前半は固めですが、後半に行くにつれて脱線かつ柔らかくなりますので、最後までお読みいただければと思います。

 タイトルにある通り、今年こそは、「中庸」な日本論が展開されることを期待しています。過剰評価も過小評価もしない、現実を見据えたバランスの取れた議論。コトバンクで「中庸」を検索すると、精選版日本国語辞典に掲載された説明として、以下がヒットします。少々長いですが、引用してみます。

① (形動) どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。中正。中道。※日本書紀兼倶抄(1481)「内典も中道実相ぞ。外典にも中庸を本にするぞ」※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)後「人間万事中庸(チウヨウ)の、ほどよくするはかたくもあるかな」 〔礼記‐中庸〕
② (形動) ふつうであること。尋常であること。また、そのさまや人。凡庸。常人。〔色葉字類抄(1177‐81)〕 〔荀子‐王制〕
③ アリストテレスの徳論の中心概念。理性によって欲望と行動を統制し、過大と過小との両極端の正しい中間に身をおくこと。たとえば、勇気は、理性によって明らかにされた具体的な事情を考えた上で、卑怯と粗暴との中間であるとすること。
④中国の経書。四書の一つ。一巻。子思撰と伝える。「礼記」から中庸篇を独立させたもの。天人合一の真理、中庸を説く前半とその具体的な運用である誠を説く後半に分けられ、先行の儒学説を総合整理して体系化し形而上学的根拠を明白にしている。後世、朱子の編纂した「中庸章句」が多く世に行なわれた。

 若干の意味の幅がありますが、通常、辞書や辞典では解説の1番めに挙げられている内容が広く使われてます。「中庸」には凡庸やふつう、というニュアンスもあるものの、①の内容に従えば、どちらにも偏らない、過不足がない、調和が取れているという意味合いが中心です。

 私がここ数年、非常に気になっていたのは日本をめぐる議論です。数年前から、日本はやばい、だめだという論調が強くなりました。本来は、もっともっと前からもある論調ですが、ここ最近は非常に目立つような気がします。ある種の「日本ディスり商売」まで成り立っているのではないかという、ディスり芸人という感じの論者がいることも否定できません。

 確かに、日本経済の低成長、脱する兆しが少し見えていたとはいえ長期のデフレ後遺症、他の先進国と比べた場合の賃金の低さ、大学ランキングで上位に掲載される学校の少なさ、向上しない英語力など、データという客観的な証拠で証明されてしまうものもあります。

 ただし、一部のデータには読み方に注意しなければならないものもあります。ただし、その注意しなければならないデータのなかでも上位に評価されている国や組織との違いや不足する点は真摯に受け止めなければいけないでしょう。あのランキングはデータのとり方に問題があり、日本に不利なのだ、と切って捨てることは危険です。改善すべき課題から目をそらすことになるからです。

 という問題があるものの、それにしても、何でもかんでも日本がだめだ、という記事やコラムがある種、「売れる」ものになっていることには、危機感を覚えます。日本の問題にも危機感を持っていますが、他方で、「ディスり論調」を書いておけば売れる、という点も危機的です。

 この逆の極にあるのが、「日本すごい論」です。なんだかんだ言われるけども、日本はすごいのだ、素晴らしいのだ、他国にはない特別なものをもっているのだ、金銭価値や経済的価値だけでは測れないすばらしさがあるのだ、という論調です。確かに、私も日本の独特の良さ、素晴らしさは多く感じます。そこには金銭的価値で測れない、かけがいのないものもあるでしょう。

 ただし、「すごい」に目が向きすぎて、課題について目が向かなくなり、日本はこれで良いのだ、という雰囲気も一部に感じます。信じてとにかく突き進めばよいのだ、かならず勝つのだ、という雰囲気に少々近いのではないでしょうか。もちろん、仕事には時にはそうした勢いのようなものが必要な事はあります。それが確固たる根拠に基づく勝算が立てられていれば突き進むべきですが、よくわからない、妙な自信しかない場合は要注意です。(確固たる根拠に基づく勝算が思い込みであることもあるのですが)

 そうしたなかで、私は今年は「中庸」なる日本論が交わされることを期待しています。簡単に言えば、私は「ディスり」も「すごい」もおなか一杯なのです。

 確かに多くの難しい課題があるものの、希望もある。様々、遅い、遅いと言われている動きもあるものの、日本社会にとっての最適解や最適なタイミングもあるはずです。日本は起業しない社会だという言われ方をしてきましたが、若い起業家のみならず、中高年による起業も目立つようになりました。大企業も、「伝統的日本企業」、略してTJC(Traditional Japanese Company)というネガティブな言い方をされることもありますが、着実に改革して成果を上げ始めている企業も出てきています。

 当地まで足を運んで来られる日本人の会社員や起業家との対話をしていると、健全な危機感と明るい未来も感じます。つい数日前には、東京都のアクセラレーションプログラムAPT-WOMEN第7期生の一部の起業家皆さんとシンガポールで対話をする機会がありました。日本経済の超重要課題である、起業とジェンダーという視点から強い希望を感じましたし、それぞれの事業の内容を伺いつつ、シンガポールや東南アジア、中国、インドなどのお話をしていく中で、新たなアイディアが生まれてきました。シンガポールやアジアに進出するというベクトルだけでなく、今回の旅のなかで得られたインスピレーションを日本に事業に生かそうというベクトルも生まれています。(今後、機会をみてお話をした起業家の方については、このトピックスで取り上げたいと思っています) 

 私には起業の経験がありませんので、ローカルナリッジの視点から好き勝手に知見を提供する(放談する?)ことがせいぜいですが、何らかの力添えになればと思っています。ある意味で、私の役割は放談なのかとも思っています。

 さて、この記事を昨晩書いている途中に、Twitterをみたらこんな記事が流れてきました。かつての日本は未来と見なされてきたが、今の日本は過去に止まっており、そこから抜け出せずにいるという指摘があり、個別の論点もその通りと思える内容ですが、最後に古き良き日本への愛着も綴られています。  

  私はこの古き良き日本の要素を残しつつも、「これでよいのだ。日本は独特で特別なのだ」という考えに行かずに、明らかに問題である行政の電子化の遅れといったプラットフォームやインフラを整えつつ、政治や官が民間の新たな試みを阻害しないような規制緩和や撤廃を徹底していくことが第一だと感じています。 

  様々なアイディアを持つ日本の起業家たちや企業たちが、目の前に立ちはだかる規制をクリアするために時間とお金をかけざるをえなかったり、場合によっては断念せざるを得なかったり、という事例は、枚挙にいとまがありません。もちろん、戦略を持ち、政や官がけん引することも大切ですが、現代社会のように、一つの回答がなく、多様性が加速する(というよりも、もともとあった多様性が適切に認識されていなかったところから、適切に認識するようになりつつある)なか、アジャイルな個人と組織の動きが重要な時代では、過度な規制や成立背景が現代とは異なる昔の規制の存在は意味がないどころではなく、害悪でしかありません。

  もちろん、政界や官界を単純に批判するつもりはありません。私が対話した範囲だけでも、真剣に志を以て行動し、着実に積み重ねている方々もいます。このままではいけない何かをしなければ、どうすれば政界や官界は民間経済の活性化をサポートできるのか、そうした意識のもと貪欲に知識を吸収し、一朝一夕では動かしがたい政治や行政を動かそうとしている方々に、中央と地方を問わずお目にかかりました。

  官民政を問わず、個々を見れば希望があるという状況を感じています。こうした希望が、良い意味かつ自己を見据えた形での日本式の変革につながる、そんな2023年だったと、今年の12月には話せるようになっていればと切に願っています。そのためには、奇妙で根拠のない自信に基づく、極端に、どちらかによった立場ではなく、「中庸」に徹して良い点も悪い点も認識し、試行錯誤もありつつも、それぞれの立場から、一歩一歩着実に、次世代へのバトンタッチを常に意識した変革していくことが大切ではないでしょうか。

 そんなときにおすすめなのが、朝ドラの最高傑作として日本のドラマ史に燦然と輝く「おしん」です。このドラマは子供時代の苦労場話が有名ですが、実は見どころは、田中裕子さんが演じた大人になってからのおしんの不屈の起業家精神ではないかと思っています。関東大震災、太平洋戦争と、一個人の力や努力ではどうにもならない破壊的イベントでビジネスをひっくり返されたり、現代とは比べ物にならないほど役割を定義されてしまっていた女性という立場からの起業と失敗と成功。そして、志を共にする善き人々とのネットワークでの助け合い精神。今の私たちにも必要な精神とライフスキルが凝縮されているのが「おしん」です。大正生まれで、昭和と平成を駆け抜け、令和の時代を迎えて他界した脚本家の故・橋田壽賀子さん(1925年~2021年)の手による作品であり、日本社会に向けてこのされた最大の遺産の一つではないでしょうか。

 さらに余談ですが、田中裕子さんの夫は、あの沢田研二さん。名曲「TOKIO」で歌われた東京は、街が飛んでしまい、空を突き抜けて星になるほどの「スーパーシティ」として表現され、かつては世界の未来として位置付けられていたことがよくわかる歌詞です(ついでに言うと、作詞は糸井重里さん)。TOKIOが新しい、現代的な意味での「スーパーシティ」となる日がやってくるのでしょうか。「おしん」の田中裕子さんと、「TOKIO」の沢田研二さんが、1989年という、冷戦の崩壊までカウントダウンというタイミングに結婚されたということが、実は、将来を暗示していたのかもしれません。

 と、最後の締めくくりが昭和丸出しとなってしまいました。ところで、この連載のタイトル、そろそろ変えた方が良いかもしれませんね(笑)

(バナー写真:Tomohiro Ohsumi/Getty Images、東京の初日の出の様子)

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