大人が失ってしまう「99のもの」とは? 〈colum 6 後編〉

2023年11月30日
全体に公開

〈column 6 前編〉はこちら↓

 前編の「志野茶碗」から少し話は変わりますが、1歳の子どものいる知人の家に遊びにいったときのことです。

 知人が、紙パックに入った麦茶を、子どもに手渡しました。子どもはストローを口にする前に、手でパックをギュッと握ったので、ストローから麦茶が飛び出してしまいました。慌てた知人は「あ、強く握っちゃだめ!」と、子どもの手から紙パックを手放させました。

「ストローから麦茶が飛び出した」という結果だけに目を向ければ、知人の対応は当然であり、子どものいる家庭ではよくある日常の1コマかもしれません。しかし、ここでは「紙パックをギュッと握った」子どもの行動を、少し違った視点から考え直してみたいと思います。

 私たち大人は多くの場合、「視覚による情報」や、「頭で理解する知識」によってものごとを捉えようとします。しかし、世界と出会うための入り口は、「視覚」や「頭」だけではありません。たとえば子どもは「五感を通した体験」によって世界に出会い、その成り立ちを理解していくといわれています。

「手」をはじめとする様々な感覚器官は、視覚や、頭で理解したりするのとまったく同等に、ものごとを理解するための入り口であると考えられます。

 このような前提に立つと、知人の子どもの「紙パックをギュッと握ってしまった」という行動も、違う見え方をしてきます。

「自分の力が作用してストローから液体が出てくること」「微妙な力加減によってその勢いが異なること」など、「頭」だけでは学びきれないような様々な事象を「手」を通してこそ学ぶことができる、貴重な機会であったとも考えられるのではないでしょうか。 

 1960 年代にイタリアで発祥し、現在も世界中で採用されている幼児教育の1つ「レッジョ・エミリア・アプローチ」では、その理念を「100 のことば」と題した文章で表現しています。

「100のことば」
前略
子どもは100 のことばをもっている100 の手、100 の想い、話したり遊んだりするための100の考え方

中略
子どもは100 のことばをもっている(そしてそれよりも遥かに多くのことばを)
しかし、その99は奪われる
学校や社会が、彼らの体から、頭を引き離そうとする
そして子どもに言う
手を使わずに考えるように
頭を使わずに行うように
話さずに聞くように

中略
学校や社会はいう
100のことばなんてない
子どもはいう
100のことばはここにあるのに
100 languages, Loris Malaguzzi (translated by Lella Gandini)

 もしかしたら、私たち大人自身も、自分の「体」から「頭」を引き離し、限られた入り口だけを通して必死になにかを考え、見つけ出そうとしているのではないでしょうか?

 「視覚」や「頭」を通して出会うことができる世界と、それ以外の「五感」によって引き出される世界は異なります。「ものの見方」を変えない限り、見つけられないものがあるはずです。

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本投稿は『THE 21』(PHP研究所)の誌上で掲載された連載「ビジネスパーソンのためのアート思考」を加筆修正したものです。

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