イギリスの移民政策と大主教のスピーチ

2023年6月20日
全体に公開

2023年5月10日、すなわち戴冠式翌週の水曜日、貴族院で行われた一つのスピーチが世間を賑わせた。そのスピーチはチャールズ三世に王冠をさずけた、カンタベリー大主教その人によるものだ。ジャスティン・ウェルビー大主教によると、現在、議会において議論されている移民法の改訂案は、道徳的に断固認めることはできないという。というのも、改訂版の移民法は、すべての不法移民を、亡命を申請する人間も含めて、勾留され、母国あるいはルワンダなどの第三国に連行できるようになるからである。

このような措置は、難民の地位に関する1951年の国連の条約から離脱するだけでなく、新約聖書マタイによる福音書25章にある、弱い立場にある人たちに対して憐れみをもたねばならない、というイエスの教えにも反していると大主教はいう。

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大主教のスピーチに対する評価は、当然大きく割れた。一部の左派系のメディアはウェルビー大主教の立場を歓迎する一方で、一部の保守派の政治家は、大主教の立場を現場を理解しない無知な理想主義と揶揄した。

だが日本人からすると、聖職者が議会の構成員であるだけではなく(カンタベリー大主教をはじめ26人の聖職者が貴族院に属している)、国際法に照らし合わせて議論し、かつ聖書の箇所を引用して法案を批判できる、という政治空間がとても不思議なものに思えるのだ。想像してみてほしい。参議院に浄土真宗本願寺派門主や日蓮宗管長がいるだけでなく、国会において仏法の立場から特定の法案を批判するところを!

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法案に関する実際の議論はとりあえず置いておくとしても、このタイミングでの大主教のスピーチには二つの大きな目的があったように思われる。一つは、戴冠式の記事でも記したように、国内の「他者」、あるいは文化・少数派への体制側の配慮を明確にするというものである。

英国国教会は、礼拝への参加者が近年激減しているとはいえ、イギリスにおける宗教的なシンボルの要であり、国家儀礼の中心的な役割を担う。ケンブリッジ大学やオックスフォード大学の代表的なカレッジは、国教会の文化の中にあり、各界のエリートたちはその中で育まれる。その教会の最高聖職者であるウェルビー大主教が、戴冠式という体制側の非常に大きな宗教・国家的なイベントを成功させた直後に、亡命を求める不法移民への道徳的な配慮を進言することは、英国に居住する「他者」に対する憐れみ深いメッセージになりうるのではないだろうか?

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もう一つは、ブレグジットにおいてその頂点をみた移民排斥運動への牽制である。2022年は74,751の亡命申請者がおり、2019年に比べて二倍の数があった。現時点においても、45,000人の申請者がまだ手続きを終えておらず、ホテルなどで待機しているという。それに加えて、2022年は70万人以上の移民があり、前年に比べて20万人以上の増加だったという。

もちろん北欧諸国に比べて、英国における移民排斥の動きはまだそれほど鋭くなっていないものの、近年の移民の増加はそうした動きを加速化させる懸念がある。ある研究によると、排斥運動の母体となっている層は国教会員が多い。ただし、熱心に礼拝に集う教会員にはその傾向はなく、自らのアイデンティティとしてキリスト教をあげる層にその傾向は多いのだという。大主教のスピーチは、そうした層への牽制であり、聖書を引用することで、キリスト教の精髄を明らかにしようとしているようにもみえる。

こうした一連の動きの文脈として、ヨーロッパ諸国における移民排斥の動きがある。ヨーロッパでは、近年、キリスト教のアイデンティティを掲げつつ、とくにイスラム系移民に対する差別的な言動を頻繁にする政治運動が顕著になっている。ある識者は、こうした運動を、キリスト教のアイデンティティにのみ依拠しており、その倫理的な実践や信仰内容を重んじない点から、「神なき聖戦」The Godless Crusadeと呼んでおり、同名の著作のなかで、フランス、ドイツ、米国の極右ポピュリズムの動向を報告している。彼によると、キリスト教の宗教的なシンボルが極右ポピュリズムの影響力の増加に効果的に働いている地域とそうではない地域の違いは、その地域において影響力のある聖職者の言動にあるという。例えば、ドイツのキリスト教会は、自国での移民排斥を徹底的に批判しており、その結果として「ドイツのための選択肢」Alternative für Deutschland などの極右政党によるキリスト教シンボルを用いた支持拡大を妨げることに成功している。

Cambridge University Press

今回の大主教のスピーチは、英国国教会のこれまでの移民に対する憐れみある言動と一貫したものである。それにより国教会は、移民に対する立場を明確にしており、移民排斥の動きを牽制しているといえるかもしれない。ヨーロッパが移民排斥、とりわけムスリム排斥を推しすすめる極右ポピュリズムに席巻されるなかで、大主教の貴族院でのスピーチは英国におけるそうした動きが拡大するのを押し留める一石になるのだろうか。今後の英国における動向を注視する必要がある。

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