カルトより怖い?自己啓発の深い沼①

2023年6月22日
全体に公開

オリバー・バークマンの3冊の本をベースに、自己啓発について考えてみたいと思います。

バークマンは、『地に足をつけて生きろ!』の帯書きで、「「もっと成功しろ」「もっと立派になれ」「もっと幸せになれ」「もっと生産的になれ」「自分自身を見つけろ」という現代の強烈なプレッシャーに対する爽快な反撃の書」と推薦の言葉を寄せています。

こうした現代のプレッシャーに押しつぶされないためにも、自己啓発の光と影について考えておくことが重要なのではないかと思います。

現代も信仰でなりたっている

私がこの記事を書こうと思ったのは、世の中は、もっと信仰に対して自覚的になった方が良いと思うからです。「信仰」というと、過去の遺物、あるいは限られた人たちのもの、という印象を持ちがちですが、現代も信仰に基づいてなりたっています。

確かにキリスト教や仏教といった、伝統的な形での宗教は、特に先進国では信仰率が下がっていますが、何かしらの信仰に近い価値観は未だ社会の基盤になっているように思えます。

カルトであれば、少なくとも信じている本人にとっては自覚的なわけですが、無自覚な信仰は、信仰だと知らずに何かを信じてしまっている、ということなので、むしろ厄介だともいえます。

日本人は「無宗教」か

日本人の多くは、自らのことを「無宗教」だと思っています。「無宗教」というのは宗教に対するアンチテーゼの立場をさしますが、実際には、多くの日本人は宗教を否定するわけではなく、agnostic(不可知)あるいは、仏教、儒教、道教、耶蘇が複合した宗教観だと思えます。(ちなみに、あえて「耶蘇」と表現したのは、キリスト教は、文明開化のもっと以前から日本人の生活に浸透しているのではないか、と思うからです。)

結果、日本人は実に独特な宗教観を形成しています。例えば、食肉加工の現場や動物園などでは、動物の慰霊碑がおかれています。この「慰霊碑」あるいは「慰霊」自体に対して日本人は特に違和感を感じませんが、実は日本人独特の宗教観です。少なくとも、キリスト教圏においては、動物は人間のために創造されたものだと考えられるので、「慰霊」という発想がありません。

資本主義と宗教

見方によっては、資本主義自体が宗教的です。マックス・ウェーバーに依拠するのであれば、資本主義の起源自体がプロテスタンティズムにあります。

そもそも、人々のスマイルなど、本来値段がつけられないところに(例え0円であったとしても)値段を付けているのが資本主義なので、資本主義はある種の偶像信仰だとの見方も可能だと思えます。例えば、マルクスは、貨幣を物神信仰(フェチシズム)と捉えています。

資本主義が宗教であるかどうかはともかく、我々がビジネスや生活に求められる「ポジティブ思考」や「楽観思考」も、実は宗教的な思考です。バークマンは、次のように説明しています。

支配的な宗教といえば、陰鬱なメッセージで知られるアメリカ式カルビニズムだった。信徒には容赦ない重労働を課し、死後は永遠に地獄で過ごすことになっていると説く宗教だが、これに反逆して起こったのがニューソート運動だった。
ニューソートが提唱したのは、人間はそれぞれの精神力によって幸福と世俗的な成功を勝ち取ることができるというもので、これと同根の新宗教である「クリスチャン・サイエンス」によると、この精神力は肉体的な病気すら癒すことができるという。
オリバー・バークマン.ネガティブ思考こそ最高のスキル

あるいは、テック企業においても宗教用語が少なくありません。宗教と無縁だと思われているスタートアップですが、むしろ現代の神にならんとする思想なのかもしれません。

実際、「クラウド」「ウィンドウズ」「アップル」あるいは「グノーシス」など聖書に関するワードが少なくありませんね。この辺りを詳しく話し始めるときりがないのですが、詳しくは佐藤優・宮下規久朗先生の共著を読むとわかると思います。(ちなみに2人ともクリスチャンですね。)

科学の宗教性

宗教と対極的にあると考えられているのは科学ですが、この科学も宗教とは切り離せません。

「エビデンスに基づいている」「論文で証明されている」といわれると、なんとなく信じてしまいますが、これは、聖書に書かれていることだけを根拠に真実と同定してしまう原理主義と、その思考プロセスとしてはあまり変わりません。

本来、研究論文で証明されるような理論は、かなり脆弱なものです。「ある前提のもと、あるコントロールされたサンプルにおける実験結果を、先行研究と結びつけながら仮説的に解釈して行くこと」が研究です。だからこそ研究論文は、本来批判的に読み解くべきものです。批判と反論によって、脆弱性が克服されるのです。

しかし、Yotube(r)が「論文によると」と持ち出さす場合は、多くの場合、こうした前提は無視されます。また、批判的に読み解くところか、権威付けに使われてることが大半です。多くの場合、こうしたYotube(r)は、研究論文を読みこなす訓練さえ受けていません。

また、論文以前に、エセ科学も蔓延しています。「コラーゲンをとると、肌つやが良くなる」的なロジックは、真に受けてしまう人もすくなくないですね。マムシドリンクを飲んだところで、我々はマムシにはならない(なれない)です。

そもそも、科学自体、我々が思ってるほど絶対的な真理ではありません。宇宙のことも地球のことも我々が知っているのは本当にわずかなので、結局、それ以上のことは、信仰的になります。

例えば、量子力学に対して、多くの物理学者が議論に積極的に関りたがらないのは、量子力学が宗教論争に近い価値対立を生みやすいためである、という話を聞いたことがあります。アインシュタインが、量子力学に否定的な立場から、「神様がサイコロ遊びをするとは思えない」と述べたことは有名な逸話ですが、アインシュタインにしても、量子力学を否定するために神様を持ち出しているところに科学と宗教の結びつきが感じられますね。ちなみに、量子力学は、易経にヒントを得ています。

自己啓発に行き着く前に長くなってしまったので、続きは次回書きたいと思います。

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