東京の文化的大爆発

2023年9月22日
全体に公開

この2週間、わたしはコロナ禍以来久しぶりにヨーロッパを訪れていました。シエナで行われた同僚の結婚式に参列することが主な目的でしたが、以前からルネサンスの中心地であるフィレンツェを見たいと思っていたので、この旅を特別に楽しみにしていました。そのため、わたしはフィレンツェに宿泊し、結婚式の開催場所のシエナまで一時間かけて通うことにしました。

わたしはよくシリコンバレーを訪れる来客や友人たちに、これほど多くの並外れた天才や才能あふれる変人たちをカリフォルニアへと誘ったものは何だったのか、と聞かれます。それに対し、わたしはよく「フィレンツェはどうでしょうか?ルネサンス期に才能ある多くの人々がフィレンツェを目指したのはなぜでしょうか?」という質問を返します。

シリコンバレーについてはまた後日お伝えすることにして、今回はフィレンツェに人々が集まった理由について書きたいと思います。なぜならば、650年以上前にフィレンツェにアーティスト、建築家、技術者、哲学者が集結し交流したときのモデルは、この40年のシリコンバレーのモデルよりも、より良い未来を構築する上ではるかに有効だからです。

わたしはまず飛行機でローマに入り、レンタカーを借りてトスカーナ地方まで北上しました。シエナは、高い丘の上にある城壁に囲まれた町で、何マイルも離れたところから見えます。わたしはこの古都の美しさに心を奪われましたが、同時にわたしはエンジニアとして、何世紀も前にこの町を作った人たちの考えを不思議に思い、その動機を理解しようとせずにいられませんでした。なぜわざわざそこに町を築き、高い城壁を作ったのでしょうか?わたしは高台まで運転して登り、シエナの町の外周を車で走ってフィレンツェへと向かいました。

シエナからフィレンツェに向かい始めてすぐに、標高が徐々に下がっていることに気が付きました。すぐ南にあるシエナに比べて、フィレンツェには人を迎え入れるような雰囲気があることに感動しました。なだらかな丘に囲まれたフィレンツェの谷間は、温かく安全な感じがしました。そこには集中や凝縮といった感覚の、人やアイデアを退けるのではなく、引き寄せるようなエネルギーがありました。地理的な特徴という単純な理由によりフィレンツェがルネサンスの中心地になったのでしょうか?それもあるかもしれませんが、おそらくもっと微妙な違いがあったと思います。

シエナは中世の初期に交易と芸術の中心地として栄えました。一方でその頃のフィレンツェは大衆向けの商業の拠点でした。シエナは富を保有し、フィレンツェだけではなくスペインやフランスからの軍事的脅威もありました。そのため、シエナが丘の上を拠点にして城壁を巡らせたのは、防衛のための慎重な行動ともいえます。しかし、ローマ教皇庁の銀行業務の発展とルネサンス文化の勃興、軍事的な脅威も低下するにつれ、シエナの役割はフィレンツェに比べて相対的に下がっていきました。

フィレンツェにも城壁はありましたが、都の大部分は開かれており、長い年月を経て城壁のほとんどが取り壊されていました。12世紀からルネサンス期までの間に、商人、銀行家、職人、工芸人など20以上の専門職業のギルド(訳注:既得権益などを守る団体、組合)が形成されました。富が新たに広く分配され、特に綿や絹のギルドは力をもったため、フィレンツェは地域における創造性の中心になりました。フィレンツェは非常に民主的な文化と市民主導の政治を維持していたため、金融や銀行機能も次第に集まってきました。フィレンツェにおける驚くべき芸術の大爆発に関して、例えば次のように説明されています。これは芸術に限らず、当時の商業についても当てはまるでしょう。

「15世紀のフィレンツェでは、多くの人が自分たちは新しい時代を生きていると信じていました。『ルネサンス』という言葉は16世紀にはすでに使われおり、暗黒の時代からの『再生』を意味するものでした…。イタリアでは、特にギリシャやローマ時代の学問の復興により、ルネサンス文化が発展しました。何世紀にもわたって西洋で失われていた古代の作者による作品が再発見され、人間性や人間の偉業をすべての中心に置く、新たな人文主義の考え方が生まれました。人文主義者は自分たちの都を『新たなアテネ』と呼びました。フィレンツェは非常に強い商業主義であり、独立性の維持と共和制の価値観を重視していました。フィレンツェでの1400年代前半の類まれなる芸術の開花は、たった一つの要因では説明できませんが、建築のブルネレスキ、彫刻のドナテッロ、絵画のマサッチオの貢献は、西洋の芸術に永遠の変化をもたらしました…」

先週の記事でも伝えた通り、わたしの34年間の日本での生活を振り返ると、これらの町と日本との興味深い共通点が見えてきます。シエナの緻密さ、慎重さ、手続きの煩雑さ、そして人を寄せ付けない城壁は、わたしが1989年に大学を出た当時の東京と似た雰囲気がありました。東京にはとてつもないエネルギーとユニークさがありましたが、わたしは完全なよそ者でした。わたしが日本の生活に溶け込むための最も簡単な事柄、たとえば地元のレストランで食事することさえも、抵抗に遭うことがあり、時には拒絶されることもありました。渋谷のような主要な駅ですら、移動するには漢字を読める必要がありました。まるで他の惑星に来てしまったような気分でした。

それから約10年後の1996年になって、わたしがJAFCOで日本のマーケットとアメリカのスタートアップの連携を支援していたときも、東京の部外者に対する敵意を目の当たりにしました。当時は大企業から返事をもらうだけでも喜ぶべきことであり、ましてや面会の約束を取り付けるのは、宇宙に人工衛生を打ち上げるくらいの出来事でした。

2012年にSozoベンチャーズを設立してから10年の間に東京は初期の姿勢からの目覚ましい変貌を遂げ、わたしはずっとその変わりように目を見張っていました。現在の日本は16世紀のシエナというよりも、フィレンツェのようです。非常にオープンになり、教育政策でも個人の能力向上を促進しています(基本的にアメリカで崩壊したシステムの反対です)。

日本企業は他国の企業に比べてかなりグローバルで、新しい市場や文化圏への進出も加速させています。ほとんどの大企業に社内ベンチャーの仕組みがあり、その担当役員は絶えず優秀なスタートアップを探し続けています。今やスタートアップのテクノロジーへの投資や採用に関して、最も積極的ともいえます。これらすべてを含むさまざまな要因により、日本は世界で最も重要なイノベーションの中心都市になろうとしています。フィレンツェは今も昔も建築を愛する都市として知られていますが、日本には別の種類の建築家が集まっています。Web3、クラウド・ゲーミング、AIの構築を行う起業家たちです。

上述の引用によると、フィレンツェの発展を突き動かしたのは、楽観主義や人間中心への野望と同時に、この瞬間の歴史的な重要性を理解する集合的なマインドセットでした。日本は現在、似たような位置づけにあります。ルネサンス2.0と呼んでも、明治維新IIと呼んでもいいでしょう。日本はこの先も世界におけるイノベーションを模索して受け入れ、天才や変人が活躍できるような教育を提供し、世界中から日本で起業したいという最も優秀で面白い頭脳を迎え入れるでしょう。この潮流は日々東京の街中を歩いても明確に感じるようになりましたし、全国の大学や行政のリーダーたちの動きを見ていても明らかです。

東京がフィレンツェと大きく違うのは、最高の瞬間が過去の栄光ではなく、まさにこれから訪れようとしている未来であるということです。

(監訳:中村幸一郎(Sozo Ventures)、翻訳:長沢恵美)
(図版:Unsplash/Alessandro Rossi)

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