僕たちはどうやってJALを再建したのか?⑨ 「客室サービスの改革」編
前回は、本社での更生計画ミッションの後に客室本部に行くことになった経緯を書きました。
今回は、見ず知らずの新しい職場である客室本部に着任した後の僕の動きと、どんな改革を行っていったのかについてご紹介をしたいと思います。
ぼろぼろの昭和建築の社宅に住むことになり、新天地に出社前から意気消沈していたところであったが、引っ越し翌日から成田空港内のJAL客室本部のオフィスに行くことになっていた。
成田の社宅から成田の駅までは2-3キロの距離があり、目の前にバス停があった。
京成グループのバス会社であったが、とにかく運転手さんが怖い感じで、いつも無言、怒っているような雰囲気のバス会社だった。浦安に住んでいる時に使っていたベイシティ交通の運転手さんは親切な人が多かったのとはきわめて対象的だった。
当時はまだ冬で外は寒く、浦安に比べても寒さが肌にしみる気温だった。吐く息も白く、同じ千葉県とはいえ、だいぶ遠くに来てしまったものだと実感した。あとで知ったが成田勤務のオジサマ世代の少なくない割合の人が、浦安から通っていたが、なるほどなと思った。
成田空港に着くと、そこからは電車で10分くらいで成田空港に着く。JRと京成の2つの電車が走っていたので、すぐ来る方に乗るという感じであった。とはいえ田舎なので本数は少なくちゃんと調べてから行かないと駅で待つことになる。というのも成田空港付近ではおそらく土地接収の関係だと思うが単線になっており、すれ違いができない故にダイヤの本数を増やすことができない。
JALのオフィスは成田空港第二ターミナルの一番奥にある。500メートルは歩くんじゃないかと思う。空港勤務は羽田に続いて2回目だが、飛行機に乗るために行くときとは違った雰囲気を感じるものだ。
成田の客室本部のオフィスに到着すると、当日最初にコンタクトしてねといわれていたMさんの所に行った。自己紹介が終わると
「特にこれをやってほしいという具体的なことはまだ決まっていないので自由に考えてね」
という事だった。というのも前任者がいてローテーションで異動したわけではなく、僕の希望でオントップで異動したものだから、引き継ぐことが無いという状況だった。
受け手であるMさんとしても、これまでは必ずローテーションだったのでどうして良いか分からないという困惑している感じだった。
まずやったこと
とはいえ、僕にはあまり戸惑いはなかった。
僕のミッションは倒産によってずたずたになったJALブランドやJALサービスを根本から立て直すことであることを自分の中で決めていたからだ。それでここへの異動を御願いしたという経緯である。むしろフリーハンドで自由に動けるようにセットアップ頂けたことに感謝したほどである。
とはいえ、客室関連の業務は人生初めてなので、空港の時と同じくまずは情報収集として1ヵ月以内にこの組織の今の現状、課題、制約事項を理解するということを最初のステップとした。
であるが故に、まずやったことは徹底したヒアリングであった。組織内の各担当の人全員に自己紹介も兼ねてミーティングを片っ端から入れさせていただいて、一人一人が今何をやっていて、何に悩みを抱えているか、課題を感じているかということについてヒアリングする活動に着手した。
ヒアリングはかなりの方々からお話を伺った。現場側の間接部門の皆さんは全員一人一人と、そして現場の中の現場、通常ラインと呼んでいる部門のライン部長、マネージャーの皆さんからも自己紹介も兼ねてかなりの数のお話を伺った。
見えてきた解決すべき課題の設定
そんな情報収集行って、2-3週間で概ね組織の課題の概要が見えてくることになった。当時のJAL客室本部が解決しなければならないと感じた課題を思い出してサマリして見ると、以下の通りである。
・倒産という経験を通じて多くの人が自信を失っていた。希望の灯台がなくなっていた
・倒産前からコストの切りつめで、とにかくお金がないのでハードはボロボロで現場で何とかしろ、という風潮に疲弊していた。象徴的な言葉として「私たちには常にタケヤリで戦えと本社から言われているように感じている」という意見があった。
・本社は現場の状況を分かっているのだろうか。全てお金換算で考えていないか、という本社への疑心暗鬼があった
・一方で、現場側も実際に「こうありたい」という理想やゴール像があるわけではなか、決められたことの中で精いっぱいやる、という形で、サービス提供に関するクリエイティビティは失われていた
・組織として一丸となって目指すゴール設定が無かった(除くコスト削減)。スタートアップで例えれば売上目標は「がんばれ」しかなく、コストだけは切り詰めていこうという風潮であった
・供給者側視点は長年の経験値があるが、実はお客さま側の視点をほとんど持っていなかった
こうした課題があることを認識した僕は、まずは目指すべきゴールの設定を行うことを次の自分のミッションにしようと決めた。現代風にいえばミッション、ビジョン、バリューの設定というところだろうか。とはいえ当時はそんな言葉は流行っておらず、僕がまずやろうと考えたことは誰もが共感できるシンプルな戦略ゴールの設定であった。現場の一人一人がそれを聞いた時にワクワクし、何としても達成したいと感じるような熱意のこもったゴール設定をしようと考えた。
何が正解なのかと、とにかく思案をし続けた。大体の場合、僕がじっくりと物を考える場所は自分が想いに耽られる場所であり、それは主に風呂とトイレだった。風呂とトイレで目を閉じながらいろいろと考えていくと、ある瞬間に突然に「コレだ」、というアイデアや構想が脳裏に振ってくることが多かった。特にこのJALの客室本部にいた時はこうした天から何かアイデアが落ちてくるような感覚を感じる瞬間が多かったように記憶している。
この大目標設定について、いまだから正直に話すと「コレだ!」と思った場所はトイレの中だった。トイレでその事ばかりを考えていた時に、自分の脳裏に「世界No.1」という言葉が沸いてきた。
JAL客室本部の究極目標の設定
倒産したばかりの会社=地に落ちてしまった状況の会社が世界No.1だなんて、と自分でも思ったが、何か基軸を定めればNo.1のポジションは絶対に取れるはずだと考えた。
上記に書いたような組織の意識上の課題もあったわけで、ここは一気に大胆な方針を打ち出さないと人はついてこないと考えた。そこで僕が出した結論は、
『エアラインの商品サービスのクオリティで世界No.1になる』
ということだった。更生計画の策定であれだけ苦労してダウンサイジングをしたこともあるし、そもそも固定費ばかりの不可逆なエアライン事業で売上や規模、路線数を追いかけることは僕には完全にナンセンスだった。
しかしサービス品質、顧客満足を追求することは、お客さまの日本航空に対するロイヤリティを高め、価格の多寡にかかわらず「JALに乗ろう」と思って頂けるようになるはずだ。
更に異動してから1か月近く情報収集で現場の皆さんと話している中で確信したことがあった。倒産というつらい時期を経たけれど、今も変わらず、多くの客室乗務員の社員はお客さまに楽しんでもらおう、少しでも快適に過ごしてもらおうという強い熱意を持っていることである。
武田信玄も「人は石垣、人は城」といったものだが、パッションの強い人たちが集まれば必ず何か大きなことは達成できるものである。
この熱量のある組織なら、少なくともエアラインとしてのサービス品質世界No.1は十分に達成できるというガッツフィーリングが僕の中にあった。
そして、僕はJAL客室本部の会社更生後のゴール設定を「世界No.1戦略」と銘打って、ラインの全メンバーに浸透させることからアクションを開始した。
組織を揺さぶる。
— 鈴木大祐 @ソニーベンチャーズ/Sony Innovation Fund/Sony Ventures (@SuzukiDicek) January 16, 2023
倒産直後のJAL客室本部で、僕は「JALはエアラインで世界No1を必達する」
という目標をぶちかました。
根拠は無かった。
しかし現場5千人が倒産=>世界No1というギャップに逆に皆心揺さぶられ、凄まじい勢いで改革が進んだ。
そして本当に5スターを取った。https://t.co/4AeL88SHOF
いろいろと反論が出るかなとも思っていたが、この世界No.1戦略は想像以上に好意的に受け止められていた。
「私たちが世界一を目指していいなんて、夢みたい」
「こういう北極星のような目標を求めていた」
「早期退職の声掛けで私なんて要らない人間なんだ、と思っていたのにこんな明るい未来を追いかけることができるなんて」
といった非常に前向きな声をたくさんもらった。それを聞いて僕も「これはいけるな」という強い感触を得た。
現場へのロビイングを進めながら、僕はその世界No.1というものをどう達成するかという具体的なアクションプランの考察を進めていくことにした。
主な内容としては
・自己位地の正確な客観的認識
・ベンチマーキングによる他社と自社の比較
・広義の他社も含めた気づきの収集
・チームアップ、ベクトルあわせ
・施策への落とし込み(ハード・ソフト)
という柱である。
さて、今回も長くなってきたのでこれらの詳細についてはまた今度にしたいと思います。
更新の通知を受け取りましょう
投稿したコメント