僕たちはどうやってJALを再建したのか?③ タスクフォース編

2022年6月25日
全体に公開

今回は前回の羽田空港編で、羽田空港での改革を推進している最中に、突然招集がかかった「JAL再生タスクフォース」との日々を、JAL社員目線で振り返ります。

おそらくこうしたお話は初めて語られる内容かもしれませんが、なるべく客観的に、かつ、社員目線というこれまで語られていない視点で本稿を書けたらと思います。

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外はまだまだ暑い晴天の青空が広がる2009年の夏の終わりであったが、羽田空港内の整備場にある自社ビル内の社員食堂にて、その時所属していた羽田空港地上係員のチーム全員での打ち合わせ及びその後の懇親会をしてみんなでワイワイフライドポテトやらチキンやらを食べている最中に、ライン部長のKさんから大切な話があるからちょっと来てほしいと部屋のはじっこに呼ばれた。

すでに役員さんと話はしてあったのでタスクフォースの件だ、とは想像はついていたが、内容はとても急な話で、「急遽本社に行ってほしい」と言われた。

それを私に伝えた部長のKさんは、人事部からその一言の「鈴木さんをJALビルへ今すぐ送れ」という伝言しか受けておらず、彼自身もその時は何のことなのかわからなかったそうだ。

空港で使用していたロッカーや会社備品等もそのままに羽田での仕事は Last Dayとなり、送別会も何もなく、本社に異動となった。ロッカー内の私物は後から郵送されることになった。ロッカーの中に変なものを隠していなくて良かった。

この部長のKさんも僕たちのJAL再生日記では重要な人物である。Kさんとはそれからもずっとお付き合いがあり、JALをやめた後もご自宅に招いて頂いたりもした。そして再建中もKさんのおかげで、僕が構想した関空・中部空港改革を成功することができた恩人である。

羽田空港を後にして機装ビルから東京モノレールに乗って本社に向かった僕は、いよいよ当時の国交大臣が送り込んできた「JAL再生タスクフォース」と呼ばれる人達に対峙することになるのだった。

天王洲JALビルの最上階にて

当時国土交通省を管轄していた前原大臣が、「タスクフォースチーム」をJAL内部に送り込むと発表した。今でこそ、それに至る経緯がいろいろなメディアで公表されているが、当時は日々話が動くような状況で誰も正確に現状を把握できている人はいなかったかもしれない。

とりあえず詳細は分からないが、外から多くの人が来て、JAL側でもその受入態勢を作る必要があるということで、「本社の各部署からマネージャー職以下の精鋭だけを集めよ」というオーダーがJAL経営陣に届いたそうだ。

さらに、「部長やシニア管理職は外せ」というJALからすると戸惑いを隠しきれないことを要求された、という話を聞いた。

当時の国交大臣が、JAL社長が前日に説明した再建策を「実現可能性、或いは時間軸について不十分だ」として、そのうえで、「1日でも早く本来あるべき自主再建案をまとめるためにタスクフォースを立ち上げる」と発表した。ちなみに、「タスクフォース」とはもともと軍隊用語で、特殊なミッションを遂行するための専門部隊のことを指す用語である。

とりあえずJAL側の僕たちは何が何だかわからない状況ではあったが、とりあえず指定された本社最上階の役員フロアに向かった。

役員会などを行う重厚な部屋がある最上階は普段は一般社員はあまり行くことは無かったが、そのフロアにある少し大型の会議室に全員集められた。役員会議室は重厚な絨毯とテーブルやカンファレンスシステムがあるが、その横の大きな部屋はライトは黄色みのある高級感のあるライトだったが、一般的な事務用の大きめの会議室だった。

その部屋に僕がついた時には、前原大臣が送り込んだ「タスクフォース」チームと、彼らが雇ったコンサルや弁護士などがかなりの数集まっていた。そこに、JAL側で選ばれた45歳以下のJALタスクフォースチーム20名程が集まっていた。その中で僕は最年少のメンバーだった。

会場ではそのタスクフォースのメンバーが、今回の経緯を説明した。内容については上記の通り、報道の通りであった。ただ、最後にいまでも記憶に残るコメントがタスクフォース側のリーダーの方からコメントがあった。

「これからのJALは私たちが作る。今までの経営陣や上司は、もはやあなた方の上司ではない。今後、ここで起こることのすべての情報は上司への報告、共有はしてはならない。」

日本の会社で、特に国策企業が発祥であった日本航空においては、このような発想はまったくもって異例の事態であった。そこにいたJAL社員のだれもが大きな戸惑いの表情を見せていたように見えた。

JALという会社は今でもそう思っているが、真っ直ぐで温かい人たちの集まる会社である。部長や役員もそういう温かい人たちの集まりである。みんなで一緒に週に一回は飲みに行ったり、お昼に一緒にラーメン次郎品川店に行ったり、週末に飛行機でどこかに一緒に行ったり、そういう公私の深いお付き合いのある会社だった。

外資系の企業やプロフェッショナルファームだとどちらかというと平日には会社の人には会いたくないと考えていただ人も少なくないと思う。ゴールドマンもそんな雰囲気だったように思う。社内ではいつオフィスに急に入れなくなったりしたらどうしようか、とみんなどこかで不安を感じながら、どう自分を守るのか、みたい視点が強かったかもしれない。

JALでは過去何十年も一緒に過ごしてきて、いろいろな思い出や絆がある上司部下の関係がある中で、ある日突然関係を断つように言われたので、大きな衝撃があったはずだ。僕はプロフェッショナルファームの生き方とJALの生き方の両方を知っているので、このギャップがどれほど大きなものかを、当時あの場所で唯一客観的に俯瞰できた人間だったかもしれない。

今でこそ、タスクフォースは1ヵ月でJALビルを去ることになったことを皆知っているが、あの日最上階に集められたメンバーはこれがいつまで続くのか、むしろ大臣が送ってきた重要チームなわけで、JALからすると頭の上がらない神様のような存在、あるいは戦後日本におけるGHQのような存在であったので、今後永遠にこの体制に変わるのではないか、という前提でJAL側のメンバーはとにかく慎重に様子をうかがっていた。

JAL側のメンバーには基本的には重要な情報共有は無かった。確かに企業再生、とりわけ100%の債権者同意を取らないといけないADRプロセスにおいては、情報管理は極めて重要なので、タスクフォースチームがそのように動いていたことは理解できる。JALのシニアメンバーに情報が伝わったら、どこかに情報が洩れるだろうという懸念をしたことも理解はできる。

標準的なADRプロセスの流れ

https://www.meti.go.jp/policy/jigyou_saisei/kyousouryoku_kyouka/adr/jigyousaiseiadr_gaiyo_R3.pdf

とはいえ、JAL経営陣からすれば、家族や子供がいる多くの社員の運命がかかっている状況に対して、自分達は目隠しをされてしまって何もできないという現実は非常にもどかしかったとも思う。

タスクフォースチームチームによるADRプロセス

タスクフォースチームが来たその日にはこれから一体どうなるのか、誰にも分らなかった。文字通り、何もしなければJALは資金ショートして倒産するという事実だけが目の前の共通認識として存在した。

実際には以下のように9月25日からほんの1か月でタスクフォースの活動は完全撤収になったわけだが、初日の説明会を聞いている僕たちには、果てしなき道のりが始まるような気持だった。

タスクフォース発足に至るまでの経緯

https://www.mlit.go.jp/common/000987884.pdf

タスクフォースチームがきてまず僕は、タスクフォースチームが再建計画を作るための、DD(Due Diligence:資産査定)のQA対応のJAL側の取り纏め役をかってでた。

DDの対応はゴールドマン時代に散々担当したジュニア業務であり、おそらくJAL社内の誰よりもプロセスハンドリングには長けている自信があった。そして何よりも、DDの様子や質問を見ていれば、相手の考えや思惑、先方の理解度が透けて見えてくる。

今はベンチャーキャピタリストの仕事をしているが、スタートアップ企業から「ちゃんと自分達を分かってくれている質問をしてくれて嬉しい」と言って頂けることがある。DDでの質疑は、単に質問をしているだけではなく、会社=会社の信頼関係を構築するプロセスであるといっても過言ではない。

タスクフォースは早速初日からフル稼働でDDを開始した。文字通り「千本ノック」状態で、かなり初歩的な質問からたくさんの質問が飛んできた。それを僕は担当部に振り分け、それをまた集約して整合性を取ったうえで外部タスクフォースメンバーに戻すということを日々繰り返していた。

ドラマ・半沢直樹ではタスクフォースは完全なる悪役として描かれているが実際には、あそこまでの悪役の感じでは無かった。ひたすらにプロフェッショナルファームの集団という印象であった。

ただ、銀行団で良くして頂いている方達からプロセスの最中もちょこちょことお話は聞いていたが、銀行団との交渉においては、タスクフォースチームは銀行からかなり厳しいコメントや詰めをうけ、サンドバック状態であったということだった。タスクフォース側にもJAL側には見えない苦労や水面下の交渉があったと思われる。

定期的に本社の会議室にタスクフォースチーム+銀行団で、ADRの計画の進捗を報告する会議が設定され、多くの人が集まっていることをJAL側は部屋の外から見守っていた。

タスクフォースチームに対して、当初はJALメンバーは恐怖感は強かったと思うが、一方でどこかでこの人たちがJALを復興してくれるのかもしれない・・と、内心期待する気持ちもあった人もいたかもしれない。

しかし、タスクフォースと銀行団の交渉が始まると、「どうもうまくいっていないらしいぞ」という情報が至るところから聞こえてくるようになっていった。

ADRという性質上、仕方がなかったとはいえ前述のような情報遮断スタイルでの仕事の進め方ではタスクフォースとJAL社員、タスクフォースと銀行の間には信頼関係が築かれることは極めて難しかった。僕はこれが一連のプロセスがうまく機能しなかった理由だと分析している。この時の反省を活かしてなのか、その後にJALにやってきた企業再生支援機構(ETIC)のメンバーは、タスクフォース方針とは180度逆に、JALメンバーを信頼する戦略をとっていたことも興味深かった。

タスクフォースチームはJAL側メンバーにはほとんど情報を開示せず計画を作っていく方針であった。しかし、大手航空事業の知見がなかった為にやはりJAL側のインプットが必要ということになったのではないかと推察をしているが、少しずつではあるが情報を共有する方針に途中で変わっていったと記憶している。とはいえ、紙面を配ることはせず、数字も伏せてあり、口頭で言及するというやり方であったと聞いている。

タスクフォースが来てから2週間くらいで骨子は固まり、銀行説明が始まることになったわけだが、タスクフォースチームが作成した計画は、元々のJALが作っていた計画の焼き直しにもかかわらず、債権だけは大幅カットされている計画のように銀行団には映ってしまったようだった。

事業計画はあまり変わっていないが、ADRで再建放棄というプランだとすると、銀行団からすればもともとのJAL計画の方がより現実的またはベターな案に見えたのかもしれない。

銀行団とJALは、それまで「5行会議」ということで重要銀行を定期的に集めて事業計画を説明しているので、各銀行のご担当のJAL事業への理解度は相当高かった。結局国際・国内を運営する巨大なエアライン事業という大変特殊な事業を、外から急に入ってきて2週間程度で再構築することはそもそもどんなスーパーマンであっても不可能だった、ということだろう。加えて膨大なバランスシートの資産査定を行い、実質債務超過額を検証すること自体に強烈な負荷がかかっていたことも確かだと思う。

結局のところ、タスクフォースがJALの中にいる間には、それまでのJAL計画以上のものが作られることはなく、当初計画のまま、銀行団に債権放棄を依頼する、ということになった。当初のJAL案については、航空機燃料税や空港使用料を通じた社会資本整備事業特別会計空港整備勘定への資金納入負担の減免、銀行の返済猶予などで当面の資金繰りを確保しつつ、並行して、複数の資本提携や公的支援で資本増強も進めていこうというものだった。一方で、タスクフォースチームは債権放棄を軸とする再建案でADRをすすめた。ADRは債権者が一人でも反対したら失敗となる。

これまで銀行側は散々見てきたJAL計画では少なくともリスケはしてもらうがちゃんとお返しします、と言っていたものが、前原大臣の名前の元で突然とにかく再建放棄せよ、ADRだから全員同意せよと言われたものなので、銀行団が納得できなかったことも当然の結末だったかもしれない。銀行の方は「進め方が強引すぎる」と苦言をつぶやいていた。

もう一つ、心理的にタスクフォースとJALメンバーが融和できず、バラバラになってしまったことは再建後の人事案だったと思う。会社経営陣について、タスクフォースは西松社長以下現経営陣に経営責任をとって辞任するように求め、さらにタスクフォースのメンバーを役員にするよう求めたと報道されている。加えて、JAL内部から40歳代の執行役を登用する方針を打ち出してた。外資系等ではそうした人事は受入れらるかもしれないが、当時は年功序列でこれまでやってきたJALであったので、これまた当然ながら凄まじい反発を多くの人が感じていたと思われる。

そんな一連の出来事があり、結論として銀行の同意はまったく得られなかった。そしてそのままタスクフォースチームはあっさりと解散することとなった。タスクフォースチームが去った後には、委託したアドバイザー企業からの請求書だけがJALに残っていた。タスクフォースチームの人件費は無償であったが、それ以外は有償ということだった。それは僕たちからすると想定外だった。

「タスクフォース傘下の人員が当初計画の3倍以上、延べ100人規模に急増し、その経費が10数億円以上となり、ほぼ全額を日航が負担させるため、同社の財務への影響も懸念される」というメディア記事も流れた。こうしたメディア記事はなかなかのインパクトで、各生産本部から「取引先からJALは大丈夫なのか?このままJALにいろいろ納品しても、ちゃんと支払われるのか?」という信用不安に関する相談が増えているという報告が増えたということだった。

タスクフォース解散後に流れた記事

https://diamond.jp/articles/-/1561

当時の記憶を呼び覚ますと、確かに「大祐、こんなのが届いたぜ・・」と請求書の一つをJALメンバーが見せてくれたのを覚えている。正確な数字は覚えていないが、かなりの金額だったと記憶している。なぜ、お金が苦しいJALがこれを払わないといけないのか?これは大臣が急に決めたことで結果もゼロだったわけだから費用は国が負担するべきではないのか?とJAL側の誰もが思っていた。しかし追いつめられていた当時のJALにとっては、払う以外選択肢はなかったのだろう。送金自体の最終結論を僕自身は見届けていないので、実際に払われたどうかは定かではないが、「まな板の鯉」ならぬ「まな板のJAL」だったのだろう。

タスクフォースの方々も、僕たちJAL側には見えないところでJALのために必死に動いてくれていたのかもしれないが、残念ながら僕達にはそれはあまり届いていなかったかもしれない。

ビジネスもなんだかんだで人・対・人で物事が進むことが本質であるが故に、一番のうまくいかなかった原因としては、タスクフォースチームからJALやJAL社員への愛や信頼関係を感じることができなかったという点だったかもしれない。

それは単にタスクフォースチームがプロフェッショナルすぎたということかもしれないが、組織や人を動かすには、特にJALのような会社を動かしていくには、信頼関係や愛情という定量化できない要素が実は大変重要だった。プロセスの時間がタイトすぎたことが原因だと思うが、各社の思惑や生き方がずれたまま走ってしまったことで、いろいろなボタンの掛け違えがあったのかもしれない。そうした点が後のドラマ作者からのJAL社員への取材においての雰囲気につながり、かのドラマにおけるタスクフォースの描写とつながったのかもしれない。

僕たち独自のJAL新再生計画の策定へ

そんな経緯でタスクフォースは一か月ちょっとで去っていったわけだが、前述した通り、タスクフォースが来て2週間もすると、「このままだとJALは再建できないかもしれない」という不穏な空気が日に日に強くなっていった。

そんな毎日だったので、単にDDの対応だけしていてもJALは本当につぶれてしまうという強烈な危機感が僕の中に生まれた。幸いDDを通じて、僕自身がJALの事業やPLの構造を十分に理解することができた。そこで、僕はJALが本当に再生できるJAL再生計画を、ゼロベースで考えて作り直すべきだと、強く考えるようになった。

良く外部からは「赤字路線は撤退すべき」、などと言われるが、エアラインの路線収支はそんな単純ではない。不採算路線から撤退したところで、既に買ってしまった機材と、それを運航させるために雇った従業員はそのまま残る。他にもっと儲かる路線があれば路線の倒し換えをすればよいが、正直なところ日本発着の路線で儲かるけれどまだ路線が張られていないところなど存在しなかった。(燃費の良い中型長距離機材の787で一部黒字化可能な新規路線は生まれたが)

また、エアライン事業の特性であるが、機材費や成田・羽田といったハブとなっている空港の諸経費等は、路線の飛距離等のロジックで配賦(案分)している。

したがって、一つの機材で複数路線を運航している場合には、見た目の収支が赤字だからと言って、その路線を切ってしまうとその機材費が残った路線に多めに再配分されて各路線のコストベースが上がり、結果としてそれまで黒字に見えていた路線も赤字になってしまうことがある。路線計画は赤字だからきればいいというほど単純ではない。乗り継ぎの相乗効果もある。実際はとても複雑に絡みあっている。

当時の僕はドライな外資証券から転職してきて、しかもゴールドマンでも目の前で強烈な組織再編を実行したことを見てきたので、JALの労使問題や現場マネジメントの大変さについて、当時は理解が全く足りない無知そのものだった。逆に言えば、ゴールドマンで見てきたことは、JALでもできると当たり前のように当時は安易に考えていたかもしれない。

ゆえに、JALの倒産を何とか回避し、ゼロから利益重視の事業計画・新再生計画を作るべきだという信念が生まれた。もちろん僕一人では無理なので、信頼する一部のJAL社員の人達に声をかけることにした。

一番最初は、JALビル二階のエレベーターホールで、当時のJAL計画を纏めていたシニアの方に、上記の僕の考えを率直にぶつけ、新再生計画案のコンセプトを話してみた。

すると「面白いじゃん、やろうよ」と言ってくれ、すぐに機材、路線、販売に長けた40代働き盛りのメンバーを集めくれることになった。10月の頭頃の出来事だったと思う。

そうしたJAL社員の人達は頭の切れる人が多く、おそらく理屈でと頭の中では本当はどうすべきかは分かっていたのだと思う。ただ、労使の大変さや、また現場で毎日を過ごしてきた仲間の顔を想うが故に、これまでは必要な一歩が踏み出せなかったのだと僕は理解している。

たまたま20年ぶりの中途採用で外から来た僕が無邪気に本来目指すべきことを言い、またJALを取り巻く状況がいよいよ緊迫していたという状況が重なり、この新事業計画案の策定有志チームは動き出したということかと思う。こうして、タスクフォースメンバーとはまったく関係ない動きとして、僕たち独自でそうした活動を開始することになった。

少し骨子が固まってきた10月の終わりくらいに、そこで何を話したのか記憶が残っていないのだが、タスクフォースメンバーの部屋に何かの用事で行ったことだけは記憶がある。「僕たちは独自にこんなことをかんがえていますよ」と概念だけはお伝えしたのかもしれないが、いずれにしても結果としては僕たちの案、すなわち最終的にJALを再建することになった「新・JAL再生プラン」はタスクフォースのプランに入ることは無かった。

さらに、タスクフォースと並行して国側では抜本的なJAL再建策として、政府内で政府ファンドの活用と同時に会社更生法を使う案、新しくできた企業再生支援機構(ETIC)の活用案が浮上していた。

本来はETICは中小企業を支援する目的で作られたが、「まさか最初の案件がJALになるとはおもってなかったよ」と後でETICの皆さんは口々に言っていた。

タスクフォースメンバーはある日を境に、本当に突然撤収した。そして数日後にETICのメンバーが来る、という情報も同時に入ってきた。またタスクフォースみたいにことになるのか、、とメンバーの多くが不安を抱えていた。

タスクフォースが去ってから、ETICが到着するまで数日の間があいていたが、ものすごく静かな数日間だった。

ただ、その間にもとにかく今できることとして、新しいJAL再生計画を僕たち有志メンバーは検討を重ね、数字に落とし込む作業を続けていた。

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次回 はETICメンバーがJALにやってきて、そこからETICメンバーと連携しJAL再生計画を策定を進めていった様子について書きたいと思います。

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