宇宙物理学者の最終講義

2022年4月2日
全体に公開

数週間前、学生時代の指導教官の最終講義があった。

宇宙物理学者の前田恵一さん。早稲田大学理工学術院の名誉教授だ。

(前田さんは「先生」と呼ばれるのを好まず、学生にいつも「さん」付けで呼ばせていたので、ここでも前田さんと呼ばせて頂く。)

日本の宇宙物理学の先駆的な存在である林忠四郎・京都大学名誉教授(1920~2010年)の弟子の1人で、ブラックホールや膜宇宙論など多岐にわたる理論研究で活躍してきた研究者だ。とりわけ、重力への関心が深い。

前田恵一さん。2019年夏、ベトナムであった国際会議で撮影(写真:本人提供)

コロナ禍のため、定年退職から1年後の実施となった最終講義は、教室でのリアルな受講とオンラインのハイブリッド形式で行われた。私と同じオンラインの視聴者の中には、懐かしい名前もたくさんあった。

すでに古希を迎えていらっしゃるはずだが、画面越しに見る前田さんの姿や声は学生時代の記憶とほぼ変わらない。一瞬、タイムスリップしたような感覚に陥った。

初めて知る指導教官の来し方

大学教授の最終講義と言えば、研究の道のりや思い出、人との交流や学問の思いであることが多い。前田さんも、高校時代のアインシュタインの特殊相対性理論との出会いや、物理を学びたい一心で京都大学に入学してから、どのように研究者としての人生を切り開いてきたかを語った。

アルバート・アインシュタイン(写真:Public domain)

考えてみると、私は博士課程には進学せずに卒業したこともあり、これまで前田さんの来し方について深く知る機会はなかった。初めて知る話が多く、特に、前田さんが博士号取得後、イタリアやフランスなど海外の方々の研究室に滞在し、人脈を広げつつ実績を積んでいった経緯は印象的だった。

時は1980年代。まだEメールもなく、行きたい研究室があればまず先方に手紙を送ってセミナーの開催を打診するような時代だ。何をするにも今よりも格段にハードルは高かったはずだが、その武者修行の間に、前田さんは国際的に注目される論文を書き、高次元宇宙論など当時のホットな研究テーマに挑んでいく。

前田さんのシャイな人柄との良い意味でのギャップに引き込まれつつ聴いていると、もう一つの意外なエピソードが明かされた。1987年の春の出来事だ。

もう一つの超新星爆発?

この年の2月23日、大マゼラン雲でビッグイベントがあった。超新星爆発という、重たい星がその最期に起こす大爆発だ。「SN1987A」と名付けられたその超新星は、数カ月にわたり肉眼で見えるほど明るく輝き、天文学界の話題をさらった。

爆発時に放出された膨大なニュートリノのうち11個は、可視光の届く数時間前に、日本の観測施設「カミオカンデ」で検出された。太陽系外の天体からやってきたニュートリノの世界初の観測となり、実験を率いた小柴昌俊・東京大学名誉教授は2002年、ノーベル物理学賞を受けている。

関係者たちの興奮がひと段落した4月1日、新たなニュートリノ観測を知らせるEメールが、日本から世界の方々の研究機関に発信された。今度は、はくちょう座の方向に出現した超新星「SN1987B」から放出されたニュートリノが、10秒間に1073個も観測されたというのだ。

英文で書かれたメールの各文の最初の文字と、連名の4人の発信者の名前の頭文字をつなげると「APRIL FOOL(エイプリルフール)」となっている。前田さんたちが居酒屋で思いついたという、手の込んだ悪戯だった。

「その日のうちにジョークであることを連絡しましたが、少しびっくりした人もいるらしいですね」

前田さんは愉快そうに振り返った。

変わらない容姿の理由

定年後、趣味に打ち込もうという人は多い。前田さんの趣味は、推理小説、上方落語、日没の撮影。すべてに共通するのは「落ちがある」ことだ。

Photo by Sergio Mena Ferreira on Unsplash

だが、数ある「落ち」のあるものの中で前田さんが最も心惹かれるのは、やはり重力なのだという。

「今までになく重力の研究が熱くなっているので、なかなか(研究を)やめにくい」と言い、興味がある課題として重力波天文学やダークエネルギーを挙げた。

早期リタイア(FIRE)を目指す人も増えている時代。定年後も同じ仕事を続けようという人がどれだけいるだろう。個人的には、「生涯一学者」でいたいと語る前田さんのような生き方が素敵に思える。

ちなみに、冒頭で触れた変わらない容姿については誰もが不思議に思うようで、前田さん自身、よく周囲の人に理由を聞かれるのだという。

そんな時の前田さんの答えは「私はブラックホールの近くに住んでいるからね」。

映画『インターステラー』でも描かれているように、強い重力のそばでは、時間の進み方が遅くなるのだ。重力の魅力にトラップされた物理学者ならではのジョークである。

Photo by Guillermo Ferla on Unsplash
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