自分がみじめだって、気づかなかった【鬱地獄生還記1】

2022年12月19日
全体に公開

弱さとは「強さの欠如」ではない

「制御できないこと」。連載「弱さ考」第0回で表明した僕なりの「弱さ」の定義です。

この定義は、自分自身を制御できない僕にとっての生々しい実感でもあり、かつ、僕個人のミクロな日常を、NewsPicksが扱うマクロな「経済」へと架橋するためのものでもあります。
初回『「強さ」の時代に、「弱さ」の話を。』

僕の「制御できなさ」は鬱という形で表出しました。

鬱とは、会話・読み書き・思考などの能力を一気に失っていくプロセスです。当たり前のようにできていたことが、いつの間にかできなくなっている。そしてどん底期、僕はほぼ完全な「無能」状態となりました。そして回復の途上、僕の頭にはある疑問が浮かんでいました。

自分は、能力主義の社会で戦ってきた。しかし、以前は見えかなかった人の「弱さ」が見えるようになってきた今、ただ前のシステムに戻るだけでいいのか? また「強く優秀なリーダー」を目指すのか? 

そんな疑問から、復職後、僕はNewsPicksのパブリッシングチームに加え、ユーザベース全体のD&I(Diversity&Inclusion)チームのメンバーにもなり活動しています。

弱さは単なる強さの欠如、つまり「劣った状態」ではない。しかし、経済のロジックはときに弱さを排除する。であれば、「経済情報」を扱うユーザベースこそ、どこよりD&Iを実践しなければならないのではないか。そんな思いもありました。

そして、D&Iの活動の一環として、「言語を失った編集者が地獄で学んだこと」というタイトルで自分の経験を全社プレゼンをする機会をもらったんですね。

今後この「弱さ考」では、能力観、経済観、学び観、「わたし」観など、様々な常識に対して弱さという足場から挑戦します。ただ、それらすべての土台となるのは、ここで語る「偶然性の哲学」から派生する人間観・人生観・世界観。ここが、「弱さ考」のゼロ地点なのです(弱さと偶然性がどうつながるのかは、お楽しみに…)

だからもう、そのままの形でシェアさせてください。というわけで、

おもむろにプレゼンスタート

※プレゼンスライドの字が小さくてごめんなさい。画像見なくてもおおよそ意味がわかるようになっています

さて、まずは自己紹介。僕は「経済の真ん中から経済を変えていく」ことをモチベーションに、2019年にNewsPicksに入社します。しかし2021年、鬱により休職。2022年に双極性障害と共存しつつ復帰し、D&Iチームのメンバーとなりました。が、D&Iチームが様々な取り組み(イベントや記事)を発信しているにもかかわらず…まだまだ届き切っていない! なぜか? それは、「自分ごと」じゃないからです。

理由はシンプルで、NewsPicksのタグライン「経済を、もっとおもしろく」的な視点から言えば「おもしろくない」から。正しさだけでは人には伝わりません。だから、僕は今日はD&Iを「もっとおもしろく」します。

さて、その前に。D&I(Diversity & Inclusion)ってなんなんだ、と。そこから始めましょう。直訳すれば「多様性と包摂」です。ただ、今日に限っては、こう定義させてください。

「私たち」の遠くにいる異質な「彼ら」と共に生きること、だと。

ちなみに、「異質さ」は、ジェンダー、国籍、民族、価値観、宗教、障害(ユーザベースでは「Diversability」と呼びます。読み上げ機能を考慮し「害」は漢字で表記します)……いろんな属性で考えられます。

あと、仕事してたらあるじゃないですか。「あの人の考え方、マジで意味わかんない!」とか。そういう考え方の違いだって、異質さのひとつです。

さて、本でいう第一章です。なぜ、D&Iはこれほど難しいのか。

今日は「なぜD&Iは広がらないのか」から考える、という変わったアプローチをとります。

まず、意識しないといけないのは「D&I」って、人間の本能に反するんですよ。

どういうことか。

人間は、社会的な動物です。そのため、「こいつは味方か敵か」を瞬時に見極める能力がとても高い。そして、味方だとわかれば包摂し、敵とわかれば排除するのです。

人類はこの性質を、長い進化の過程で発達させてきました。これを「内集団バイアス」と言います(NewsPicksパブリッシング『ブループリント』も参考になります。担当:富川)。

そもそもこの「身内びいき本能」を備えた人間が「多様性、つまり異質さを包摂する」。

僕たちはまず、それが「ふつうにやると無理なんだ」と自覚するところから始めなくてはならない。

人類は今まで、どうやって「多様性と包摂」を実現しようとしてきたか。

一言で言えば、理性の力によってです。

しかし、現実は厳しい。実際、今、世界中で移民の排斥・ポピュリズムが活発になっているわけですよね。

だから今日は、全く新しいアプローチを追加したいと思います。

一言でいえば、バイパスを通し、壁を飛び越えるのです。

どういうことか?

理性から偶然性へ

焦点は、「理性から偶然性へ」のシフトです。

つまり、「理性の力によって『私たち』の輪っかをどこまでもグググググ〜と広げ、『彼ら』を『私たち』側に包摂する」という方法だけではなく

「私は、あなたでもありえた」

「あなたは、私でもありえた」

という偶然性、交換可能性の感覚を養っていく、ということです。

「?」って感じですよね。大丈夫。こちとら、曲がりなりにも書籍編集者ですから。つまらんとは言わせんよ。

では、第二章。そう、今日は僕自身の当事者体験も交えて語るんでした。

昨年8月、僕は鬱の診断を受け会社を休むことになります。実は僕、レーベルの創刊で走り続けてきたこともあって、数週間単位で、3回抑うつ状態で休みをもらっていたんですね。でも、「何が本質的にまずかったのか」を理解しないままに復帰してしまっていた。

今ならわかります。結局、僕の「本質的にまずかった」点は、「強く優秀なリーダー」であろうとしたことでした。

「強み」をパンパンに膨らませて、「弱み」はつぶして丸めて、背中に隠そうとした。「えーん、助けて〜」ってメンバーに泣きつけばよかったのに、それをしなかった。

今の目標は「弱くてごきげん」です。なんかいいでしょ?😎 

さて、懲りずに4度目の休みに入った僕は、このあとなだらかに、しかし深く深く、「地獄」へ落ちていきます。その中で起きたのが、青色の「ハンバートハンバート事件」ですね。

なぜ、涙が止まらない?

この「事件」なんですけど、ある日、自転車こぎながらSpotifyを聴いていたら、ふと流れてきたハンバートハンバートというユニットの「虎」という曲に号泣してしまったんです。曲を聴いて泣くなんて、人生で一回もなかった自分が。

どんな曲かというと「歌手として誰かの心に響く歌を、一曲でもいいからつくりたい。でも何をどうやっても、なんにも生まれない」と昼からやけ酒をかっくらう歌。一言でいうと「惨めさ」の歌です。

僕は、この「世間だけが前に進み、自分だけが止まっている」というメッセージに、感情移入が止まらなくなってしまった。

そこで号泣してはじめてきづいたんです。

ああ、僕は、鬱になった自分のことを「惨め」だと感じていたんだな、と。

それまでは、100%ビジネス的な「課題解決脳」で、「あっそ〜、鬱がまたきたのね。ふ〜ん。どうやって治してやろうかな?」みたいに思ってました。自分で「制御」できるとどこかで信じていたんですよね。

でも、何をしたって治らない。というか、どんどん悪くなっていく。

しかも、号泣するまで、「惨めさ」という感情を自分が抱えているそのことにすら気づいていなかったんです(何かを「できない」ことが決して惨めではないのだと、のちに気づくことになるのですが)。

僕は、「常に前に進まなければならぬ!」という「成長のナラティブ」を当たり前のように生きてきた自分に、ここで初めて気づきます。

さて、「ナラティブ」ってはじめて聞く方が多いと思います。このプレゼンの超重要単語なので、簡単に説明させてください。

辞書的には「物語」や「語り」という意味ですが、ここではそれに加えて「人が世界を認識するための枠組み」という意味で使っています。

僕のケースで言えば、ずっと鬱に対して「抵抗」のナラティブを生きていたんですよね。どうやっつけたろうかと。

でもそんな中、療養中のとある日に友人に会ったんですよ。その友人は、末期癌なんです。でも彼女は「受容」のナラティブを生きていた。

ジタバタしない。ただ淡々と1日1日を充実させて、生きている。僕は鬱ひとつでこんなワタワタしてるのに。

彼女はあと1年半と余命宣告されているんですよ。にもかかわらずいつもと変わらぬ彼女でいる。ただそれだけのことが、どれだけ難しいか。僕は彼女のその「あり方」にやられ、2度目の号泣をしました。そして、僕自身のナラティブも、彼女の影響によって抵抗から受容に書き変わっていきます。

もし「ナラティブ」という言葉についてピンとこなければ色眼鏡のようなものだと思ってもらえばいいと思います。

鬱前の僕は「成長」の色眼鏡で、鬱の初期は「抵抗」の色眼鏡で、そして今は「受容」の色眼鏡で、世界を見ている。

どの色眼鏡をかけるかで、世界のあり方はまったく変わります。

僕も、あなたも、全員がかけているけど、自分ではその存在自体になかなか気づけない

そんな「世界を見るための色眼鏡」こそがナラティブです。みんなかけてます。裸眼の人はいないんです。

さて、僕は下降期の坂を転げ落ちる過程で、一つ、また一つと能力を失っていきます。

シンプルにほぼ何もできなくなるのが「地獄期」です。言語が脳内に浮かんで来ず、何ひとつ考えられない。

ちょうどこんな感じで、海の底に肉体が延々と沈んでいくイメージだけが脳内で毎日繰り返されてましたね。

地獄の鏡に写っていた醜い自分

僕が地獄で苦しみとともに学んだのは、「自分の傲慢さ」でした。

ここは画像を読んでください

上のスライドについて一つ大事な点を補足すると、僕は青字で書かれたような、愚かで傲慢な人間にはなりたくないと常々思ってたんですよ。それなりに本も読んできましたから、むしろ「自分は謙虚だ」という自信すらあった。その「謙虚だという自信」こそが、「最大の傲慢」でした。

地獄の底に降りて鏡を見たら、そこには「謙虚さ」という化けの皮が剥がれた、見るに堪えない醜い姿が映っていたんです。

次回へ続く)

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