時間と仏教経済学(後半)~善き仕事とウエルビーイング~

2023年8月27日
全体に公開

時間と仏教経済学(前半)」では、カイロス時間、すなわち私たちの内面で感じる時間の尊さに焦点を当てました。人は有限の時間で生きる宿命にあるものの、私たちは日常の喧騒に追われ、まるで永遠に続くかのように過ごしてしまいます。このあわただしい時の流れの中で、常に忙しく仕事の遅れに悩み、日々を追われる私たちが感じる時間は、日に日に短くなっていきます。

時間はルールメイキングの理解において、とても重要です。時間なくして生産はできません。時間は貨幣経済の流れ、つまりお金を生み出し、我々はそのお金を「エクスペリエンス」や「ジャーニー」といった価値ある瞬間に投資しています。このサイクルには、時間が必須です。

先日、年金手帳を確認する封筒が私のもとへ届きました。開けてみると、一目で目を引く宣伝が:“給付開始を延長すれば、増額プランの特典が!

年金は私たちの安心な老後を保障するものですが、ここにも“時間”が持ち出され、私たちの命と引き換えの賭けが仄めかされているように感じました。わずか2世紀前、欧米では命の保険をかける行為は、賭博(ギャンブル)とみなされて道徳的に禁止されていました。今では誰でも自分や子供に生命保険を掛けるのが常識となっています。常識がどれほど時代と共に変化してきたかを示す良い例です。

生命保険は私たちに対するリスクの補償を約束しますが、そのリスク計算には時間が深く関わっています。生命保険にも、時間は欠かせない要素であることは明らかです。

東京のビル群 2020年のネイチャー誌の報告では現在、人が作る生産物は地球の人以外の生物が生み出す生産物を上回っている。 UnsplashのLouie Martinezが撮影

欧州出張から帰国するたび、私は日本のビルの様相に微かな違和感を覚えます。日本の多くのビルは、生産性を最優先として、機能に直結しない装飾は最小限で、ある意味薄々とした印象を受けます。興味深いことに、米国からの帰国時には、その違和感は覚えません。中国や東南アジアの最近の都市のビルも、日本や米国と類似の雰囲気を持っています。

2020年にネイチャー誌に掲載された論文によれば、20世紀初頭の人工物の総量は地球の生物が作り出す物質のわずか3%に過ぎなかったものが、120年後の2020年には、地球の生物総量を超えてしまったというのです。この大部分はコンクリートを使用した建築物であり、都会のビル群は人類の大量生産思考の象徴とも言えるでしょう。

上陸すると束の間の財のはかなさを感じることができます。 端島にて筆者撮影

今年の春、長崎市でのG7保健大臣会合の際、私は長崎の端島、通称「軍艦島」として有名な人工島を訪れました。この島は、2015年に世界遺産に登録され、かつては三菱が八幡製鉄所のエネルギー供給のために築き上げ、日本の先進的な炭鉱都市として繁栄していました。しかし、脱石炭の動きと共に、1974年に炭鉱は閉山され、島は無人となりました。

私が足を運んだ2023年は、廃坑からは約50年が経過しており、島の建造物の多くは風化や老朽化が著しく、かつての栄光を偲ぶことすら困難な状態でした。ほぼ崩壊の瀬戸際にあるコンクリート製のビル群は、残酷ながらもかつての美しい面影を感じることはできず、時間の経過と自然の力の前に、人間が生み出す大量生産の建築物が如何に儚いものであるかを痛感させられました。

しかし、先日訪れたカンボジアのアンコール遺跡群は、その20倍の“時間”が経過しているにも関わらず、風化の影響を受けつつも建設当時の美麗さを保ち続けていました。このような建造物の美しさの違いは、何に起因するのでしょうか。思えば、多くの世界遺産の建築物は、産業革命や資本主義経済が台頭するよりもずっと前の時代の産物であることに気付かされます。

昔の人々は、現代の経済学の枠組みに縛られることなく、短い時間で大量生産され消費される一時的なものよりも、生産の効率性より長く使われることを前提とした永続的な価値を持つものを重視していたようです。当時、ものづくりには時間が掛かり、その当然性が反映されていたのかもしれません。

私たちが真に価値あると考えるのは、一時的なものか、永遠のものか、その答えは難解です。私の周りは一時的なもので溢れており、かつて豊富だった永続的な価値を持つものは少なくなっているように感じます。これは真に人としての豊かさと関連しているのでしょうか。

永遠の美を感じさせるアンコール遺跡群  バイヨン寺院にて筆者撮影

戦後の荒廃した日本は、「より早く、より大きく、より多く」をスローガンに、1980年代には世界第3位のGDPを持つ経済大国へと飛躍しました。トヨタ方式をはじめ、徹底的なオートメーションと分業を追求し、高い生産性と質の高い製品を低価格で提供する日本の生産システムは、世界から注目される存在となりました。それは、団塊の世代の方々から伝え聞く、日本の輝かしい過去の記憶です。

自由経済市場の成長には、絶え間なく利益を追求し、全てが消費される商品である必要がありました。この束の間の財には、コストは価格を下回ることが求められ、大量消費が前提です。消費されないものはGDP成長に寄与しないため、前述の日本のビルの風貌もこの大量生産・消費の文化が反映されているように感じます。

学校教育は私たちの根本的な価値観の形成に影響を与えます。かつて、日本の学校教育は戦後の復興を支える人材を供給する目的で設計されていたと言われています。子供たちに、経済成長に必要とされる、生産性を高める技術や知識、そして道徳が教えられました。

私が読んだある書物によれば、技術や制度を欧米から導入して急速に経済を成長させることが求められた日本において、指示された通りの実行能力と調和を重視する道徳を持った人材の育成は不可欠だったという見方が書かれています。

経済の停滞を経験する中で、日本は「学ぶ」ことの本質を「考える」ことにシフトさせ、伸展から革新への対応を求められる教育が必要とされています。ある意味において、過去の教育アプローチは現状の停滞を打破する障壁となっているように感じられます

私たちは「何を学ぶ」よりも「何のために学ぶ」を重視する教育への変革を迫られています。それは表面的には簡単に思えるものの、実際には難しい課題です。伝統的な教育は「知識」をテストで評価することが容易でしたが、新しい視点からの教育の評価は明確な基準が存在しません。

巨大主義とオートメーションの経済学は、十九世紀の環境や思考の遺物であって、今日の問題を何一つ解決する力がない。まったく新しい思考の体系が必要になっている。モノではなく人間に注意を向ける思考の体系が求められているのである(モノは後から次第についてくる!)その思考の精髄は「大量生産ではなくて大衆による生産」と言えるだろう。
EF.シューマッハー著 スモールイズ・ビューティフルより
そして、成功そのものがかえって災いになる。社会全体がこの悪に染まると、目を見はるようなことはできても、日常生活の一番基本的な問題を解決できなくなってしまう。国民総生産は急速に増えるだろう。統計の数字はそれを示すのに、生きた人間の実感はそれに従わず、人々はますます挫折感、疎外感、不安感などに襲われるようになる。やがては、国民総生産も成長を止める。科学・技術の進歩が止まるからではない。社会の中で圧迫されている層だけではなく、大きな特権を持つ層の中にも、さまざまな現実逃避の形をとった反社会的行為が広がり、これがじわじわと社会を麻痺させるからである。
EF.シューマッハー著 スモールイズ・ビューティフルより
E.F.シューマッハーのSamall Is Beautiful(1973)

善き仕事

1973年にシューマッハーが「Small is Beautiful」で紹介した仏教経済学は、当時の自由主義市場経済学に挑戦的な新しい考え方として注目を集めました。自由主義経済学が「最大の消費で最大の幸福」を追求するのに対し、仏教経済学は「最小の消費で最大の幸福」を目指す観念的幸福の追求であり、現代のGDP中心の価値観に対する深い疑問を提起していました。

国連がGDPを国の繁栄の指標として採用し、多くの国々が欧米の経済学者の理論に従って大量消費を繁栄の証と捉えた時代、日本もその流れにのって経済成長を遂げました。この過程で、犠牲となったのが、労働者の大切な時間でした。

GDPを指標とする経済成長は、私たちの物理的・精神的な欲求を満たしてきました。世界的に平均寿命が伸び、日本では平均寿命がこの1世紀でほぼ2倍に増加し、「人生100年時代」という言葉まで誕生しました。科学技術は経済成長の原動力となり、私たちが24時間活動する社会を可能にしました。

この延長された時間がイノベーションを助け、高度な医療、コミュニケーション、輸送、そして居住環境の改善を実現してきました。そして、後期高齢者も身体的に快適な生活を送れる環境が整いました。

東南アジアの都会から離れると、過去の困難な生活環境を思い出させる場面に遭遇します。それは高齢者にとって非常につらい環境です。これはGDP至上主義の社会が私たちにもたらした恩恵の一つだと思います。

欧米発の自由主義は、日本においても自由、多様性、そして平等の価値を広め、家制度や階層社会からの精神的な束縛を解放しました。これにより、個人は人生の主役として、自らの意志で選択を行いながら生きる社会が可能となりました。

しかしこの自由な時間が、新たな難題、未来の幸福や不幸への選択への不安や悩みをもたらしました。自由と平等の精神が広がることで、以前は気にしなかった他者との格差を意識し、妬みや羨望のような感情も生まれやすくなりました。実際、米国の研究では、教育水準と幸福感が負の相関を示しています。

社会の進歩や科学技術の進化が問題を解決する一方で、新しい課題をもたらすのは避けられないようです。これも、“時間”に対する意識を持つ私たち人間の独特な課題とも言えるでしょう。

機械化には二種類ある。第一は人間の技能と能力を高める機械化であり、第二は人間の仕事を機械という奴隷に引き渡し、人間をその奴隷の奉仕者にしてしまう機械化である。
EF.シューマッハー著 スモールイズ・ビューティフルより

産業革命以降の機械化の進展により、短期間での大量生産の効率性が重要とされ、大量生産・供給・消費を基盤とする社会が生まれました。その裏で犠牲となったのは、機械に仕事を奪われ、農村から都市へと移動を余儀なくされた労働者たちでした。

産業革命は労働者の仕事の質を大きく変えることになった。 UnsplashのMuseums Victoriaが提供

家内工業の衰退に伴い、かつて時間を自由に使い、自分の技と誇りを持って仕事をしていた人々の職業への誇りや楽しみは失われました。工場労働は単調な作業が中心となり、人々の価値観は賃金を得るための時間の消費へと変わりました。多くの人々は週末を待ち望み、労働せずに賃金が得られる環境を求めるようにりました。私自身も若い時は、そのような思いを持った労働者でした。

いま、東日本大震災で被災した福島の原子炉の汚染水の海上放出がアジア的な問題となっています。テレビのインタビューで福島県の漁師が語った一言を忘れることができません。

「なんでも保証すればよいということではないんですよ。私たちは海に出て魚を取ってそれを売るという、やりがいのある仕事をやってきているんです。その仕事のやりがいを奪われる、というのが一番つらいんです。」

私たちの仕事の質は変わっていくのだとうか。 UnsplashのEvangeline Shawが撮影

2020年1月、中国の武漢でコロナの感染拡大が始まる直前、世界中の経済指導者が集まるダボス会議では企業の株主至上主義からステークホルダー至上主義への転換が議論されていました。議論の中では企業の従業員も重要なステークホルダーとして位置づけられ、その「仕事の質」の向上も関心が寄せられました。

仕事のやりがい、ワークライフバランス、従業員の健康と福祉(ウェルビーイング)の強調が増えました。現在、労働の価値観は大きく変わりつつあり、多くの人々がただ時間を消費する労働から、有意義な時間を得る“善き仕事”を求める方向へと移行しています。2019年秋に発足した職場の栄養改善に関するアライアンスは有名です。

現代の経済学者は「労働」や仕事を必要悪ぐらいにしか考えていない教育を受けている。雇い主の観念からすれば、労働はしょせんひとつのコストにすぎず、これはどんな方法をとっても限りなくゼロにしたい。労働者の観点からいえば、労働は「非効用」である。働くということは、余暇と楽しみを犠牲にすることであり、この犠牲を償うのが賃金ということになる。したがって、雇い主からすれば、理想は人を雇わず生産することであるし、雇人の立場から言えば、働かないで所得を得ることである。
EF.シューマッハー著 スモールイズ・ビューティフルより
労働の質や経済格差、貧困の解決に向けた多くの国際会議が開催されている。 UnsplashのMathias Redingが撮影

数年前、YouTubeでホセ・ムヒカ第40代ウルグアイ大統領の国連演説(2015年)を発見し、彼が「世界一貧しい大統領」とも評されることから興味を持ち、視聴しました。彼の言葉には深い哲学があり、人生の初めに物質的な富を追い求め、後に真の価値を理解する自身の体験を通じて、現代の価値観を痛烈に批判していました。これには深く感銘を受け、何度も再生しました。

後に、シューマッハーの書籍と出会い、仏教経済学の考えに触れることができました。この書籍は多くの疑問に答えを提供してくれました。最近、私はSDGs関連の国際会議に参加する機会が何度かありましたが、残念ながらシューマッハーの思想を超えて発言する参加者にはまだ出会っていません。

仏教経済学は、現在、モノの先に人間開発、GDP(Gross Domestic Production)からGDW(Gross Domestic Well-Being)への移行といった、いままさに、世界で議論されている課題の根っこを解決する道を示しているような気がします。

GDPを押し上げることが幸せであるという、ハツカネズミの足踏み車のような幸せを追い求める時代からどうやって次の価値観を作っていくのか。皆さんも、私たちを豊かにし活力を与え、人生にとって意味のある、“善き仕事”に時間を使う、そんな働き方について考えてみませんか?

仕事というものは性質が正しく把握され、実行されるならば、仕事と人間の高尚な能力との関係は、食物と身体の関係と同じになるだろう。仕事は人間を向上させ、活力を与え、その最高の能力を引き出すように促す。仕事は人間の自由意思を正しい方向にむけ、人間の中に住む野獣を手なずけて、よい道を歩ませる。仕事は人間がその価値観を明らかにし、人格を向上するうえで最良の舞台となる。
規律正しい仕事だけが持っている、人間を豊かにし、活力を与える要素が重要である。

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