感覚ナッジ事始め

2024年3月12日
全体に公開

今回は感覚科学(センサリーサイエンス)について紹介します。感覚科学とは、文字通り感覚を科学的に研究する学問で、私たちが外の世界を認識し、理解するために行う全てのやり取りを研究対象とします。

この分野は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といったいわゆる五感の情報入力のメカニズム、脳内でのこの情報の処理(イメージ化や意味付け)、そして嗜好や感情、運動といった情報の出力までを広範囲にわたって扱います。最近では、外界を検出するこれらの五感に加え、身体の内界を感じ取る自律神経系の情報入力も研究対象に含まれるようになっています。仮想空間のような新たな環境下では、感覚科学の重要性はさらに増しています。

感覚は私たちの生活空間を知覚する基盤であり、多くの産業が感覚研究と密接に関連しています。これには、食品や日用品を扱う企業だけでなく、自動車、建築、家電、エンターテインメント、外食産業、さらには銀行に至るまで、ほとんど全ての業種が含まれます。日本においても、味の素花王トヨタパナソニックソニー野村不動産ゼンショーMUFGといった企業が感覚科学を活用していることは、これらの企業のウェブサイトを覗くだけで明らかです。

個別の感覚に関する研究は過去100年以上にわたって進められてきました。そして、情報科学の急速な発展により、個々の感覚から得られる情報の組み合わせ、すなわち、感覚間の相互作用から生じる総合的な知覚を解明する新たな研究分野が開かれました。これは、視覚と味覚、嗅覚と味覚、聴覚と味覚、触覚と味覚、またはこれらの複数の組み合わせを研究する、感覚のクロスモダル研究として知られています。

食感覚のクロスモダルの世界の交差点、オックスフォード     筆者撮影

オックスフォード大学のクロスモダル研究

オックスフォード大学は、食に関わる感覚の交差、すなわちクロスモダル研究の分野で世界をリードしています。この大学の実験心理学科に所属する研究チームは、食感覚とその他の感覚の融合に関する革新的な研究を推進しており、そのリーダーは実験心理学者のチャールズ・スペンサー教授です。

彼は、2014年に発表された「The Perfect Meal: The Multisensory Science of Food and Dining(錯覚の科学)」の著者であり、この書籍を通じて、感覚のクロスモダルがどのように私たちの認識と日常生活に深く関わっているかを、私たちに示しています。この研究室が行っている数々の食関連研究は、食べ物の味わい方に革命をもたらす可能性を秘めています。

ケース1: 料理の最適な提示角度

この研究は、味覚と視覚のクロスモダルの影響を探るもので、1万2千人以上の参加者を対象に行われました。特定の角度で提供された料理がより魅力的に見えること、そして消費者がその料理に対してより高い価格を支払う意思があることが明らかにされました。

この研究の着想は、ブラジル人シェフのアルベルト・ランドグラフの料理を見た時に、スペンサー博士によって得られました。彼のV字型に並んだオニオンピクルスが特定の方向を向いている料理の場合、料理を3.20度時計回りに回転させると最も魅力的に見えるという結果が得られました。

ケース2: おいしいクラッカーの作り方

味覚と聴覚のクロスモダルに基づく研究で、クラッカーの理想的な構造が6層であることが発見されました。この構造は、サクサクした食感、適量のチーズ、甘味、うま味、そして食べ物の音と見た目に重点を置いています。この完璧な組み合わせが、味覚だけでなく視覚や聴覚を含む五感を刺激し、究極の食体験を提供します。

食感覚のクロスモダル研究は理想的なクラッカーの食べ方まで教えてくれるそうだ。  UnsplashのKenrick Millsが撮影

ケース3: 料理と音楽のマッチング

700人以上の参加者を対象にしたこの研究では、異なる音楽ジャンルを聴きながら様々な料理を試食し、味を評価しました。ジャズが寿司と、ロックがインド料理と相性が良く、ポップスが中華料理をより美味しく感じさせることが判明しています。これは食事と音楽の組み合わせが、感覚間の相互作用による錯覚、すなわち「クロスモーダル現象」を引き起こすことを示しています。

幼いこ炉からの五感の記憶は、レストランの料理のおいしさに影響を与えている。   UnsplashのLeo Rivasが撮影

ケース4: 飛行機内でトマトジュースが好まれる理由

これは、味覚と聴覚のクロスモダル現象に関連しています。機内は通常、85デシベル以上の騒音があり、この高い騒音レベルはうま味を除く他の味覚の感度を低下させることが知られています。このため、機内の騒音環境がトマトジュースのうま味を相対的に強調し、人気が高まる一因となっています。次に飛行機に乗る際には、トマトジュースを試してみてください。また、この現象は、パチンコ屋やナイトクラブなどの高デシベル環境で提供される食事にも応用可能です。

トマトジュースのおいしさは騒音の影響をうけることなく、飛行機の中で人気を集めている。  UnsplashのMaks Styazhkinが撮影

ケース5: カトラリーと食器の重さが食事の質に与える影響

味覚と触覚のクロスモダル研究では、カトラリーや皿の重さ、種類、色が食事の評価に影響を与えることが明らかにされています。これは、食事体験において食品以外の要因が重要な役割を果たすことを示しています。特に、高品質のフォークやスプーン、そして皿は、ある程度の重さのために食事の満足度を高め、食品への支払意欲にも影響を及ぼします。この知見は、特にテイクアウトが増えた現在、飲食業界がカトラリーや皿の選択にもっと注意を払うべきことを示唆しています。高品質のカトラリーと皿を使用することで、食事体験が格段に向上する可能性があります。

私もよく感じるのですが、コロナ渦でテイクアウトが増えたときに、デリバリーの紙やプラスティックの皿やストロー、スプーンで食べる食事の物足りなさの原因の一つなのかもしれません。最近は、飛行機のエコノミーの食事や低価格の店でも、ちゃんとしたフォークやナイフ、そして器を用意するところが増えているような気がしますが、飲食業界では、客の食体験を高めるために、カトラリーや皿の選択により注意を払うべきかもしれません。カトラリーの見た目や質感は予想外においしさや満足感に大きな影響を持っている気がします。

私たちの味覚はスプーンやナイフの丁度良い重さでセッティングされている。    サンセバスチャンで筆者撮影
私たちは、さまざまなパラダイムと技術を使用して、さまざまな異なる感覚様式 (聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚) にわたる情報の統合を研究します。 この刺激的な研究分野は、私たちの感覚に対する見方を変え、脳の理解に重要な新しい洞察をもたらします。 

これらの洞察は、現実世界に大きな影響を与える可能性があります。伝統的に、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の五感は、心理学および神経科学の研究者によってそれぞれ個別に研究され、私たちはこれらの感覚の作用を多く知っています。 ただし、ここ数十年のうちに、それぞれの感覚の交錯の影響(クロスモーダル インタラクション)に関する研究が進んでいます。 これらの研究は、それぞれの感覚内の初期の処理でさえ、他の感覚がもたらす情報によって影響をうけることを示しています。
オックスフォード大学クロスモダル研究チームのホームページより引用。  Google翻訳
私たちは、多感覚知覚における注意の役割に関連する質問に特に興味を持っています。 私たちの研究の多くは、「ゴムの手の錯覚」や「羊皮紙のような錯覚」などの多感覚錯覚の調査に関係しています。 私たちはまた、多感覚による知覚の理解を消費者心理の設定でどのように利用して、日常の物体 (食べ物や飲み物など) の知覚を改善できるかを調査することにも興味があります。 

さらに、車の運転中に携帯電話で話す能力の注意力の制限を研究するなど、他の応用的な設定でも研究を行っています。 最後に、私たちの研究室で関心が高まっている分野の 1 つは、情報の時間処理と感覚信号の同期に関するものです。このようなケースを見るだけでも、感覚のクロスモーダルに関する研究は、私たちが食品や飲料をどのように認識し、味わうかについての理解を深めると同時に、食品科学、デザイン、マーケティングの分野における新しい可能性を開くことがよくわかると思います。私たちの感覚は単独で機能するのではなく、互いに深く結びついており、この相互作用を理解することは、より豊かな食体験(イーティング・ジャーニー)を創出する鍵となります。
オックスフォード大学クロスモダル研究チームのホームページより引用。  Google翻訳

感覚科学とナッジングの融合

ナッジ

そこで、最近出てきているのが感覚ナッジ(Sensory Nudge)という新しい研究領域です。ナッジという言葉は皆さんもおなじみだと思いますが、英語で「軽くつつく、行動をそっと後押しする」という意味の言葉で2017年にナッジ理論でシカゴ大学の行動経済学者リチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したことで、アメリカの企業を中心に急速に世界的に広まっていきました。現在では、多くの企業のマーケティング戦略で利用されるほか、イギリスやアメリカを中心に、日本の公共政策でも使われています。

ナッジ理論を生み出した行動経済学の歴史は、1979年までさかのぼることができ、ダニエル・カーネマンともうひとりの心理学者、スタンフォード大学のエイモス・トヴェルスキー教授の両名が行動経済学の祖とされています。トヴェルスキーは1996年に59歳の若さでこの世を去ったため、カーネマン氏が2002年に「心理学的研究から経済学、特に人間の判断と不確実性の下での意思決定に関する洞察を統合した」として、ノーベル経済学賞を受賞しています。

行動経済学の名著、ファースト&スローを読んだ方も多いと思います。この書物の中で私たちは2つの過程を通じて日常の意思決定の仕組み(二十過程理論)や、プロスペクト理論について学ぶことができました。そう、私たちは損失は利益の二倍大きく感じる(損失回避 プロスペクト理論)、「みんながそうするから」と、多くの人が選択したものに対し、本来の価値より大きく感じてしまう(バンドワゴン効果)、私たちは最初に提示された条件を基準にしてしまう(アンカリング効果)、あらかじめ設定されていることはそのまま受け入れる(デフォルト効果)、すでに支払ったコストに気をとられ、「せっかくだから」「もったいないから」という心理が働き正常な意思決定ができない(サンクスコスト効果)、表現する枠組みを変えることで、同じモノ・コトに対する価値の感じ方が変わる(フレーミング効果)、いやなことは後回しにしてしまう、私たちのお財布はいくつかのポケットをもつ、など多くについて学ぶことができます。

料亭に入ると高い特上セットがなぜあるのか、特上の値段のアンカリング効果で、その下の上を選んでしまうとか、スマホのデフォルト設定をあまり気にせず使っていたとか、「販売部数10万部突破!」といったキャッチフレーズに目を向けたりとか、全てが行動経済学から見ると合理的に説明できるんだなあと驚いたものです。

これら行動経済学の知識をフル活用して、強制することなしに、そっと人々の行動を変えていく理論がナッジです。しかしながら、日本と欧米のナッジに対する理解の深さの違いは、ウイキペディアの英語版日本語版の記述を比較すると一目で感じることができます。日本語版では圧倒的に情報量が少なくなっています。

行動経済学、ナッジはお金儲けにも平和にも共利用可能なツールだ。   UnsplashのMathieu Sternが撮影

ナッジの社会への応用が本格化したのは、日本では、セイラー博士がノーベル賞がきまる8か月前の2017年4月に日本版ナッジ・ユニット(Behavioral Sciences Team: BEST)が環境省を事務局として発足してからです。そして、翌年2018年に政府の成長戦略や骨太の方針にナッジの活用が環境省事業とともに位置づけられました。BESTのメンバーは、行政内に閉じず、産学政官民連携のオールジャパンの体制で自由闊達に議論するための場として連絡会議を設置して現在まで活発に運営が行われています。

そして、その動きは日本国内に波及し、その後、横浜市行動デザインチーム(YBiT)経済産業省METIナッジユニット三菱UFJリサーチ&コンサルティング(株)行動科学チーム尼崎版ナッジユニット岡山県版ナッジ・ユニット、等の組織が次々に立ち上がっています。

感覚ナッジの始まり

感覚科学の知恵をナッジング手法に統合しようという新しい動きが始まっています。この新たな学問領域は、感覚ナッジ(センサリーナッジ)と呼ばれています。

Medlineで「Nudge」と検索すると、過去5年間で2,063件の報告があります。これを「food」で絞り込むと375件、「Sense」で絞り込むと57件、「taste」で絞り込むと27件の報告があります。これらの数字は検索エラーを除外していないため正確ではありませんが、感覚を組み合わせたナッジング研究はまだ始まったばかりであることを示唆しています。

「Taste」で絞り込んだ28件の論文を見ると、最近の研究では、消費者の食品選択に対するナッジングやその他の心理的介入がもたらす意外な影響はとても興味深いです。例えば、砂糖を加える習慣のある人々へのナッジングは、砂糖摂取量を平均27%削減できますが、強固な習慣を持つ人々には効果が限定的だそうです。ナッジ戦略は万能ではなく、好みや習慣の強度に応じて異なる効果を持ち、他の方法と組み合わせる必要があることを示唆しています。

「外食時の不健康=おいしい直感」を探求した研究では、製品やメニューの健康クレームが購買意向に正の影響を与えると同時に、消費者が健康クレームに負の反応を示す傾向があることが明らかにされています。ここでも、おいしさと健康のトレードオフの思いこみが影響しているようです。

面白いことに、子供たちの食行動に影響を与える戦略として、ガーデニングや料理プログラムなどの実践的アプローチが効果的であることも示されています。これらのアプローチは、単なる栄養教育よりも大きな影響を与える可能性があります。

さらに、物の形状が味覚に影響されるという研究もあります。多くの人は甘味をピンクや赤色、塩味を青や白色、酸味を黄緑色、苦味を茶や黒色と関連付けるとのことです。また、砂糖は「より丸く」、柑橘類は「点」としてイメージする人もいます。食品や飲料の形状を変えることで、味覚の認識を変えたり、特定の風味を強調したり、新しい味覚体験を創出する可能性があります。

丸みを帯びた赤は最も甘味を感じる組み合わせだという。私たちの過去の経験が味覚を支配している。 筆者撮影(バンコクのスーパー)

これは、栄養プロファイリングの製品の健康度表示でも課題が指摘されていることを思い出させます。ニュートリスコアなどの健康表示システムでは赤色が“不健康” を意味していますが、この赤色が心理的に“選択欲”をもたらして、一部の消費者を知らず知らずのうちに混乱させている、という指摘です。確かに、日本の食文化で育った私も、赤色=おいしい、というイメージは確かにあります。多くの食品ブランドが赤色であるこが私の錯覚を証明しています。

さらに、香りはナッジングの効果的なツールであることが示されています。こちらも、スペンス博士の研究です。食品の香りは、消費者の食品選択や食事量に大きな影響を与えることが研究によって示されています。香りは、人々が食品に対して抱く姿勢を形成し、アプローチや回避行動を引き起こす可能性があります。香りが食品選択タスクの結果にバイアスをかけることも示されており、特に神経イメージングデータは、香りが報酬予期関連領域の活動を引き起こすことを示唆しているそうです。

香りが続く食品摂取に特定の影響を与えるかどうかについても研究されています。例えば、フルーツの香りは、その香りにさらされた食品を選択する傾向が高まるという研究結果があります。これは、特定の食品の香りが個人をその食品の好みや欲求にプライミングする、香り誘発のプライミングという概念によって説明されます。

このように、味覚以外でも、形状や香りによる健康的な食生活へのナッジングは、消費者の健康改善や肥満問題への対策として期待されています。もちろん、さらなる研究も必要です。

健康分野において、感覚ナッジの研究が最も盛んになりつつあるのは、肥満や糖尿病、そして高血圧といった生活習慣病を未然に防ぐための減塩、減糖、減脂の健康な食事選択のへの応用です。

次回は、感覚科学を活用した自然に健康になれる減塩社会へのナッジングの可能性について紹介します。

塩味の想起は海の色と関係して、減塩ナッジにも活用されている。  Unsplashのjcob nasyrが撮影

感覚ナッジの世界を創造していく上で関心のある方々には、日本で味と匂学会神経科学会感性工学会心理学会栄養・食糧学会ナッジ研究会行動経済学会などの専門学会やナッジ推進協議会などのウェブサイトを訪れることをお勧めします。それぞれの学会で異なる視点からの感覚ナッジのヒントが得られるでしょう。そして、生成AIや皆さんの頭の中で、これらのパーツを組み合わせて新しい世界を創造してみてください。

様々な食品パッケージも感覚ナッジの視点でみると意外な発見ができそう。    筆者撮影バンコクのスーパーにて

応援ありがとうございます!
いいねして著者を応援してみませんか



このトピックスについて
津覇 ゆういさん、他197人がフォローしています