電子テキストは読書の概念をどう変えるか?

2024年4月27日
全体に公開

電子書籍の存在論、というと大げさですが、電子書籍は書物というものに対する私たちの考え方、読書の概念、知識へのアプローチの仕方をどう変えつつあるのでしょうか。紙の書物は、もともと「読む(音読する)」ものでしたが、それがだんだん「見る」ものへと変化してきたと、前回、前々回の記事で書きました。そうした読書の進化により、現在は電子書籍がかなり一般化しています。しかし、紙の書物と電子書籍では、同じコンテンツであっても読書の体験そのものが大きく異なる。体験の質が異なるばかりでなく、読書の概念そのものを変えつつあるのではないでしょうか。

幽霊のような電子テキスト

まず大前提ですが、紙に印刷された書物は、モノとして存在しています。海外の図書館に行くと同じ書架に、100年以上前の書物と最近刊が隣同士に並んでいることも間々あります。100年前の本を手に取れば、100年前に誰かが触れたページを、100年後の私も触っているわけです。少々ロマンチックな感じ方かもしれませんが、モノとしての書物には唯一無二の存在性が宿っています。一方、PC上に現れる電子テキストは、100年前(にも存在したとして)にそれを読んだ人と、100年後にそれを読む人を、モノでつなぐことはできません。なぜなら電子テキストは紙やインクといったモノを介さない、単なるスクリーン上の光点でしかないからです。物理的な書物と比べて、電子テキストには幽霊のような不確かさがあります。

たとえば手元の端末で、雑誌でも新聞でも書籍でも、電子テキストとして読む場合、そのテキストは端末の中に保存されているのでしょうか? 私は詳しくないのでよく知りませんが、結局は端末の中にデータとしてあるわけではなく、読むたびにサーバーの側にある情報を同期して閲覧しているに過ぎないのではないのでしょうか? だとすれば、自宅の本棚に書物を並べておくような従来のイメージではなく、自宅外のどこか遠いところから毎回書籍を届けてもらっているようなイメージであり、手元にあるようで本当は遠い場所にあるのではないでしょうか。つまり手元には何もないわけです。

しかも、書物では文字と紙は一体化していますが、電子書籍ではディスプレイとコンテンツは別々です。読むためには必ずディスプレイを必要とし、ディスプレイや端末の機器が異なれば、見え方もまた異なります。紙の書物の読書が非常にシンプルである一方、デジタルな読書はいろいろな装置や媒介を必要とします。テキストを読むという単純な行為に、いくつものハードウェアとソフトウェアが介在するわけです。そのブラックボックスな読書のあり方に、私は少なくとも不安を覚えますし(だからついついプリントアウトしてしまいます)、専用の機器がなければコンテンツは絶対に閲覧できないところに不便さも感じてしまいます。

電子テキストは時間の中にはない

そうした違いはまだ瑣末な部分です。そもそも、かつて書物が体現していた知の概念そのものが変化するだろうという予感があります。かつて書籍には、知識が恒久的に保存されている、という感覚がありました。一度印刷されたらその中身は変更できないところに、書物の長所がありました。書物として印刷されれば半永久的にその中身はアーカイブされる。しかし現在では、そうした書物の持つ恒久性は、弱点として捉えられています。内容に不備があったり、情報をアップデートするためには、改訂し、印刷し直す必要がある。そのためには莫大な費用がかかる。その点、電子テキストは改訂もアップデートも一瞬ででき、コストもかかりません。電子テキストはその可変性こそが長所であり、書籍は次第に可変的で可塑的なものであることが当然のメディアとなるでしょう。だとすれば、やがて書物から歴史性が失われるのは必然です。

UnsplashのAron Visualsが撮影した写真

「リアル・タイム」は現代では当たり前の概念ですが、「リアル・タイム」とはすべての人間が同じ時間に属しており、同じ時間の中を生きているということです。それは、ある意味では、時間性からの脱却に他なりません。日本の「私」の時間と、ブラジルや中国、イギリスの「私」の時間は、「リアル・タイム」でつながっている。時差という概念は、もはや太陽の位置以上の意味を持たないでしょう。そして、ネット上の情報は、すべて「リアル・タイム」に同期され、電子テキストもまた「リアル・タイム」の中で生じている現象です。そこには時間性がない。当たり前ですが、50年前に作成されたテキストも、5分前に作成されたテキストも、すべてが「リアル・タイム」に属するとすれば、そこには時間の違いから生じるどんな質的な違いもありません。デジタル情報として記録された写真は、100年前に撮られたものと(100年前にもデジタル写真があったとして)10分前に撮られたものとで、質的な違いはないでしょう。なぜならその情報はモノではないから。電子書籍も「リアル・タイム」時代の産物として、時間の束縛や痕跡をゼロにすることになるでしょう。

作者の不在

さらに言えば、電子テキストはかつての書物の読書にあった、読書するときの時間すら積極的に失おうとしています。読書には時間がかかりますが、書物はそもそも短時間で読めるような工夫を有史以来積み重ねてきました。文字はすばやい情報処理を可能とする方向へ進化してきているわけですから、当然と言えば当然です。しかし、読書に時間を必要としないということがあるでしょうか? そもそも時間をかけずに読書するというのは可能なのでしょうか? 明らかな無理難題ですが、人間の欲望はその矛盾を突破しようと突き進んでいます。電子書籍を、普通の書物同様に、最初のページから最後のページまで順繰りに読む人はいるでしょうが、だんだん少なくなるでしょう。そもそも紙の書籍すら、そのように読まない人は現代では多いはずです。タイパ重視の現代では(現代人にとって時間とは呪いか牢獄のようなものです)、必要な情報だけをさっさと拾い読みするのが普通です。書物は、かつては書物の背後にいる作者との対話でしたが、現代では作者がそこにいるような感じを、多くの読者は抱いていないと想像します。作者はおらず、ただ知識という名の情報が書物に蔵されており、その情報は要約できるものだ、という思い込みがある。

だからこそ、急いでその要点だけを読み取ろうという発想が生まれるわけです。批評や評論には、序論、考察、結論の3つのステージがあるわけですが、考察というプロセスは多くの読者には余計なものであり、すぐに結論に飛びつこうとする傾向がある。Chat式のAIがプロセスを提示せずに結論だけを示すのは、プロセスを提示できないからというより、利用者がまずもって結論を求めているからだと思います。ここにも、私たちのタイパ重視の傾向が現れています。ですが、書物も、大昔は話し言葉をそのまま文字に置き換えたもので、作者という人間の声を再現するようなメディアでした。それは文字通り作者と読者の、一人の人間と一人の人間の対話だったわけです。友人と世間話をしているときに、その話を要約しようとか、考えるでしょうか? 多分考えないでしょう。その話のプロセス、相手とのやり取りそのものが会話の目的だからです。本当は、書物に書かれた情報の読解も同様で、面白く意義深いのは、そこにある情報や表現との対話です。念のため申し添えておきますと、電子テキストの登場が、こうした事態を招いたと言っているわけではありません。事態は電子テキストが登場するずっと前から進行していたのです。ただ、読書の効率化の傾向は、書物の作者を消し、読者自身まで消そうとしているのではないかと憂慮します。

トップ画像はUnsplashのPerfecto Capucineが撮影した写真

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