死刑と冤罪ー冤罪は死刑を廃止する理由になるのか

2024年4月14日
全体に公開

死刑の存廃において度々問題となる冤罪との関係について、私たちはどのように考えれば良いのでしょうか。

私は元裁判官という立場もあり、これまで死刑存廃の問題に対して自身の立場を明らかにしてきませんでしたが、今日初めて自分の考えを表明しようと思います。

関連記事:【解説】死刑は「残虐な刑罰」か?実際の様子や歴史、裁判例から見た日本の死刑

死刑冤罪事件の存在

日本では、死刑四再審無罪事件といって、これまで免田事件、財田川事件、松山事件、島田事件の4つの事件で死刑の有罪判決が確定した後、再審において無罪判決が宣告されています。

この4つの事件はいずれも虚偽自白が生まれており、日弁連は捜査機関による自白強要のほか、証拠開示の拒否や証拠の紛失など種々の問題があったと批判しています。

現在問題になっているのは再審開始決定が出た袴田事件であり、2024年4月現在再審公判が進行中ですが、これが5件目の死刑再審無罪事件になるのではないかと目されているところです(参考:【死刑冤罪と捏造】袴田事件とはどんな事件か)。

また、下級審で死刑が宣告された後、それが確定せずに無罪判決が宣告されたケースとしても、巌窟王事件、幸浦事件、三鷹事件、松川事件、二俣事件、八海事件、仁保事件などが存在します。

海外においても、アメリカでは1973年以降、2021年3月までの間に182人の死刑囚の冤罪が判明したと言われています(うち94人が黒人)。イギリスでも死刑が執行された事件が冤罪だと発覚したことがきっかけになって死刑が廃止されました。

このような状況からすれば、「死刑事件で冤罪が発生しない」「冤罪かどうかが怪しい事件について死刑を科されない」ということはなく、死刑冤罪というものが存在するという事実を前提に議論しなければならないということになります。

なお、現行犯逮捕の場合や防犯カメラの映像といった直接的な証拠がある場合にのみ死刑を認めれば、死刑において冤罪の危険はなくなるのではないか、という考えもあります。しかし、この場合にも量刑や責任能力といった点において依然として誤判のおそれは否定できないため、やはり「間違えた死刑判決」という問題を回避することはできないことになります。

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冤罪のおそれが死刑廃止の論拠になるのか?

死刑廃止論は、しばしば冤罪のおそれをその論拠として提示します。例えば、日弁連は2016年の「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」において、「誤判・えん罪(量刑事実の誤判を含む。)により、現実に、無実の者や不当に死刑判決を受けた者が国家刑罰権の名の下に生命を奪われてしまう具体的危険性があり、これらは取り返しのつかない人権侵害である」と指摘しています。

これに対して、死刑存置論からは、「誤判・冤罪の危険は死刑だけでなく懲役刑にも妥当するため、当該危険があれば刑罰を科すことができないということになると、およそ刑罰を科すことが許されなくなるがそれは不当である。誤判・冤罪の危険がある場合に除去すべきは死刑ではなく誤判・冤罪の危険の方である。」というような反論があります。

このような議論を踏まえると、結局問題なのは単に冤罪・誤判の危険性があるということではなく、国家が「人の命」を間違って奪ってしまい得ること(死刑冤罪によって死ぬこと)の是非なのだと思います。

すなわち、死刑存置論者は、死刑も懲役刑も大きな違いはなく同じ延長線上にある以上、死刑冤罪の危険性があったとしても死刑と懲役刑とで区別すべきではなく死刑廃止の論拠にならないという主張になります。これに対して、死刑廃止論者は死刑と懲役刑とで大きな違いがある以上、少なくとも命を奪う死刑については誤判冤罪の危険性から廃止すべきだという主張になります。

死刑と冤罪に関する争点は、冤罪のリスクは死刑と懲役刑で異なるのかということが最終的な問題になると思います。

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冤罪のリスクは死刑と懲役刑で異なるのか

この点について、死刑廃止論者は、人の命はかけがえのないものであり、死刑によって人の命を奪ってしまうと全く取り返しがつかず、金銭で補償することもできないという主張をしています。

これに対して、死刑存置論者は、懲役刑だって金銭で補償したとしても奪われた時間は戻ってこないのであるから、回復不可能なのは死刑も懲役刑も同じだという主張をしています。

命の重さや後から回復できるものなのか否かということは、その人の価値観・世界観によって異なるのかもしれません。

ただし、客観的な事実として、冤罪当事者の本人が補償を受けられないということは死刑と懲役刑とで異なると思います。

また、冤罪救済が可能か否かということも大きな違いだと思います。命があれば再審請求をすることによって自身の潔白を証明するチャンスがあります。しかし、死刑が執行されてしまうと本人は再審請求をすることができなくなります。死刑執行後に遺族や検察官が再審請求をできたとしても無罪判決に至る可能性はより低くなりますし、本人が無罪判決を受けることができないのであれば、やはり死刑と懲役刑とで状況が異なると思います。これは、死刑の場合に冤罪当事者本人が補償や無罪判決を受けることができないということは、生命の自由のほか、裁判を受ける権利や刑事補償請求権といった憲法上の権利に対する侵害という重大な差異です(憲法13条、32条、37条1項、40条)。

加えて、 私は、死刑冤罪はこの世における一番の理不尽であり人権侵害だと考えています。それまで暮らしてきた国に濡れ衣を着せられ、国家権力という強大な相手に抗えずに有罪判決を宣告され、再審のチャンスすら十分に与えられずに一方的に殺されてしまうことは、殺人の犯行態様としても最も残酷な部類に属すると思います。これもやはり懲役刑の場合とは異なると思います。

自分がそのような方法で殺されてしまうかもしれないという前提条件があれば、なかなか死刑制度に同意することは難しいのではないでしょうか。冤罪は濡れ衣であって自衛によって予防することができない以上、他人事ではなく自分達が巻き込まれることもあり得るのです。

日本では冤罪の件数が比較的少なかった結果、死刑冤罪のリスクが過小評価されていると思います。そもそも、死刑冤罪は死刑判決時点では誰にも冤罪だと認識されず、その後に何らかの事情で冤罪だと発覚したごく一部しかカウントされません。死刑が執行されてしまった場合は基本的に再審請求が行われないのですから、死刑冤罪が見逃されてしまうリスクは小さくありません。冤罪のこのような性質上、死刑冤罪は暗数が存在することになります。リスクマネジメントの領域においてはリスクが顕在した場合の影響度と発生可能性の乗算によってリスクを算定しますが、冤罪は発生可能性が正確に算定できないという問題があるのです。地震のように発生可能性が低くても影響度が高いというリスクに対しては、発生可能性だけでなく脆弱性も考慮されなければならないとされているところ、限られた証拠をもとに人が人を裁く以上、死刑冤罪の脆弱性はどこまでも否定できないのではないでしょうか。

死刑存置の理由としては、悪いことをした人に対してきちんと報いるべきだという応報や、遺族の被害感情が挙げられると思います。しかし、冤罪はこの応報が失敗し得ることを示しています。間違った人を処罰することで応報の欲求や被害感情を満たすことはできないでしょう。そうすると、死刑存置の他の根拠によっても死刑冤罪のリスクを正当化することはできないことになります。

以上より、死刑冤罪のリスクは死刑廃止の論拠となり、死刑を廃止すべきだと思います。

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裁判官と死刑

裁判官が死刑の存廃について語ることは一般的に難しいと思います。なぜなら、裁判官が死刑について賛成するとしても反対するとしても、その裁判官の判決の公正さが揺らぎかねないからです。

この点について、私はこれまで通常審の死刑求刑事件に関与したことがありません。それでも、これまでの解説や意見はあくまで私の個人的見解であり、裁判官や弁護士全員が同一の見解を持っているわけではないことを注記しておきたいと思います。また、死刑に賛成しない裁判官も憲法76条3項により法律に拘束されるため、個人の思想信条を理由に死刑判決を回避することは許されないものと解しています。私が冤罪を理由として死刑制度を廃止すべきだと考えていたとしても、私の目の前に死刑にすべき事件があれば裁判官として死刑を宣告しなければならないと思います。

一方で、やはり死刑かどうかを判断した裁判官の経験は死刑の存廃を考えるうえで重要な判断材料になると思います。この点について、私には死刑求刑事件の経験がないものの、日本の刑法学、刑事訴訟法学における第一人者であり、最高裁判所裁判官も務めた団藤重光教授は次のような体験談を語っておられます。

「私は最高裁判所に在職中に、記録をいくら読んでも、合理的な疑いの余地があるとまではとうてい言えない。しかし、絶対に間違いがないかと言うと、一抹の不安がどうしても拭いきれない、そういう事件にぶつかりました。具体的事件ですから、ずっと抽象化してお話しする以外にありませんが、それは、ある田舎町で起こった毒殺事件でした。状況証拠はかなり揃っていて、少なくとも合理的な疑いを超える程度の心証は十分に取れるのです。ところが、被告人、弁護人の主張によれば、警察は捜査の段階で町の半分だけを調べたところで、一人の怪しい人物を見付けて逮捕しました。それが被告人だったのです。町のあと半分は調べていなかった。もしあとの半分も調べていれば、同じような状況の人間がほかにも出てきた可能性がないとは言い切れないのです。被告人は捜査段階では自白したのだったかどうだったか忘れましたが、少なくとも公判へ来てからはずっと否認を続けていて、絶対に自分ではないと強く言い張っているのです。そのような事情も、個々の証拠の証明力を減殺するといったものではないので、合理的な疑いが出て来るとまでは言えませんから、事実誤認の理由で破棄するわけには行かない。しかし、それでは絶対に間違いがないかというと、一抹の不安が最後まで残るのです。要するに、合理的な疑いを超える程度の心証は取れるのですから、証拠法の原則からいって有罪になるのが当然だった。しかも、もし有罪だとすれば、情状は非常に悪い事案でしたから、極刑をもって臨む以外にはないというような事件だったのです。私は裁判長ではなかったのですが、深刻に悩みました。しかし、死刑制度がある以上は、何とも仕方なかったのです。いよいよ宣告の日になって、裁判長が上告棄却の判決を言い渡しました。ところが、われわれが退廷する時に、傍聴席にいた被告人の家族とおぼしき人たちから「人殺しっ」という罵声を背後から浴びせかけられました。裁判官は傍聴席からの悪罵くらいでショックを受けるようでは駄目ですが、この場合はいま申したような特異な事情でしたので、これには私は心をえぐられるような痛烈な打撃を受けたのです。その声は今でも耳の底に焼き付いたように残っていて忘れることができません。」 「これから誤判が本当に絶無になると、いったい誰が断言することができるでしょうか。もちろん、事実認定の点で、裁判官は十分な訓練を受け、かつ経験を積んでいます。しかし、人間である以上、絶対に間違いがないと言い切ることはできないはずです。」
団藤重光「死刑廃止論」より引用

このような誤判に対する危機感を抱いた経験を経て、団藤教授は誤判の危険を理由に死刑廃止論に踏み切ったそうです。

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死刑について

私は、死刑の存廃に関する議論があるのは、存置派も廃止派も人間の命を大事だと思っている証だと思います。

日本に死刑存置派の人が多いということは、人間の命を奪う行為を許されないと思っている人たちが多いということを示しているのだと思います。

でも、人間の命を大事に思っているからこそ、人間の命を奪う死刑は許されないのではないでしょうか。

私は死刑に関する議論の発展を願っており、元裁判官の意見表明も増えればいいなと思っています。

プロフィール

西 愛礼(にし よしゆき)、弁護士・元裁判官

プレサンス元社長冤罪事件、スナック喧嘩犯人誤認事件などの冤罪事件の弁護を担当し、無罪判決を獲得。日本刑法学会、法と心理学会に所属し、刑事法学や心理学を踏まえた冤罪研究を行うとともに、冤罪救済団体イノセンス・プロジェクト・ジャパンの運営に従事。X(Twitter)等で刑事裁判や冤罪に関する情報を発信している (アカウントはこちら)。

今回の記事の参考文献

参考文献:西愛礼「冤罪学」、日本弁護士連合会「死刑制度の廃止を含む刑罰制度全体の改革を求める宣言」、The Death Penalty Project「誤判の必然性 死刑事件における司法」、椎橋隆幸「日本の死刑制度について」、加藤尚武「応用倫理学のすすめ」、団藤重光「死刑廃止論」、三原憲三「死刑廃止の研究」。なお、記事タイトルの写真については自由人権協会が情報公開請求にて入手した東京拘置所の写真を引用(http://jclu.org/news/disclosure/)。

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