【イスラーム×日本】AIと共に探るアート
Merhaba!(こんにちは!)第5期Student Pickerの建寛人(たてひろと)です!現在、トルコのイスタンブールに交換留学中です。
前回は、遠藤さんが『嫉妬の要因』について語ってくれました。
嫉妬の要因が、脳科学や心理学の視点から詳しく説明されていて、そうだったんだ!と学びが深まりました。
感情を書き起こして自身の価値観を整理する、という嫉妬感情への向き合い方も非常にためになりました。
道草を楽しめ、大いにな
これは、漫画Hunter×Hunterに登場するジンが主人公ゴンにかけた言葉です。その後に、「ほしいものより大切なものが、きっとそっちにころがってる」と続きます。
このシーンは、今回執筆にあたってインタビューにご協力いただいたマルマラ大学(トルコ)助教、山本直輝氏と私のお気に入りです。
「道中の味わい」── 山本先生は、茶道や武道、絵などの芸術を中心に、イスラーム文化と日本文化の結び合わせを模索するなかで、その重要性を体感しました。
イスラーム文化と日本文化の融合というと、私を含め一般の人間からすると馴染みの薄いトピックですが、非常に興味深いのが、ここにAIが絡んできていることです。
最近は、テキスト生成や画像生成をはじめ、生成AIができることが次々と増えてきています。私も毎日のようにChatGPTを利用しており、その能力の高さに半ば依存してしまっているところがあります。
急速に進化していくAIとどのように関わっていくべきかという命題。分野を問わず、皆さんの頭の中でも度々生じているものではないのでしょうか?
今回は、AI技術の可能性と限界というテーマです。そうはいっても技術的な話をするわけではありません!!山本先生が芸術を通じてイスラームと日本の文化を融合させる経験から得た洞察をもとに、AIとどう付き合っていくべきか考えていこうと思います。
イスラームと日本
山本先生は、自身のInstagramを通じて、イスラームのヒジャーブ(頭髪を隠す布)と和服を着た女性のイラストを多く公開している。私のお気に入りは、「I’m the strongest」という作品だ。アニメ呪術廻戦の最強キャラ五条悟を模したイラストで、滑らかに走る灰色の線と、浮かび上がるアラビア文字が霊妙な印象を与える。
トルコのイスラーム文化を専門とする山本先生が、芸術を通してイスラーム文化と日本文化の融合を追究し始めたきっかけの1つには、トルコの大学での学生との交流があったという。
山本 私が働いているトルコの大学で日本アニメオタクの学生が、「私みたいなヒジャーブをつけたアニメキャラがいたらいいのに」と言っていて。
じゃあ試しに描いてみるか、と和服とヒジャーブを合わせたデザインでマンガっぽいキャラを描いてみたんですが、意外に違和感ないなと。
こういうキャラ、少年マンガにいそうじゃないですか?
さらに、試しに生成AIで出力してみた画像に至らない点があったことも1つのきっかけであったそうだ。
山本 いま日本で拡大しつつあるムスリム(イスラーム教徒)コミュニティの、特に若い世代は、ムスリムであること、かつ日本人であることについて考えるようになってきています。
私も、トルコというムスリムが多数を占める社会で外国人として暮らし、イスラームや日本文化を大学で教える体験を通じて、「イスラーム的」って何なんだろう、さらには「日本人的」って何なんだろうと考えるようになりました。
そんな中、当時話題になっていたMidjourneyと呼ばれる画像生成AIで遊んでみたんですよ。
例えば、試しに「日本人ムスリムの男女」をプロンプト(指示文)として入力してみました。すると、こんな画像が出てきました。
現状の生成AIではリアルの多様性や本当の姿を拾ってくることができない、と先生は言う。
山本 ここで出力された画像は、身体的特徴を誇張したもので、いわゆる東アジア系の顔をもつ人間を日本人だと主張しています。
でも実際は、中東やアフリカ、東南アジアにもルーツをもつ日本人ムスリムだって現実の日本社会には沢山います。
画像生成AIは、言ってみれば世の中に広がっている「イメージ」の最大公約数を投影しています。
「日本の伝統的な服を着た日本人ムスリム」といった細かいプロンプトで追求しても、中東と日本が表層的なレベルで組み合わさったものが生成されるだけです。
それは単なるイメージではなく、我々の偏見を投影していることもあります。
さらにはその偏見を強化する危険性すらはらんでいる、と先生は付け加える。この生成AIの至らなさに気づき、自身が好きな芸術を通じて、新しい何かを追求したくなったそうだ。
ムスリム・キャラクターをデザインする上で先生がつくった設定は、日本の戦国時代にムスリムの隠れ里があり、中国やペルシア、インドなどから来た人々との交流の中で、ムスリムになった人たちの子孫、というものである。
これは今の日本社会で暮らす様々な民族的背景を持つムスリムたちのリアリティを反映し、かつ、中国やマレーシアなど他の地域のムスリムコミュニティの形成の歴史を踏まえながら、「もしかしたらあったかもしれない日本のムスリム史」というフィクションを想像する「遊び」であるそうだ。
一方で、私は先生の作品を一通り見たときに、ぱっと見で多様性を強く感じる事はなかった。私が、こうしたルーツの違いを絵に反映しているのかと聞くと、先生は次のように答えた。
山本 民族的ルーツの違いによって見た目を大きく変えたりするまで僕の画力が追いついていませんが、彼らの読むイスラームの古典が違うという設定はあります。
表層的な形で見た目に反映しすぎるっていうのは個人的にはあんまり好きじゃないです。
つり目でアジア人を表現するとか、一歩間違えれば偏見を強化するだけです。
それよりも彼らが自分の内部で何を消化しているかっていう違いを想像しながら描いてます。
確かに、おっしゃる通りだと思う。ここで多様性の議論をするつもりはないが、一部が切り取られたり度が過ぎたりすると、かえって失うものが増えると思う(参照:GenZのたまり場「『多様性』にムカつくこと」)
このように、山本先生がイスラーム文化と日本文化を融合した芸術を始めたきっかけには、最適化を軸に進化を続けるAIが、「本当のリアル」を反映できていないという点があった。では、それはこれからもそうだろうか?
次項では、この先もAIが理解できないであろうものは何か?、について検討する。
AIが理解できないもの
私が山本先生に、「ご自身で描写した絵の画像で訓練させてAIをカスタマイズすれば良いのではないか?」という問いを投げかけると、先生は次のように答えた。
山本 確かに自分がつくったアートを放り込んで、志向性を学ばせれば、私が見たリアルに基づく画像を出力可能かもしれないが、それって結局「ヤマモトナオキが解釈したアート」を増殖させるだけです。
それはそれで面白そうかもしれないけど、個人個人がどういう風にある概念を解釈して、消化しようとするのかというプロセスは失われます。
例えば日本のマンガ史を辿れば、トキワ荘で手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎らがお互いの作風に影響を受けながら、「自分だけのアート」を追求しました。
1番楽しいのってあーでもないこーでもないって失敗を重ねながら描くことじゃないですか?プロでもアマでもそれは同じはずです。
AIに「消化」を全て任せてしまうと、アートで一番美味しい試行錯誤が蔑ろにされてしまう。
先生が考える、AIに任せてしまうと到底理解できないであろうものは、試行錯誤の道中にある個人的な体感と味わいである。体験してきた味わいの一例として、先生は、自身でデザインした、茶道に使用する「なつめ(抹茶の粉を入れる容器)」を取り出して私に見せてくれた。
金っぽい線が走り黒光りする表面に、またしても、アラビア文字が違和感なく刻まれている。この「なつめ」を作り上げる道中には、先生が長く続けた茶道とスーフィズム(イスラーム神秘主義)の修行場で得た個人的な体感があったという。
山本 まず、トルコにあるスーフィズムの修行場では、何があったかなと考えました。
書道が飾ってありました。それで、その書道には何が書いてあったかというと、精神を錬磨する修行の中で唱える祈りの言葉が書かれていたなと思い出しました。
そして、茶室空間というのも修行の空間で、「なつめ」を清めるという動作を通じて、心を清めているという認識があると、茶道の先生が言ってた事を思い出しました。
自分が得た2つの生の体感と味わいから、抽象的に共通するものを抜き出して合わせたんです。
また、デザインの道中では、京都のある伝統工芸士が培った体感と、彼との細かな調整が大きな役割を果たしたという。先生は、その道中をより詳しく説明してくれた。
山本 「こういうデザインにするとかっこいいのではないですか」みたいな調整をたくさんしました。例えば、この模様(「万寿の礼」の金っぽい線)は本来、金で描くことができるものなんですけど、イスラームの教義の関係で食器に金を使うのを避けるムスリムの方がいるんですよ。
なので金を使わずに金色っぽいものを出すことができるのかと伝統工芸師の方に相談したんです。
そしたら彼は「まず銀色の粉をここに塗って、そこに薄く漆を塗ると、漆の赤みが重なって金色っぽくなります。これでどうでしょうか」と提案してくれました。
こういうリアルな調整も、人間が2人で話し合うから出てくる。
自分の感覚と伝統工芸士さんの体験が重なり合ったんです。
個人が何らかの営みの道中で得る味わい。これはAIに記述を任せるだけでは到底分かり得ないものだと先生は主張する。
一方で私は、1点目の味わいに関して、少なくとも「スーフィズム修行と茶道の精神性における共通点」については、ChatGPTにうまく質問すれば、的をいた回答が得られるのではないかと思った。先生は、この点に結びつけて今後のAIの可能性と限界を指摘する。
山本 もちろん、ChatGPTは記述することには秀でているので、滑らかな文章で語ることはできます。
ただ、芸術の観点からすると、だからなんだという感じです。
特に最近のイスラーム学やムスリム社会は、理想を語ってばっかりで実践が伴わないことが多いので、私自身も試行錯誤を伴わない「滑らかで理路整然とした言葉」にうんざりするようになりました。
AIはまだ、実践を行い物事を味わうための身体をまだ持っていません。味わうことができるのは今のところ生物だけです。
AIも最終的に進化すれば、味わうことすら可能かもしれないけれど、個人の味わいは個人だけのものです。
人間にとってこれから先は、どれだけ個々人が各々の道中で味わうことができるのか、といったとことんローカルで個人的な体験が大切になると思います。いわゆる修行ですね。
修行、という言葉でストンと腑に落ちた。私は自分の約3年にわたるボクシング部での体験をChatGPTに説明して、 自己アピール文を出力させたことがある。もちろん自分で書くよりもはるかに簡潔な言い回しをしていたが、心身を削って鍛錬した際の体感までは、どうしても出力できなかったので、核心の部分は自分で書くよりほかなかった。
ここまでは、AIの限界を中心に話を進めてきたが、それでは、我々人間はAIとどのように付き合っていけばいいのか?最後は、人間にとってのAIとは何か、というテーマについて考えていく。
人間にとってのAI
山本先生は、AIの限界を実感しながらも、無論、その性能の高さは素直に認めている。「全人類の95%の知性は獲得してるんじゃないですか?」と笑って話していた。
先生にとってAIは、新しい体験と味わいを与えてくれるものだそうだ。関連して、崩し字生成AI「そあん」を活用してつくった掛け軸を見せてくれた。
先生が、この掛け軸を作成した道中について話す。
山本 例えばこの崩し字なんですが、理想は書道って教室に通ったり、お師匠さんについて習うものじゃないですか。
私は今トルコに住んでいるので残念ながらそういう環境がありません。
でも、トルコに住んでるからそういうものは作れないよねっていうのは何か面白くないじゃないですか。
ある特定の環境に住んでいることを何かができない理由にしてしまうとそれは呪いになってしまいます。
トルコにいるからこそ考えられる日本文化の学び方・表現の仕方を考えた方が希望がある。
例えば、私は茶室に飾られている禅語(悟りについて語った言葉の一種)の掛軸みたいな、「イスラーム掛軸」をデザインしてみたいとずっと思っていました。
そこで、オスマン語という昔のトルコ語をまず自分で日本語に翻訳して、それを「そあん」AIで崩し字に変換して崩し字の「見本」を見せてもらう。
それをまた手書きで真似して写して、さらにそれをiPadのprocreate(デザインアプリ)で書き写して、という感じでやってます。
「そあん」で出力された文字をそのままコピーして使わないのは、崩し字は、送筆の速度が反映された方がより「自分のアート」として表現する練習になるからです。
さらにその崩し字にアラビア文字を加えたりしています。
伝統的な崩し字の書き方とは違うかもしれませんが、アラビア文字と自然に組み合わさって、まるで何千年も前からイスラームが日本に存在したかのような趣があると思っています。
仮に、崩し字生成AIがなかったとしたら、昔の日本語とイスラームの文字を融合する芸術を追究することは難しかったかもしれないという。
ここに、何かを追究する道中に、新たな機会を提供するAIの真価が見てとれる。
大事なのはAIとともに何を味わうことができるのか、その一点に尽きると先生は主張する。
山本 今の日本社会は、正しいか悪いか、使えるか使えないかみたいな、ゼロイチ思考に陥りがちです。
移民問題や古文漢文、そしてAIについてもです。
例えば「古文漢文は役に立つのか」議論など良い例です。
役に立つかどうかなど誰が決めるんですか?大きなお世話です。
ジン(漫画Hunter×Hunterのキャラ)が言ってたのは、道中(道草)を楽しめ、じゃないですか。道中に正しいものを見つけろじゃないんですよ。
正しいって言っているものに対して、これは間違っていると言うのも、ベクトルの向きが反対なだけで質としては同じものを投げている。
こういう表面的な言説に対抗できるのは、それはどんな味わいをもつのか、という問いです。全く違う土壌で考えることです。
つまり、AIが有用か有用でないのかではなくて、AIで何を味わうことができるのか。
イスラーム文化についても、イスラームが来ることで、今ある文化がより味わい深くなるのか、はたまた新しい味が来るのか。それに尽きると思います。
ゼロイチ思考からの脱却。これは頭では理解していても、特に効率化が追求される世の中では、えてして人は打算的な決定に溺れるものだ。AIは、人間が味わい深さを追求する道中で助けてくれる仲間であると捉えると、脅威論についても新たな見方ができるのではないか。
先生は、最後に「イスラーム×日本」の芸術を追究することを通じて、世に出したいメッセージを語ってくれた。
山本 僕は、日本のイスラーム文化においてこういうアートがあるべきだとか、そういうことを言おうとしているのではありません。
34歳のおじさんはこういう風に味わっているよっていうだけです。
そして、AIによってまだ人間が表現できる領域がはっきりすることもあれば、AIのおかげで今まではなかなか思いつかなかった新しい「つながり」ができることもある。
例えば、この崩し字も、私を含めて、現代の日本人はこれを日常で目にする事も書くこともほとんどありません。
しかし、崩し字が日本文学や日本史の研究者だけが扱うものであったら、やがてこの伝統は大学や図書館、あるいは学会発表の場でだけ存在するものになってしまうでしょう。
そこにこの崩し字生成AIが登場したことで、私のようなイスラーム研究者が、イスラーム・アートの中で崩し字を取り入れようと試みることができるようになった。
これはAIとその開発に携わった方が私に与えてくれた新しいつながりです。
崩し字を使っていた中世の日本人も、まさかイスラーム詩の日本語訳の書道に崩し字が使われるとは思ってなかったのではないでしょうか。
そういった「遠い過去と遠い未来を繋いでくれる」他者として、AIとの心地よい付き合い方を模索していく必要があるのかなと考えています。
大事なのは何をいかに吸収して何を味わうかです。
正しい道中があるよっていうのではなくて、各々がこうやって道中を楽しんでいいんだよっていう。これをAIとともに考えていけたらいいな、と。
おわりに
いかがでしたでしょうか!?
「イスラーム×日本」アート、まさかそこにAIが絡んできているとは、私自身思ってもみなかったです。というか、とにかくどのアートもカッコいい!!
記事は長くなってしまいましたが、発信したかったメッセージは、道中を楽しめ、AIは楽しむための仲間だ、とまとめられます。
これは、芸術に勤しむ山本先生だからこそ辿り着いた見解だと言えるかもしれません。
皆さんはChatGPT等のツールを使っていますか?どのように使っていますか?
これに限らず幅広いご意見をコメント欄でお待ちしてます!ありがとうございました!
今回、執筆にあたりインタビューにご協力いただいた山本直輝先生に、深く感謝いたします。
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