「推し」を持つということ◎ヴィスワヴァ・シンボルスカ「終わりと始まり」

2024年3月3日
全体に公開

 詩は、手紙のようなもの

 第一回を、自分の進む方向の道しるべになった岬多可子さんの詩の紹介から始めることができてよかったです。というのは、編集者にとって「好きな作家/詩人は誰ですか」と聞かれることほど苦しいことはないからです。それもあって、これまでも自分にとっての詩について語ることはできるだけ控えてきました。

 詩は、とても個人的なもので、万人に届く詩というものはない。詩が、もっと大きな影響力を持っていた社会や時代もあり、いまでもそれを諦めないほうがいいのかもしれませんが、これだけ多様化し、情報が細分化してしまった社会では、誰かがいいと信じる詩が、他の人の胸を打つとはかぎらない。

 それでも、人生の折々にきっかけとなった詩について話すことはできる。誰かの信じる思いが伝わることによって、他人に通じる回路が生まれることがあります。最近、その時々の流行や状況に関係なく、自分が影響を受けてきた詩や詩人について、まっすぐ語る先輩詩人たちの姿勢を見て、それが何より強度を持つことをあらためて確信しました。

 「推し」を言うということ、それが現在のフラットな社会に自然な態度になりつつあります。この数年でかなりフェーズが大きく変わった、加速度的に変わりつつあると感じますが、失われた30年という言い方は、経済ばかりではなく、文学の世界にも当てはまります。文学だけが、詩だけがそこから自由でありえたとは考えられません。

 何年か前まで「平成」が30年あったはずなのに、ずっと「昭和」の続きをやっていた感覚がある。社会を成り立たせていた基盤や構造が「昭和」だったということ。あるいは、実際は社会はもっと以前から大きく変化していたのに、文学、出版の世界が旧態然とした構造を変えられずに長い年月停滞していて、現在の危機を招いているのかもしれません。詩の世界でも、私がこの業界に参加した2000年代には、そのジャンルの面白いことは「すべて終わって」いた。

 〈終わり〉と〈始まり〉

 この終わったところからスタートする感覚は、しかし誰もが持つ感覚かもしれません。いつの時代も、前の時代が終わり、次の時代を迎えるからです。そうであっても、事実、大きな変化を迎えている。町の書店、老舗の料理店、原宿駅の建て替え、明治神宮の並木の伐採、これまで社会的基盤であり、精神的な支えでもあったような象徴的な存在の「終わり」に立ち会います。出版の世界も(あるいは、じつはこの国も?)、とうとうその終わりの季節を迎えているのかもしれません。しかし、その「終わり」の時間は、そう感じてからが長いのです。

 SNSも含めて、このフラットな言葉、言論の状態に対して批評(あるいは編集という行為)の成立しない状況を危惧する気持ちがまったくないわけではありませんが、旧来の状態を維持しようとする身振りでは、次の時代に対応することができません。いったんフラットになったところから、もう一度、新しい価値観や批評を再構成していく必要があります。

 この「終わり」と「始まり」の時間を見届けること。ジェンダーや人種、階層、まだ解決していない問題が根づよく残ったまま、これまで以上に前景化しています。そうした社会課題が少しずつ改善の方向に進んでいく未来の「始まり」に期待しています。

それがどういうことだったのか知っていた人たちは
少ししか知らない人たちに
場所を譲らなければならない そして
少しよりももっと少ししか知らない人たちに
最後にはほとんど何も知らない人たちに
ヴィスワヴァ・シンボルスカ/沼野充義訳『終わりと始まり』未知谷、1997年

 シンボルスカのことも、いつか話したいです。

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