私的、「批判」の美学

2024年2月13日
全体に公開

こんにちは!JobPicksインターンの髙栁です。

前回は、相原さんが「八郷留学」をテーマにお話されていました。

自然に囲まれた環境の中で子どもたちがのびのびと「新しい遊び」を体験する姿から、便利とは、言い換えると不自由な状態のことを指すのかもしれない...と考えさせられました。

さて、今回は過去の自分を思い出しながら「批判」というテーマについて考えていきたいと思います。

👧いや」「だけど」を繰り返す子ども

私は幼い頃、口をひらけば不満ばかり言っていた子どもでした。

毒舌と言えば多少、耳馴染みがいいかもしれませんが、話すたびに不満から入るような癖があったと自覚しています。

加えて、自分からは愚痴ばかり言うのに、人に叱られると非常に落ち込んだりムキになったりするような気難しい性格でした。

今思い出してもなんて子どもなんだ...と、恥ずかしさを覚えますが、近頃はSNSなどを見て、そんな記憶を思い出すことが増えたように感じています。

(昨年MBTI診断をしたときの画像です。昔を知る家族からは随分変わったね〜と言われて複雑な気持ち...😅)

🗣否定することで生まれる、気持ちよさ?

SNSを使い始めて、毎日見知らぬ誰かのコメントが目につくようになりました。そんな中で驚くのは、「否定の数」です。

有名人が発したコメントや注目を集めている投稿を見ると、必ずといっていいほど対象を否定するコメントがついています。

その中には、かなり過激な言葉もちらほら。誹謗中傷が目に見える形でありふれたものになってしまっている現状には、非常に心が痛みます。

ただ、今回注目したい点は別のところにあります。

以前、興味本位で芸能人を否定している人のアカウントを覗いてみると、過去のコメントまでもがびっしり誰かを蹴落とすようなコメントだらけで言葉を失ったことがありました。

(写真:ShyamMishra/Unsplash)

ネット上に限らず、日常生活の中でも誰かの否定ばかりする方…誰しも一度は見かけたことがあるのではないでしょうか。

何を言っても「でも」「いや」のような言葉で返されると、個人的にはコミュニケーションをとる度に難しさを感じてしまいます。

過去の経験を踏まえて、どうして否定ばかりしてしまう人がいるのかと考えた際に、おそらく否定という行為が中毒性を孕んでいるんじゃないかと考えつきました。

否定をすると、「自分だけは正しいことを知っている」という感覚が簡単に味わえるような気がします。

「無知な人に対して自分が諭してあげる!」といった感覚です。幼少期の自分も、本を読むことが好きな分頭でっかちなところがありました。今となっては、否定を通して知識をひけらかし、自分はすごいんだと実感したかったんじゃないかな、と思います。

いわば否定という行為は、一種の快楽に結びつくのかもしれません。否定を多く口にする人は、そういう感覚を味わうことが無意識のうちに癖になってしまっているのかな〜と感じています💭

(写真:Hal Gatewood/Unsplash)

 🤔批判を成立させるためのスタンスとは?

あと、過剰なまでに否定を繰り返す人は、「否定」を「批判」と取り違えているような印象を受けます。

これらはよく混同されがちですが、行為を目的にしている否定」と、行為の先の結果(対象の人格の陶冶など、ポジティブな結果)を目的としている批判」では違いがあるのではないでしょうか。

ただ、わかっていても、正しく誰かを批判することは難しいな〜と日々感じています。

(写真:Priscilla Du Preez/Unsplash)

そんな中で、批判を成立させるための「あるべきスタンス」について考えてみました。

個人的に最も大切だと感じるのは、誰かに意見する際に「自分も評価を下される可能性があることを認識しているかどうか」という姿勢そのものです。

何らかの対象に厳しい意見を投げかけるとき、自分も意見を返されることがある...ということを事前に頭に入れているかどうかで、個人の発言の重みが全く違ってくるように感じます。

(写真:Kenny Eliason/Unsplash)

おそらく言葉を発する前に、物事を多角的に見つめ直す時間が生まれるはず。個人の主観に依存しない言葉を生み出すことが、批判を成立させる上で重要な要素になり得るのではないでしょうか。

小説家レイモンド・チャンドラーの小説『大いなる眠り』では、主人公フィリップ・マーロウが次のような台詞を口にしています。 

 ”I brought you back your artillery. I cleaned it and loaded it up.Take my tip-don’t shoot it at people, unless you get to be a better shot.”
(Raymond Thornton Chandler, 1939)

これは「撃たれていいのでなければ、人に向かって撃つな」ということ🎯

この表現が意味するように、言葉も一度放つと取り下げることはできないため、使いどころを慎重に見極めるべきだと思います。

相手への厳しい指摘は言葉の攻撃性が強い分、なおさら意識する必要があるかもしれません。

相手の誤りを指摘する時には、「対象や社会に改善行動を促す」ことが目的になっているか、今一度自分に問いかけるべきではないでしょうか。

そうでないと、「否定がしたい」ばかりに誰かをひどく揺さぶる言葉を発してしまう可能性がある気がします🗯

さて、今回は楽しいテーマを書こうと思っていたにも関わらず、あんまり楽しい話題になりませんでした...。ここまでお読みいただきありがとうございました!

読後に考えたことなどがありましたら、ぜひコメントいただけるとうれしいです🖋

(バナー写真:Bogomil Mihaylov/Unsplash)

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