大人が失ってしまう「99のもの」とは? 〈colum 6 後編〉
〈column 6 前編〉はこちら↓
前編の「志野茶碗」から少し話は変わりますが、1歳の子どものいる知人の家に遊びにいったときのことです。
知人が、紙パックに入った麦茶を、子どもに手渡しました。子どもはストローを口にする前に、手でパックをギュッと握ったので、ストローから麦茶が飛び出してしまいました。慌てた知人は「あ、強く握っちゃだめ!」と、子どもの手から紙パックを手放させました。
「ストローから麦茶が飛び出した」という結果だけに目を向ければ、知人の対応は当然であり、子どものいる家庭ではよくある日常の1コマかもしれません。しかし、ここでは「紙パックをギュッと握った」子どもの行動を、少し違った視点から考え直してみたいと思います。
私たち大人は多くの場合、「視覚による情報」や、「頭で理解する知識」によってものごとを捉えようとします。しかし、世界と出会うための入り口は、「視覚」や「頭」だけではありません。たとえば子どもは「五感を通した体験」によって世界に出会い、その成り立ちを理解していくといわれています。
「手」をはじめとする様々な感覚器官は、視覚や、頭で理解したりするのとまったく同等に、ものごとを理解するための入り口であると考えられます。
このような前提に立つと、知人の子どもの「紙パックをギュッと握ってしまった」という行動も、違う見え方をしてきます。
「自分の力が作用してストローから液体が出てくること」「微妙な力加減によってその勢いが異なること」など、「頭」だけでは学びきれないような様々な事象を「手」を通してこそ学ぶことができる、貴重な機会であったとも考えられるのではないでしょうか。
1960 年代にイタリアで発祥し、現在も世界中で採用されている幼児教育の1つ「レッジョ・エミリア・アプローチ」では、その理念を「100 のことば」と題した文章で表現しています。
「100のことば」
前略
子どもは100 のことばをもっている100 の手、100 の想い、話したり遊んだりするための100の考え方
中略
子どもは100 のことばをもっている(そしてそれよりも遥かに多くのことばを)
しかし、その99は奪われる
学校や社会が、彼らの体から、頭を引き離そうとする
そして子どもに言う
手を使わずに考えるように
頭を使わずに行うように
話さずに聞くように
中略
学校や社会はいう
100のことばなんてない
子どもはいう
100のことばはここにあるのに
もしかしたら、私たち大人自身も、自分の「体」から「頭」を引き離し、限られた入り口だけを通して必死になにかを考え、見つけ出そうとしているのではないでしょうか?
「視覚」や「頭」を通して出会うことができる世界と、それ以外の「五感」によって引き出される世界は異なります。「ものの見方」を変えない限り、見つけられないものがあるはずです。
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本投稿は『THE 21』(PHP研究所)の誌上で掲載された連載「ビジネスパーソンのためのアート思考」を加筆修正したものです。
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