「志野茶碗」は視覚で愛でる器ではない〈colum 6 前編〉
よく「美術鑑賞は実物を見るのに勝ることはない」と言われますが、私がそれを実感したのは、桃山時代につくられた「志野茶碗」を鑑賞したときのことでした。
事前に作品の写真を見ていたのですが、実物を見たときとの印象の差は歴然としていました。
![](https://contents.newspicks.com/topics/98/posts/10/images/20231123060353767_h6uVAFnF.jpg?width=1200)
写真を見ていたときには、抽象的に描かれた「橋」の絵付けに特徴がある作品だと感じていましたが、実物を見てみると絵柄はそれほど目立たない印象でした。
それよりも、茶碗自体の歪な形、釉薬の具合で器全体に空いた無数の穴、茶色い粘土が部分的に露出してできた風合いなどの方が印象的でした。また、写真から想像していた以上に大ぶりの茶碗であり、厚みもあることから、ずっしりとした重みを感じるようでした。綺麗で整った一般的な意味での「美」からは、かけ離れた無骨な印象がありました。
実物の作品の前に佇んだとき、「ああ、これは視覚で愛でる器ではないのだ」と悟りました。「視覚ではなく、手や唇で感じる器なのだ」と思ったのです。
「手」や「唇」で見たとき、なにを感じるのか?
この器を両手の掌で包んだら、きっとずっしりとした重みととともに、その物質としての存在を強く感じることでしょう。
茶の温かみが、分厚い粘土越しに、じんわりと手に伝わってくるかもしれません。
茶碗の縁に唇をあてると、分厚く歪な飲み口の形や、素焼きの粘土のザラつきから特有の風合いを感じられそうです。
もちろん、美術館に展示されているでこの茶碗を手に取り、唇をあてたわけではありませんが、綺麗で整った美の姿からはかけ離れた「志野茶碗」からは、視覚だけではない感覚が呼び覚まされるようでした。
この作品が制作された桃山時代に活躍した茶人に「千利休」がいます。
茶の湯を大成した利休は、それまで一般的であった、端正に形成された見た目に美しい茶碗ではなく、手捏ねの歪な形の茶碗を創り出したことでも知られます。
その利休が、茶の湯の精神を伝えるために残した言葉があります。
茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなる 事と知るべし
「ただお湯を沸かし、お茶をたて、飲むだけなのだ」と言い切るこの言葉からは、利休が、茶の湯の本質を「視覚的に美しい道具を愛でること」や「頭で作法を理解すること」などにではなく、「五感を駆使した体験そのもの」にこそあると捉えていたことが窺えまるのです。
後編はこちら↓
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本投稿は『THE 21』(PHP研究所)の誌上で掲載された連載「ビジネスパーソンのためのアート思考」を加筆修正したものです。
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