傷ついてなお、偶然性に身をひらく【鬱地獄生還記4】

2022年12月22日
全体に公開

前回までのあらすじ

鬱からの復職後、井上は全社プレゼンで自らの鬱体験とその学びを共有した。「人生の必然化」に抗うために、井上は傷について語り出すーー。

第一回 自分がみじめだって、気づかなかった【鬱地獄生還記1】

第二回 未来からの逆算で今日を生きるな【鬱地獄生還記2】

第三回 「あの人なりの偶然を、生きてきたんだもんな」【鬱地獄生還記3】

プレゼン続き:偶然と「傷」

※スライドの文字は読まなくてもおおよそ意味が通じるようにしています

さて、本で言えば最終章です。

ここまでをおさらいすると、人間は、常に自分の人生を「必然化(物語化)」する誘惑にさらされています。偶然性を意識しようにも、「頑張って生きてきた私の人生」が否定される気がして、必然性(物語)を手放せない。しかし必然論は、やがて自己責任論にたどりついてしまいます。

この問題意識をふまえた上で、それでもなお、人間が偶然性のナラティブを生きることは可能なのか。

ここからは完全な自論なのですが、僕は「」という言葉がその鍵になると考えています。

そう、九鬼周造の言う「根源的な『無』」から生まれてきたあなたが、数々の選択を繰り返す中で、予期せぬ事態に見舞われ、その身と心に刻んできた「傷」のことです。

選ぶとは何か

その前に、「選ぶ」ことについて一緒に考えてみましょう。ここまで見てきたとおり、人間は偶然を制御しきれない。

では「偶然に満たされた世界で、なお未来に向けて何かを選ぶ」とは、いったいどういう行為なのか?

それは、つまるところ、不確実な未来に向けて、自分の身を投げることじゃないでしょうか。

どんな結果が待っているか、そして、自分がその選択によって誰と出会い、どう影響しあい、どう変化していくか、誰も事前に予測しえない。

誰しもが選び、選ぶ中で傷を負う

選ぶというと、主体的な行為に思えます。「私はそういうタイプじゃない」と思う人もいるかもしれない。でも、どんな受け身な人だって、常に人生を選んできたんです。正確に言えば、選ばざるを得なかった。

小さな選択から大きな選択まで、選択には常にタイムリミットがあります。だから僕たちは気付いたら分岐ルートに立たされ、いずれかを選ばされ、そして偶然に翻弄され、気付いたら傷だらけになっているんです。不確実性の中に繰り返し身を投げることで。

傷ついたことがない人はいません。時とともに順応したり、忘却したりで「やり過ごす」以外の方法を僕たちは持ち併せない。

子どもはより脆弱ですが、大人も、決して大人ゆえの強さを備えているわけではありません。「大人なんだから」と「弱さ」を人前で見せないよう相互に約束しあっているにすぎない。

偶然に翻弄され、傷つき、それでも必死に制御しようともがき、さも傷ついてないかのような顔をして生きるのが大人というものでしょう。今までネガティブに語ってきた「制御の欲求」も、見方を変えれば偶然に翻弄されて生きる人間の「切ない抵抗」とも言えるわけです。

もし今、自分の「傷」を思い出せない人がいるとしたら、その人は部分的に感情を麻痺させてしまっているのかもしれません(曲を聴いて号泣するまで自分の感情に気づけなかった、かつての僕のように)。

感情を感じないように「切断」してしまうのは比較的かんたんです。ただ、これは僕の恩師による人生訓なんですけど「特定の感情だけにふたをすることはできない」んですよね。「悲しい」を感じないようにすると、「楽しい」も感じられなくなる。喜怒哀楽は切り離せない。

あなたの人生は尊く、そして偶然にすぎない

あなたの人生は尊いんです。でも、尊いのは能力などの属性じゃない。能力は、偶然、たまたま手にしたものです。もちろんあなたが努力を積み重ねてきた事実は否定しません。でも、その努力は、その結果は、偶然性というはかない土台の上にあやうく乗っかっているものなんです。

一方で、逆に偶然好ましくない「属性」を手にした人もいるはずです。違う見た目に、違う頭脳に、違う身体に、違う家庭に、生まれたかった人もいるはずです

全員が、偶然手にした「属性」を携え、「名づけられない生きづらさ」を抱え、日々傷つきながら生きている。鬱を経て、今の僕には世界がそんなふうに見えています。

尊いのは属性や能力ではなく、偶然に満ちた世界で選択を迫られ、飛び込み、変化し、生き延びてきた、独自の「傷の集まり」としてのあなたです。

かけがえがない。それだけは、かえがきかない。

結局伝えたかったのは、「あなたの人生は尊い」と、「あなたの人生は偶然の産物である」は両立するということです。

ゆえに、他者が自分とは異質で、よくわからなくても、よくわからないままに、その「尊さ」を認められる。「考え方の違い、価値観の違い」だって異質さです。その異質さを拒絶せずに、「偶然の産物」として捉え、理解しようと思える。

理解と共感の限界、交換の可能性

理解あるいは共感は、近しい人ほど容易ですから、異質な人ほど「遠く」なる構造は変わらない(むしろ強化されるおそれすらある)。だから、僕はここまで「偶然性」という言葉を入り口に、他者と自分の「交換可能性」について伝えてきました。

僕にとっての「ジェンダー」を例に取ると、「自分も女性(トランス、その他)でありえたな」という地点から出発しないと、結局は問題を「理解」しようとしてあげている私、「共感」しようとしてあげているという私という、自分を中心に思考する傲慢さを払拭できない。愚かですから。だから僕は、あらゆる異質な他者と生きるスタート地点に「偶然性」を置きたいのです。

 

さて。

「私は、あなたでもありえた」

「あなたも、私でありえた」

この言葉をゴールにここまで話してきました。そう思えましたか? もしそう思えたら、相手の側からは、どんなナラティブが見えますか?

…わからないですよね。全く違う属性をもって生まれ、全く違う分岐ルートを歩んできたから当然です。まずは「わからなさ」を理解すること、そこが、スタート地点です。このあたりはNewsPicksパブリッシング創刊の一冊『他者と働く』(担当編集:中島)をご参照いただければ。

これはユーザベースのD&Iのミッションです。「わからなさ」を楽しむ。これが、めちゃくちゃ難しい。「わからなさ」から生まれる対立も当然ある。誤解や「コミュニケーションのズレ」なんて日常茶飯事です。

でも、どうせやるなら楽しんでやっちゃおう、と。その先にしか見えない世界に行くのは、もう決まっているんですから。

さて、僕は後半、意図的に「偶然性にひらかれる」という表現を使ってきました。

この「ひらかれ」は何に対しての「ひらかれ」なのか。それは「他人と影響し合い、変化する可能性」に対して、です。

想像してください。あなたの前に異質な他者が現れたとする。この時とりうる選択肢は二つです。

A:当たり障りのないコミュニケーションにとどまる(必然性に閉じる)

B:「わからなさ」を楽しみ、影響し、変化し合う可能性に身を投げる(偶然性にひらかれる)

Aを選び、殻に閉じこもれば無難ですよね。しかしこれはまさに先ほどの弱い必然論「私は私、あなたはあなた」の態度そのものです。

一方、Bを選んだら傷つくかもしれない。自分への影響は、相手が異質であるほどに予測不可能です。結局、「ひらかれる」とは、傷つく可能性を引き受けてなお、他者と関わる姿勢なのかもしれません。

異質な他者と生きざるを得ないわたしたちへ

さて、私たち人類は、他者と生きざるをえない社会的生物だと初回に確認しました。

そして、ここまでDiversability(ユーザベースでの障害者の呼称)を中心に話してきましたが、実際はここに集まった数百人、全員が全員に対して少なからず「異質」なわけです。

そのことを認識した今、必然性に閉じるのか。偶然性にひらかれるのか。

もちろん、余裕がないときはまず閉じてください。自分を、ケアしてください。弱っている時に自分をケアしなければ、それこそ僕みたいに鬱になってしまう。

「常に他者にひらかれていろ」はただのマッチョイズムです。適切な距離があるからこそ、他者とともにいられることだってあります。

…と、そういう前置きをした上で、それでもなお、自分に元気があるときは、できるだけひらいていたい、何が起こるかわからない側に身を投げてみたいなと僕は思っています。

さて、本題はほぼ終わりです。このプレゼンでは、会社・仕事の話はほぼしませんでした。しかし、以下に書かれた「異能は才能」の副文が目指す姿と一致する部分も多かったと思います。

※ユーザベースは「7つのバリュー」を掲げており、その1つに「異能は才能」がある。以下はその副文

異能は才能
異能を掛け合わせることで、見たこともない力が立ち上がる。私たちは、価値観、経験、人種、国籍、民族、宗教、性的指向、身体・知的・精神特性、強み・弱みなど、一人ひとりの異なる個性を歓迎する。そして、共に目指す世界をつくるために、思いや考えを直接当事者に伝え、想像力をもって受け止め、互いの景色を交換する。オープンコミュニケーションの可能性を信じ、分かり合うことを諦めない
「異能は才能」副文

ちなみに、僕の過去の「強がり経験」をシェアしたこともあり、弱みという言葉も入ることになりました。ユーザベースの「異能」には、強さしか含まれないわけではありません。

目を閉じてください

最後に、目を閉じて聞いてください。聴覚にDiversabilityがある方は、閉じないでけっこうです。そして僕が「目を開けて」というまで開けないでください。

…いいですか? 目を閉じましたね?

さて、僕は冒頭「D&Iとは何か」というWHATは語りましたが、「なぜD&Iが必要か?」というWHYは語ってきませんでした。

想像してください。

今この閉じた目が、二度と開かない。全盲、目が見えない人が生きる世界です。横断歩道を渡ることすら、どれほどの恐怖か(記事を「読んで」いる人も5秒でいい。目を完全に閉じたまま横断歩道を渡る自分を想像してください)。

さて、この全盲状態は、「偶然性の哲学」をベースにしたこのプレゼンの言葉で言えば「ありえたあなた」です。

全盲のあなたの前には今、2つの社会がありえます。

1つはこうです。「そうですか、目が見えないんですか。どうすればできるだけ公平に生きていけるか、一緒に考えましょうか」

もう1つはこうです。「そうですか、目が見えないんですか。運が悪かったんですね」

どちらがいいかは明確ですよね。それこそが、D&Iが必要な理由、WHYです。

はい、目を開けてください。

…ご清聴、ありがとうございました。の、前に。

最後に1分だけ、僕の「I have a dream」を語っていいですか。

個人的な話になるんですが、僕、ユーザベースが「新しい経済」をつくる会社だと思って入社しました。

では経済とは何か。実際には、一人ひとりの「暮らし」の集積のことじゃないですか。つまりは社会そのものです。

今は歴史上もっとも「経済」の影響力が大きい時代、経済こそが社会をかたちづくる時代だと僕は捉えています。

ユーザベースは新しい経済をつくる。つまり新しい社会をつくる。つくるという言葉はやや傲慢ですが、影響を与える(そうでなければ存在価値がありません)。だから、ユーザベースがD&Iのソートリーダー、リーディングカンパニーになりましょうよ。言葉そのものが消滅するほどにD&Iが当たり前になった、新しい経済を、ここからつくる。

ユーザベースが震源地となり日本中、そして、世界中を揺さぶっていく。そんな未来を僕は望みます。以上です。

(完。4回にわたってのお付き合いありがとうございました)

シェアのお願い

なぜ、僕はしつこいほどに

「私は、あなたでもありえた」「あなたも、私でありえた」

と唱えてきたか。それは、真にそう実感しない限り、どこまでいっても「私は包摂してあげる側である」という(マジョリティ性からくる)無自覚な傲慢さと無縁ではいられないからです。

人は愚かです。そして、(個人的な感覚にすぎませんが)その愚かさゆえに愛おしい。だから、愚かな人間同士、ともに生きていきましょう。

『弱さ考』など名付けずとも、そもそも人間ほど弱い動物がこの世界を生き抜いてきたその歴史は、「他者と生きる」道を選んだところから始まったのですから。

もしこの連載を応援してくださる方がいれば、以下の「第一回 自分がみじめだって、気づかなかった【鬱地獄生還記1】」のリンクととともに、この連載の感想をシェアしていただけると、大変嬉しいです

#弱さ考 https://newspicks.com/topics/weakness/posts/3?ref=TOPIC_POST_MANAGEMENT_VIEW

※なお、本プレゼンは、同僚の犬丸イレナがビジュアル面を全面的に作り込んでくれたいわば「合作」です。心より感謝します(字を大きくしたりでバランス感が損なわれた部分があるのは僕のせいです)。彼女も、自分の弱さを勇気を出して発信しはじめたみたいです。

新しい問いを届けるNewsPicksパブリッシングNewsletter、ぜひご登録を。

井上慎平Twitter

応援ありがとうございます!
いいねして著者を応援してみませんか



このトピックスについて
樋口 真章さん、他1888人がフォローしています