未来からの逆算で今日を生きるな【鬱地獄生還記2】
前回のあらすじ
鬱からの復職後、井上は全社プレゼンで、自らの鬱体験とその学びを語った。「ままならない」日々を過ごす井上は、ある日「偶然性」「予測不可能性」の哲学と出会うーー。
第一回「自分がみじめだって、気づかなかった」はこちら
プレゼン続き:打ち砕かれる「制御という傲慢」
※スライドの文字は、読まずともおおよそ意味が通じるようにしています
さて、真ん中少し右の「絶望と希望のエンドレスリピート期」、僕は二冊の本と出会います。
1冊目『急に具合が悪くなる』。
医療人類学者・磯野真穂、今日のテーマでもある「偶然性」の研究者・宮野真生子の2人による往復書簡をまとめたものです。
本は、タイトルのとおり、宮野が急に具合が悪くなるところから始まります。偶然性の研究者が、まさに「偶然」にも末期ガンに冒されてしまった。そこでひとつ印象的なシーンがありました。「残りの人生をどのように生きるか」を考えるシーンで、末期ガン患者の宮野は言います。
「未来からの逆算の語りを、私は拒否する」と。
つまりは、「未来から逆算して今を生きる」ナラティブを拒否するということですね。
代表的なものは「死ぬまでにやりたいことリスト」「終活」など。それらに宮野はNOをつきつける。なぜなら、未来は、少し先のことさえわからないから、と。
今、私たちの目の前には「何をして、何をしないか」について無数の分岐が枝分かれしています。しかも、ひとつ目の分岐を選んだらそれで終わりではありません。私たちは数限りない分岐ルートを、繰り返し、繰り返し選び続ける。その選択の中で、偶然に翻弄されるわけです。そして、同じように偶然に翻弄される他者と出会い、互いに影響しあい、変化していく。
一方、「未来からの逆算」のナラティブは、あたかも未来から現在まで、一本の道がまっすぐ届いていることを前提としています。そこには、何も考慮されていない。偶然も、変化していく自分も、そのきっかけとなる他者も。何もない。
こう言い残して、宮野はこの世を去ります。
分岐ルートのいずれかを選ぶとは、一本の道を選ぶことではない。新しく無数に開かれた可能性全体に入ってゆくことなのです
そう、道は一本ではないんですね。
「人生は戦略的にコントロールできる」と思いあがっていた当時の自分には、この偶然性の哲学、予測不可能性の哲学がとことん響きました。
もう一冊、回復期に出会った本を紹介させてください。
不確実性への恐れがシステムを生む
『その日暮らしの人類学』。
したたかに生きていく、アフリカ都市民の暮らしを描いた文化人類学の本です。彼らは明日の計画を立てない。職業も、住む場所すらもコロコロ変わる。この本、特に最高なのが「はじめに」と「あとがき」なんですよね。
文化人類学とは、日本社会を直接描くことなく、むしろかけ離れた社会を描くことで、逆照射的に(鏡を当てるように)日本の社会のあり方を問い直す、迂遠で遠回りな試みである
「はじめに」で提示したこの「遠回りな試み」を、小川さんは「おわりに」でどう総括したか?
「人間は究極的には『Living for today』、その日暮らしな存在である」「しかし、人間はその不確実性に耐えられない。そして、不確実性を排除しようとあらゆるシステムをつくりだす」
ここでいうシステムとは、法律と罰則だったり、法人・カンパニーだったり、金融システムだったり、もっといえば常識やマナーだって、不確実性を下げるためのシステムという側面があります。これは人類学だけでなく、社会学の分野でも言われていることです。
ルールやシステムは、人類社会をここまで発展させた素晴らしい創作物なんですよ。
ただ、その背後には不確実なもの、宮野の言葉でいえば「偶然性」への恐怖、そして「制御への欲求」があるという指摘が、この本で特に響いたところでした。
ここまで僕が感じたことをまとめると、
人間は不確実性(偶然性)を恐れ、「制御のナラティブ」を取り入れ、つい未来から逆算して今を生きようとする生き物だ、と言えそうです。
自分が人生のコントローラーを持っていて、多少は制御できるかのように錯覚しちゃうんですよね。
だから私たちは「未来を一本の道」のように捉えがちです。だけど、繰り返しますが、実際には未来は無数の偶然にひらかれています。
では、過去はどうでしょう? なぜ、私は「このような私」としてここにあるのか?
説明はある程度可能でしょう。大学に入る時、地元から出てきたから。海外に留学にいったから。あの人と結婚したから。でも、根本のところはどうでしょう? いちばん最初、あなたが誕生した瞬間まで遡りましょう。
一回の射精で排出される精子は1〜3億です。そして、卵子と結合するのはそのうちたったひとつです。その「ひとつ」が、一個ズレていれば、あなたは「まったく違うあなた」として生まれてきたはずです。
サッカーが得意で、ワールドカップに出ていたかもしれない。
お笑い芸人になっていたかもしれない。
性別が違ったかもしれない。
一日中、幻覚と幻聴に悩まされているかもしれない。
心臓の病気で、5歳まで生きられなかったかもしれない。
究極的に、生命が誕生した瞬間まで遡ると、あなたがあなたである根拠は「無」です。
あなたが生まれたのは、(思考レベルで言えば)10世紀でも22世紀でもありえたし、日本でもスリランカでもトルコでもありえたわけです。
なのにこの時代に生まれ、無数の分岐ルートを選んだ結果、たまたま今こうして僕の言葉を聴いている。
人間の根源には「無」がある
ガンで亡くなった宮野が研究対象にしていたのは、九鬼周造という日本の哲学者です。
彼は、『偶然性の問題』という本の中で「人間の根源には無がある」と指摘し、偶然性を、「ないことも可能であるにもかかわらず、あるもの」と定義しました。
そして、「人間は偶然性でできている」と指摘します。
でもね、いきなり「あなたは偶然性でできているんだ!」と言われても、たぶんピンとこないと思うんですよ。
なぜかというと、人間は偶然を、必然化してしまう生き物だからです。
「必然化」よりも「物語化」といったほうがイメージしやすいかもしれませんね。
要は、「Aという原因があったから、Bという結果が生まれた」みたいに、因果関係で物事を捉えてしまいがちなんです。
たとえば、個人の人生で言えば「自分は貧しさを努力で克服した」というのもひとつの物語です。そう思うことでアイデンティティは安定する。だから、「物語化」自体は悪いものではないんです。むしろ人類が生きていくために編み出した知恵とも言える。
大事なのでもう一回言いますよ。
現実には、人生は偶然に満ちています。しかし、人間はそれを必然化し、因果関係のある「物語」として認識してしまう。
あなたの背後に無数に存在する「ありえたあなた」
しかし、「物語化」には副作用があります。
実際には、あなたが「このようなあなた」になるにはいくつもの偶然がありました。仮に、他は完全に同じ条件で、一つ違う学年に生まれただけでも、あなたには相当違った人生が待ち受けていたはずです。でも、「物語化」はその偶然を忘れさせてしまう。
さっきの例で言えば、「貧しさを努力で克服した人生」は、「貧しさのせいでいじめられて、立ち直れなくなっていた人生」でもありえた。でも、本人は当然そんな可能性は考えないですよね。「おれ、一生この部屋で引きこもってたかもな…」なんて。でも、そんな現実だって十分にありえたわけです。
さて、あなたの人生にはここまで、無数の分岐ルートがありました。
つまり「今のあなた」ではない別の「ありえたあなた」が無数に存在したわけです。
可能性としての「あなた2」、「あなた3」、「あなた4」「あなた10」〜「あなた1億」…が存在したわけですが、それを想像し、認識するのは相当に難しい。
『急に具合が悪くなる』の最後、ついに往復書簡は果て、宮野は亡くなりました。
残された共著者の磯野真帆が書いた次の著書『他者と生きる』には、宮野の影響が色濃く出ています。まさにこのプレゼンのテーマそのものなので、読みますね。
私には、このように生まれない可能性はいくらでもあった。にもかかわらず、私は人生をこう歩んでいる。私は、私の代わりに存在したかもしれない。私がこのように生まれたゆえに無になったいくつもの可能性を背後に抱え、無数のそうでない可能性を食い破って、今ここにある
若くして友を喪った磯野が用いる、「食い破って」という言葉の重みたるや。
さて、ここでいったんここまでの内容をまとめましょう。
・D&Iは人間の本能に反する、難しいもの
・ゆえにD&I実現には「私は、あなたでありえた」「あなたも、私でありえた」という偶然性の感覚が鍵になる
・事実、あなたは制御できない数々の偶然の影響を受けて生きてきた
・しかし、人は人生を安定させるために、過去を必然化(物語化)し、偶然性を軽視してしまう
そしていちばん重要なのは、
・あなたは、今のあなたではない「別のありようのあなた」でも十分ありえた
ということです。ここが伝われば、バイパスは半分開通です。
(次回に続く)
新しい問いを届けるNewsPicksパブリッシングNewsletter、こちらもよろしければ。
井上慎平Twitter
更新の通知を受け取りましょう
投稿したコメント