SNSのなかの「現実」

2023年7月21日
全体に公開

人間関係の主要な場が、リアルな現実の空間からSNS上に移行して久しい時間が経っています。2000年代に入るころからデジタルな結びつきが日常生活に不可欠なものになり出して、現在は大変な比重を持つようになりました。多くの人がSNSを活用していますし、しかも複数のSNSを活用しています。好んで利用している場合もあれば、やむをえず利用している場合もあると思いますが、いずれにせよ、私のようにかつて違和感を覚えつつ利用を開始した人たちもいつしか慣れ、自分なりの付き合いかたを見つけて日々を生きている場合がほとんどでしょう。

当然ですが、SNSで熱心に発信する人と、あまり熱心に発信しない人がいます。私は根が無精なので後者ですが、他人の投稿は「幸せ」な写真や動画でいっぱいです。ひねくれ者の私は、嫉妬も覚えつつ、そうした「幸せ」なイメージを見ているわけですが、そこに表現されている「幸せ」が多分に作られたものであることも強く意識しています。さりげない日常を切り取ったものではなく、演出された「幸せ」であり、他人に見せるためのイメージであるという事実を。私ばかりでなく、ほとんどの人にとって、SNS上のイメージが真と偽の中間に浮遊していることは自明でしょう。

しかし、明らかな偽であるともいえない。そこがポイントです。私たちは多少とも演出込みであると了解しつつ、他人の「幸せ」を受け取り、かつ自分の「幸せ」を発信している。「幸せ」を交換して承認し合っている。もちろん、それは少しも悪いことではない。ただ、興味深いメカニズムがここに潜んでいることも事実です。

UnsplashのRishabh Dharmaniが撮影した写真

他人の目で「見る」

現代の私たちは、ランダムに撮影した画像や動画から、SNSにアップロードするものを選び出すわけではないでしょう。そういう場合もあるでしょうが、多くの場合は最初から、アップロードすることを想定して写真や動画を撮る。そして、撮ったものを自分の目で見て確認し、OKと判断したらアップロードする。ですが、このプロセスにおいて、画像を確認しているのは本当に「自分の目」でしょうか? 正確にいえば「(私が想像する)他人の目」で見ているのではないでしょうか。鏡を覗きこむときのように、他人にどう映るかを想像しながら、他人に成り代わって見ているのではないでしょうか。

私が言いたいのは、発信用の画像の多くは、「私」中心ではなく「他人」中心に作られているということです。「私」が見るためではなく、「他人」が見るために作られている。これが高じていくと、私たちは普段の生活のなかでも(映像を撮っていないときでも)他人の目で世界を見るようになりはしないでしょうか。「私」が「私」から乖離してゆく現実がそこに待っているのではないでしょうか? 極端な場合は、「他人の目」に映る自分の姿だけが、自分のリアリティなのだと感じはじめるのではないでしょうか?

悲しいのは、「私」のなかにいる「他人」はあくまで「私」の想像の産物で、ついに本物の他人の目にはなりきれないところにあります。これだけSNS上でいろいろな人々とつながっても、相手のところには通じてはおらず、自分の脳内をぐるぐるさまよっているだけとも言えます。しかも、他人に到達できないばかりでなく、自分にも到達できないことは明白です。なぜなら「私」はイメージ(映像)では決してないからです。鏡を覗きこんでそこに映るイメージは「私」でしょうか。それは、先ほども言った通り、他人の目に映った「私」です。「私」は「私」には見えません。目が目そのものを見ることはないのと一緒です。では「私」はどこにいるのでしょうか。この問題は、ここで論じるには大きすぎるので、追々ゆっくり考えていきたいと思いますが、少なくともSNS上にいないことだけは確かでしょう。

トップ画像はUnsplashのAndrik Langfieldが撮影した写真

応援ありがとうございます!
いいねして著者を応援してみませんか



このトピックスについて
樋口 真章さん、他508人がフォローしています