画像vs文字  情報伝達の闘争史

2024年6月11日
全体に公開

メディア史の議論でしばしば指摘されることですが、情報メディアという観点からすれば、まず図像があり、それから文字が主流となり、また図像が盛り返してきたという流れが、古代から21世紀までのメディア史の動きとしてあります。このトピックスでも、文字が主流となる時代(中世後期から19世紀初頭まで)に私たちの意識がどう変化したのか少し前に考察しました。文字は画像とくらべ、圧倒的に抽象的であり、そのために文字文化は哲学や科学の発展に大きく寄与しました。しかし文字は同時に、私たちの自意識を肥大させ、かつ世界をも抽象化したことで私たちと世界との距離も広げてしまいました。

画像と文字の相互影響

もちろん、文字が重視された時代に、画像が忘れられたわけではありません。画像と文字は互いに影響を与えながらその性質を変化させたのです。文字は、次第に読むものから見るものへ性質を変化させ、逆に、画像は見るものから読むものに変化しました。どういうことかピンときませんでしょうか? たとえば、美術館の絵画を見る場合、それは画像なのですから、純粋にそこにある色や形態を見て楽しめばいいはずです。しかし私たちはその背後にある「意味」や「内容」、「メッセージ」を探してしまいます。つまり、画像を文字のように読もうとしているわけです。これは明らかに、私たち自身の倒錯というよりも、画像そのものが読むものへと変化してきた結果といえます。文字は画像へ、画像は文字へと、長い歴史のなかでこの二つのメディアが互いに影響を及ぼした結果なのです。

かつて画像は、現実そのものの現前だったはずです。神話時代の、呪術的な目的で描かれた画像が、当時の人々にどう扱われたかを省みるとき、そのことは明らかです。つまり、古い時代の画像にはリアリティが備わっていた。他方、文字は現実をいちじるしく抽象したものなので、リアリティは当然薄れます。文字によって表現された世界は、世界そのものというより、世界を記号化した、フィクション性の高いものとなる。19世紀に写真という映像の時代が到来し、文字より画像の力がふたたび強力になると、画像はリアリティを再獲得したのでしょうか? ベンヤミンの有名な論文によれば、答えは否です。「複製技術」はオリジナルな(リアルな)ものからアウラ(リアリティ)を奪ってしまうと彼は言います。その通りだと思います。19世紀以降の映像時代、映像は現実の窓では決してなく、映像が現実であるというのは錯覚、つまり幻想に過ぎないことは明らかです。

画像時代ふたたび

つまり、画像の力が盛り返してきても、古代の画像のようにリアリティはもはやそこにはない。画像は現実そのものでも、現実を見るための窓でもなく、客観性なきイメージでしかなくなってしまったようです。その元凶は、19世紀以降の画像は人間が作るものでなく、機械が作るものになったからです。写真も動画も、人間がコントロールしているにせよ、結局は機械のメカニズムが出来上がる映像の質を決定します。チェコ出身の哲学者ヴィレム・フルッサーはこう指摘しています。

テクノ画像のコード化は、いずれにしてもこうしたブラックボックスの中で行われます。その結果、テクノ画像への批判はその内部を明らかにすることに向けられなければなりません。そうした批判ができないかぎり、私たちは、テクノ画像についていわば識字力のない人のままにとどまるのです。
ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』深川雅文訳、勁草書房、1999年。p.17より

テクノ画像とは、機械が自動的に作り出すイメージのことで、画家やイラストレーターが描くイメージでない映像全般がこれに当たります。フルッサーは、現代人の生活を取り囲んでいる画像イメージのリテラシー能力が非常に重要である、と言います。なぜなら、リテラシーがないままに画像に取り囲まれれば、私たちはどこまでも無力だからです。画像は文字とくらべてわかりやすい。文字は抽象的である分、私たちが積極的に働きかけないとその情報は汲み出せない。一方、画像はわかりやすく、私たちの感情や欲望をつかむ力は強力です。私たちは簡単に画像に呑み込まれてしまう。

UnsplashのDellが撮影した写真

古代の画像と現代の画像をくらべてみたとき、そこにある違いは、後者が文字文化の圧倒的な影響を受けている、という点です。現代の画像は(こういう言い方が正しいかわかりませんが)純粋な、多義的で曖昧な画像ではなく、文字のようにはっきりとした意味や概念を背後に持つイメージです。それはある意味でわかりやすい情報に違いない。メディアの発達史は、情報伝達の効率化の歴史です。古代の画像より文字の方が、そして文字より第二世代のテクノ画像の方が、そこに含まれた情報はわかりやすく、他者へ伝達しやすい。しかし、それは、情報の質が粗雑になっている、ということではないでしょうか。世界についてのリアリティが薄れていっているような気がするのは、そのためではないでしょうか。

リアリティとは何か?

では、私たちがリアリティを内包するイメージへ回帰することは果たして可能なのか? それはほとんど絶望的です。なぜならリアリティとは「わかりにくさ」と同義なので、私たち現代人が好んで「わかりにくい」ものへ向かうことは性分からしてなさそうに思われるからです。画像も文字も、リアルという世界を読み解くコードに他なりません。コードを手放すことは、文化そのものを手放すことであり、そんな英断を人々がするとは思えません。歴史の流れを正義だとするならば、リアリティ喪失も必然であり人間が望んだ結果というわけです。

こんな話があります。先天盲の方が大人になってから手術を受けて目が見えるようになった場合、視覚健常者のように「見る」ためには訓練が必要で、視覚健常者のような、視覚情報をコード化する力を身につけるまでは、「見える」ことが非常に苦痛であると。時間をかければいつの間にか健常者のように世界が「見える」ようになるわけではなく、コード化された世界(見えるがままでなく、抽象化された世界)が見えるようになるまで周囲の手助けが必要で、その訓練には大変な苦労が伴うと言います。この訓練とはつまり、世界を見るのではなく、世界を見ない訓練です。あるがままに世界を見るのではなく、抽象化され記号化された世界だけを見る訓練に他なりません。つまりリアリティから遠ざかることが、普通の意味でいう「見る」ことなのです。この話は、あるがままの現実とは混沌であり苦痛であるという冷然たる事実を教えてくれます。

トップ画像はUnsplashのMariia Yesionovaが撮影した写真

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