人類はみな沈黙を恐れる:あいさつと雑談と魔除け
人間と人間との対話。そして時々やってくる沈黙。
沈黙は、私たち人類がみな恐怖し、呪ってきた「魔の時間」です。
本屋に行くと、ビジネスや日常で使えるあいさつのパターンや雑談のハウツー本があふれています。
私たちは沈黙を埋める言葉を探すのに必死です。そしてその言葉が適切かどうか、不自然でないかどうかをいつも気にかけ、疲弊しています。
他人の沈黙は、不安の種であるばかりでなく、警戒しなければならない危険なものである。
この至言を残したのは、南太平洋・メラネシアのトロブリアンド諸島でフィードワークを行った人類学者のB.マリノフスキーです。
恐ろしい恐ろしい沈黙。これを制してきた人類の歴史を物語るのが、あいさつや雑談です。不思議なことに、それらのほとんどが十分な意味内容の伴わない「意味なき言葉」です。「意味なき言葉」、その意味について今回は考えてみたいと思います。
「意味なき言葉」の意味とは?
わたしが調査をしている南スーダンのヌエル社会の日常的なあいさつです。
「マーレ?」(平和か?)――「マーレ・ミグワ!」(とても平和だよ!)
少しでも南スーダンのことを知っている人なら、紛争ばかりのこの国に暮らす人々のあいさつが「平和」だというのは何とも皮肉だと思うでしょう。紛争時・平和時にかかわらず、人々は毎日このあいさつをします。でも、「平和じゃねぇだろうが!」とツッコミをいれる人はいません。
日本に暮らす私たちも似たことをしています。
「こんにちは」(=「今日は…」)と言われて、「今日が一体何だというのです?続けてください。」とツッコむ人はいないでしょう。
「いいお天気ですねぇ」と言われて、「いや、微妙に西方が曇っていますけど。」と返すツワモノもなかなかいなそうです。
言葉とは、第一に意志や思考を伝達するために存在すると考えられています。となると、上にあげたある種「意味のある」ツッコミは当然の応答のようにも思えます。
が、なぜか私たちはそうしません。いずれの社会でも、これらのツッコミをしたならば「ヤバい人」認定される流れになるでしょう…。
南太平洋の島々でマリノフスキーが発見したのは、メラネシア人でも欧米人でも、沈黙の恐怖に打ち勝つために、内容をほとんど伴わない「意味なき言葉」を発達させていたということでした。
沈黙を破ること、すなわち言葉の交換は交友関係をつくる第一歩である。…現代英語の「良いお天気ですねNice day to-day」とメラネシアの「どこからきましたかWhence comest thou?」ということばは、人々が沈黙のなかで互いに顔をあわせているときに感じる不愉快さや妙な感じを打破するのに必要である。
沈黙に伴う「不愉快さ」、「妙な感じ」そして「危険」。「意味なき言葉」の交換によって、私たちは必死で目の前の人間と生じうる危険を回避しています。
交感的言語使用
マリノフスキーは、あいさつを代表とする、人間関係やその場の雰囲気のために交わされる「意味なき言葉」に「交感的言語使用」(phatic communion)という用語を与えました。(*2)
「意味がないからこそ意味がある」・・・なんて言うとカッコいいですが、要は、私たちは目の前の人間との対話に恐怖しているのです。
「おはよう」――「おはようございます!」、「お疲れ~」——「お疲れ!」
このやりとりの陰にあるのは次の不安です:
あなたは私を攻撃しないよね?大丈夫だよね?ねっ?
天候、著名人のスキャンダル、誰かのうわさ話…どうでもいいような、毒にも薬にもならない話題は、今日も私たちの人間関係の「魔除け」として機能しています。
「魔除け」の種類と効果
人類が発達させてきた「魔除け」にもいろいろな種類と効果があります。ことばだけではなく、その際のしぐさも大事ですね:声のボリューム、お辞儀の角度、わざとらしさを感じさせぬ程度のほほえみ・・・。
例えばヌエル社会では、お年寄りにあいさつするときは、頭を差し出し、ツバを吐きかけてもらいます。お年寄りのツバは、縁起のいい、ありがたいものだからです。
私たちの社会で初対面の人に同じことをしたならば、とんでもない侮辱ですよね。
ツバの吐きかけという「あいさつ」が、片方では尊敬の念と長幼・上下関係を、他方では侮辱と敵対関係を生み出すのは面白いです。
あいさつは、そのしぐさや内容によって、目の前の人と「望ましい」と思われる関係を創り出します。仲間とよそ者、身内と他人、偉い人と偉くない人・・・。
声量、目線、表情、しぐさを器用に使い分けて、私たちは都度相手に「攻撃しないよね?」に加えて、「私たちの関係はこれでいいよね?」と確認しているのです。
平等主義を特徴とする狩猟採集社会などでは、あいさつをすることが一種のタブー、禁忌であるところもあるそうです。あいさつは、否応なく関係をつくってしまうからですね。様々な関係に四苦八苦している私たちからすればうらやましいような。
となると、沈黙という魔の時間を祓う「魔除け」として使用していたはずのあいさつ自体が、新たな「魔」的コミュニケーション空間や人間関係を創っているともいえます。
あいさつできる/できないが示すもの
「あいさつもロクにできない人」「あいさつだけは立派」「雑談上手」
こう言われる人はあなたの周りにいませんか?あるいはあなた自身がそうでしょうか?
私たちは、基本的なあいさつを「朝の会」や「あいさつ週間」で小学校の頃から学び、すでにマスターしているはずです。が、大人になっても『ごあいさつ例文集』やマナー講師のお世話にならなければならないのは、否応なく関係を作ってしまうという特性のためです。
やっかいなことに、私たちの社会では、あいさつができる/できないことが、ある人物を評価する基準、または人格の一部を物語るものにもなっています。
ニュースに登場する「近所の人」が、ある人物を「あいさつはする子だったけど」評した時、その人は「普通の人」であることが示唆されます。対し、「あいさつも返さない子」だと、その人の異常性をほのめかしているかのようです。「あいさつができない」場合、状況によっては「やっぱりね」と受け手に何らかの納得を引き起こすこともあるでしょう。
「魔除け」は私たちを救うか
人間関係という魔境を生き抜くためには「魔除け」はうまく使えたほうがいいに決まっています。が、同時に、「魔除け」は運用に失敗すると大いなる災難が降りかかる危険なものでもあります。
あいさつのやり方一つに戸惑うこと、雑談ができずに悩むことは、人類の沈黙との闘いの歴史からすればきわめて自然なことです。何気なく発されるあいさつや雑談も、私たちが人生のなかで、歯を食いしばって涙こらえて身に着けてきた努力の賜物です。
交感的言語使用と訳されたphatic communionですが、phaticには「社交上」「儀礼上」、communionには「霊的交わり」という意味があります。これが示唆するのは、人間同士のコミュニケーションは神や霊的な力を借りなければならないほどに困難だということではないでしょうか。人間と人間とがコミュニケーションがとれる、ということは奇跡にも似た現象なのかもしれませんね。
サバイバル術としてのあいさつ
マリノフスキーは、未開社会(*2)においても、近代社会においても交感的言語使用が存在していることを強調します。つまり、私たちのコミュニケーションも十分に「未開」のままなのです。
「意味なき言葉」は、今日も否応なく私たちの関係を作り、人間の人生を翻弄しています。それは、私たちが沈黙という魔を封じ、神的な力を借りてなんとかコミュニケーションを成立させようとしてきた努力のなごりです。
私たちは、死ぬまで精神の「あいさつ週間」を続けなければならないのでしょうか?いいえ、葬儀の時のあいさつルールも相当に複雑なので(マニュアル本がたくさん!)、死んでもなお、あいさつからは解放されないようです。軽い絶望を共有しながら、私たちはあいさつ・雑談と付き合っていくのです。
あなたは今日、何回「わたしを攻撃しないよね?」と確認しましたか。その確認行為は、私たちの「未開社会」における立派なサバイバル行為にほかならないのです。
トピ画:
(*1) Malinowski, Bronislaw [1927/1923] The Problem of Meaning in Primitive Languages, In C. K. Ogden and I. A. Richards (eds.) The Meaning of Meaning: A Study of the Influence of Language upon Thought and of the Science of Symbolism, New York: Harcourt, Brace and Company, pp.296-336.
(*2) 今の人類学では(「文明社会」と対置される)「未開社会」という語はあまり用いません。マリノフスキーは人類の普遍的特性としての交感的言語使用を強調していたので、primitiveは「原始」と訳したほうがよいのかもしれません。
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