私たちは本当に「幸せ」になりたいのか:至上の呪いと向き合う

2023年6月29日
全体に公開

「幸せになりますように」。私たちはどれほど、この祈りに支配され、苦しんできたことでしょう。「幸せ」というのは恐るべきパワーワード、あるいは呪詛(じゅそ)=呪いのことばです。

「幸せになりたい!」と心から願いつつも、ではそれが何なのかと聞かれると、モゴモゴとしか答えられない人は結構いるのではないでしょうか。収入?健康?愛情たっぷりの家族?キラキラした仕事や人間関係?SNS上で「幸せ」に見える人のような暮らし?…何があれば私たちはためらいなく、「自分は幸せだ!」と言い切れるのでしょう。

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「幸せのかたちは人それぞれ」――昨今いろんなところで見かけるこのコメント、もちろんその通りだと思います。でも残念ながら、何度もこれを主張して回らなければならない程度には、私たちはそうは思えずにいるようです。「人それぞれなんだ!」と叫びながらも、隣の青く見える芝を刈り取る機会をうかがっている人も意外に多いのではないでしょうか。それは悪い人ではなく、案外みなさんのような普通の人なのかもしれません。

前記事で「牛に呪われたようにみえる」と紹介した、わたしの調査対象の南スーダンの牧畜民の言語には、「幸せ」と直訳できる語がありません。「幸せ」という語を持たない人々は、人生の幸・不幸をどのように考えるのでしょうか?今回は、彼らとの対話から、私たちを苦しめる「幸せ」について考えるヒントを得ようと思います。

「かわいそう」と言い合う人々

南スーダンに対する日本の報道の多くは、紛争や貧困、難民といった「悲惨さ」をクローズアップしています。多くの人の南スーダンに対するイメージは「かわいそう」で「不幸」な国でしょう。もちろんそういう側面があるのも事実です。・・・が、そんな南スーダンの国内をふらふら歩いていると、日本が「かわいそうな国」と表現されることがあるのです。次は、南スーダンの村に暮らす、わたしの調査対象のヌエル族との典型的な会話です。

ヌエル:「君のお父さん牛何頭くらい持ってるの?」「君と結婚するには何頭くらい牛いるの?」(*1)

わたし:「うちの父は牛持ってないよ」「日本では結婚するのに牛いらないよ。」

わたしは日本にはその辺に牛なんていないことを説明します。すると…

ヌエル:「…嗚呼!なんてかわいそうな日本人牛がいないなんて、日本人の生活が心配だ…ちょっとわたしたちが援助する必要があるかな。牛を送ってやったほうがいいか?」(真顔)

上の会話のポイントは、あくまでヌエルの人たちが冗談ではなく、「牛を持たない」私たちのことを真剣に心配しているということです。

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日本人と南スーダン人がお互いに「かわいそう」と心配し合っているというのはなんだか不思議ですね。どうしてこのような現象が起きるのでしょうか?それは、それぞれの社会で期待される「幸せ」のあり方が異なっているからです。ヌエルでは牛がないことは、物質的・精神的・共同体的窮乏=不幸・貧しさを意味します。

牛が「幸せ」をもたらす理由

どうして牛がそれほどまでに人間の「幸せ」を左右するのでしょうか?牛といえば、私たちには主に食糧と認識されていますが、彼らは牛を殺して食べることは積極的にはしません。牛は「生かしておけば勝手に(子どもを産んで)増える資産」だからです。それどころか、牛の価値を理解せずに食糧としての価値しか見出さない私たちのような人間を彼らは「牛喰い」と侮蔑的に呼ぶこともあります。

日本には「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉があります。一方、牛は子孫を残し、その血は継承され、どこかで血は生きています。つまり、「切れ目」がないのです(*2)。牛の「切れ目」のなさによって満たされるのは、以下のものです。

●人間関係(例:牛の贈与や交換による婚姻、友情関係の成立、紛争の和解)

●食事や住居、ファッション、健康(ミルクの加工品、牛の糞を混ぜた土壁の住居、牛の尿を利用した髪の脱色、牛の糞を燃やした灰は蚊よけに使用)

●自分と牛との同一化(牛の名前が自分の名前になる、自分の牛を称える歌を作る)

牛を受け継いできた祖先とのつながりとの確認(祖先の名を持つウシの一群=一種の歴史)

自分の子孫に財産を受け継げるという安心感

神とのつながり(災難時に牛を供物として捧げる)

牛があると、人間の「幸せ」を構成すると思われる要素がだいたいカバーされるんですね。放牧(仕事)、衣食住(健康、安定)、他の人間とつながること(結婚、友情)、不安のないこと(賠償、保険)、歌(娯楽)、信仰・祖先とのつながり(精神生活)、財産の継承(子孫繁栄)、そして自分とは誰かという問い(アイデンティティ)。

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なんだか私たちの社会ではカネがこれらを何とかしてくれそうです。が…特に人間や自己がかかわる問題となるとカネだけでよいか怪しくなってきます。その点、ヌエルは「牛はカネと違って私たちのように『血を持つ』から大丈夫」と言います。何がどう大丈夫なのかは説明が難しいのですが、少なくとも、「これがあるからひとまず大丈夫」と言ってしまえるこの自信自体が、人々の幸福感に寄与している気がします。

「幸せ」ということばのない世界は可能か?

では、牛は彼らの「幸せ」にとって無双なのでしょうか?

現在の南スーダンでは、貨幣経済が浸透し、ある場面では人々はカネを使い、ある場面は牛を使い続けるという暮らしに変化しています。紙幣を「ポケットに入る牛」と表現し、その便利さに満足していた人もいました。多くの人が携帯電話やスマホを持っているので、SNSを通じて世界の「幸せ」を目にすることができます。その様子を目にして、「でも我らには牛が!」と言い続けられるツワモノは多くありません

牛?カネ?イカした仕事?銃?それともペン(=教育)?あるいは自慢のパートナー?

特に若者たちと話していると、いろんな幸せの要素やそれをめぐるジレンマが飛び出してきます。私たちの経済生活と地続きの暮らしには、私たちが呪われているところの「幸せ」もまた存在し、「幸せのかたちはそれぞれ」という新たな呪いのパターンもじわじわと浸透しつつあるみたいです。

でも、わたしが出会った人の中で、自分が「幸せ」であるかどうかについて長きにわたり悩んでいる人はそうはいませんでした。「幸せ」という語がないから当たり前かもしれませんが、それは彼らが幸せでないことを意味しません。「幸せ」的なものを表現したいときには次の表現があります。

「良いもの」(物質)、「良いふるまい」(人)、「良いこと」(出来事)、それを見て「心がうれしくなっている」。

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「幸せ」の要素は多々あれど、とりあえず牛があれば「心がうれしくなる」ことについて否定はされません。そして自分が「幸せ」かどうかで悩むことは「心がうれしくない」ことです。刹那的に見えるかもしれませんが、存在するのかどうかわからない、ほとんど誇大妄想の普遍的な「幸せ」のイメージに四苦八苦している私たちよりは幾分現実的にも見えます。

「幸せ」という、パワフルだけどあいまいな呪詛を私たちは捨てることができるでしょうか?そんなものはどこかの川にでも流してしまって、幸せ的な何ものかを「牛」とでも呼んだらいいんじゃないでしょうか?

とっぴなアイデアのように思われるかもしれません。が、実は禅の思想で「真の自己」を牛に喩える見方があります(*3)。私たちは皆、それぞれの牛を求めてさまよい歩く牧人です。意外にも、牛は地域を超えて、私たち「牛喰い」にも「幸せ」についてのヒントを与えてくれているのかもしれません。

「心がうれしくなる」ためのあなただけの「牛」はどこにありますか。その「牛」は、あなたが囚われている紋切り型の「幸せになりたい!」という祈り=呪いを解くのを手伝ってくれるかもしれません。

トピ画:Getty Images

*1 ヌエル社会で結婚が成立するためには、夫側から妻側に牛を30~40頭程度送る必要があります。一夫多妻制なので、金持ちならぬ「牛持ち」は多くの妻を得ることができます。

*2 もちろん、気候変動や牛疫などの感染症によって村の牛が全滅することはありえます。しかし、人々は地域を超えた牛の交換も行っていますので、離れた地域にいる自分たちの牛の子孫を辿って再び牛を得ることができます。

*3 迷える牧人が真実の自己(=牛)を見つけて悟りにいたるまでの段階を10に分けて表現した「十牛図」という禅の入門書があります。

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