テレビの登場は時間感覚をどう変えたか?

2024年2月16日
全体に公開

少し哲学的な問題に入りこみすぎたので、メディアの問題へ戻りたいと思います。日本におけるテレビの本格的な放送開始は1953年です。日本社会にテレビが登場しておよそ70年。すでにテレビというメディアは後発のメディアに押され気味ですが、テレビが私たちの現実感覚に与えた影響は、決して小さくありません。特に私たちの時間意識を大きく変容させた事実は、見逃してはならないでしょう。

先日、上野昂志『戦後再考』(朝日新聞社、1995)を再読し、いろいろな発見がありました。著者が、初めてテレビ中継を見たときの印象を述べている部分がとりわけ印象的です。日米初のテレビ中継で映し出された映像は、ケネディ大統領暗殺のシーンだった、と上野は回想します。彼はこのテレビ中継を、東京から夜行で十時間かけて到着した大阪の地で見たといい、「衛星で結ばれた日本とアメリカのほうが、東京と大阪よりも近い」ことに驚き、「そのとき味わった時間と空間の奇妙にねじれた感覚」(p.154) を綴っています。

現代の私たちにとって、中継の映像はきわめてありふれています。ライブ映像はテレビばかりでなく、ネット上を埋め尽くしており、「いまこの瞬間」が至るところにあって、世界のさまざまな断片が映像に映し出されています。テレビが中継を開始したときから、現在の世界を地球上の全員が目撃し、共有するようになったわけです。かつては、遠く離れた場所で起きた出来事は、その情報が到達するまでにかなりの時間を要しました。つまり、世界の人々は、同じ時間を生きてはいなかった。しかし中継が、距離的に隔たった人々を結びつけ、同じ時間の共有を可能にした。それは果たして、喜ばしいことだったのでしょうか?

もちろん、情報のすばやい共有は、資本主義社会にとって必須の要素ではあります。けれどもそこにはネガティブな影響も潜在しています。「リアル・タイムで連続的に流れてくる映像は」と上野は言います。「(見る者と見られているものの時間的・空間的な)ずれを限りなくゼロにする。いわばそこでは、見ている側のいま、ここという時間的・空間的現在性は解体されてしまうのである」(p.157)。つまり、テレビ中継以前には、個々人がそれぞれ自分の「いま・ここ」という時間を生きていた。「いま」という感覚は、あくまで「私」のものだった。しかし、テレビ中継が始まるとともに、個人の「いま」は失われ、「いま」とは常に他者のもの、あくまでライブ映像のなかにあるものになってしまった、ということです。

UnsplashのDjim Loicが撮影した写真

テレビに限らず映像全般にいえることですが、映像はもともと現実のコピーであるという常識は誰もが持ち合わせているものの、真実らしさは私たちの生の体験からいつしか失われ、映像のなかに宿るようになってしまうというパラドクスが存在します。上野が指摘する時間感覚も同様です。真の時間は「私」のうちを流れ、「私」の経験のなかにしか存在しないと頭ではわかっているものの、いつの間にか時間のリアリティは映像に奪われている。そうして、人間は現実からも時間からも(両者は同じものでしょう)疎外されてしまうのです。

ここからわかるのは、人間にとって本来、時間とは非連続的なものだという動かし難い事実です。私たちにとり、時間は絶え間なく流れている川のようなものではない。思い出すときに「過去」が生じ、案じたり期待したりするときに「未来」が生じる。過去・現在・未来はそれぞれ私たちの意識のなかを錯綜し、反省や希望によって絶えずその姿を変容させながら、私たちを再構成している何かです。それはパブリックなものというより非常にプライベートなもので、他者と簡単に共有できないところに価値が(かけがえのなさが)あった。しかし、ライブ中継による「リアル・タイム」の概念が生まれると、時間は連続的な、川の流れのようにイメージされ、私たち個人の手を離れ、私たちとは無関係に、人間世界の「外側」を流れるものと勘違いされるようになる。「リアル・タイム」が私たちから時間を奪ったのです。

上野はこうも指摘します。「リアル・タイムですべてが可視化されるような情報ネットワークの内部では、あらゆることが見え、だから見えないというパラドックスが日常化する」(p.158)。連続的な時間の流れは、本来、非人間的です。切れ目のない川のように流れる「時間」は、私たちに立ち止まって反省を促す余裕を与えません。そうした時間の奔流が私たちに教えるのは、現実の非情さであり、私たちの非力さです。現実を包みこんでいる「時間」は、人間には到底抗えない怪物のように見えます。それは虚像なのでしょうが、映像の力は強力で、私たちは圧倒され、自らの寄るべなさを痛感させられるのです。どれほど幻想だと言い聞かせられても、自らの卑小さのイメージ(「私」の生きている感覚のなさ)はくつがえし難い現実に見えてしまうのです。それが、映像の時代に生きる私たちの不幸の根源でしょう。

トップ画像はUnsplashのDave Weatherallが撮影した写真

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