節目になると、手に取るもの
節目を迎えると、ふと読みたくなる本、というものがある。
人によっては映画かもしれないし、音楽かもしれない。あるいは訪れたい場所、ということもあるだろう。僕にとってのそれは、「深夜特急」(沢木耕太郎)だ。
初めて手に取ったのは大学生の頃で、ニューデリーからロンドンまでを乗り合いバスで旅するという狂気の全6巻にしっかりと魅了された。世界一周にも憧れたし、旅と旅行の違いを初めて認識したのもその時だった気がする。
けれども、熱狂した、というほどではなかった。「ああ、面白かった」という満足感に浸るだけで、何かを深く考え込んだり、衝動的に旅に出ようとしたりする、ということはなかった。
そのため、一度読んで以降は手に取ることもなく、ずっと家の本棚に鎮座し続けていた。
ところが、30歳を目前にして2度目の読む機会が訪れた。
2019年末、29歳の時に受診した健康診断で腎臓病が発覚。すぐに命に関わるわけではないものの、難病指定されている病気で、放置しておくと人工透析が必要になるとのことだった。
手術とステロイド治療を勧められ、1カ月ほど入院することになった。2020年4月、ちょうどコロナで最初の緊急事態宣言が発令された頃だった。
病気は時に、人生をリセットする。人生の有限性を意識させられ、これから自分が「どう在りたいか」をベッドの上で考え始めた。
そんな入院生活の時間つぶしの1つに選んだのが、深夜特急だった。
3度目の深夜特急
それから約3年後の2023年9月末。NewsPicksの編集長を退任することになった。
前年の7月に就任してから、わずか1年3カ月。一般的に経済メディアの編集長の在任期間は2~3年で、短期間での退任となった。
役割を果たそうと、気負いすぎたのかもしれない。あるいは、単純な実力不足もあるだろう。23年の夏に、身体を壊してしまった。
自律神経の乱れから動悸が止まらず、人混みや電車のアナウンス音が気持ち悪くなり、ついには移動ができなくなってしまった。
仲間たちに助けてもらいながら1カ月ほど休みを取り、徐々に症状は回復していった。
しかし、身体のことを考え、また自分自身のマネジメント力の至らなさを顧みて、コンテンツ制作の現場に戻らせてもらうことになった。
休んでいる間、少し体調が戻り始めた時に、本でも読もうかという気持ちになった。その時、ふと思い浮かんだのが深夜特急だった。
すでにストーリーを知っているから、最初から最後まで没頭して読んだわけではなく、パラパラとページをめくりながら気になった箇所で止まるだけ。
暇つぶしと言えばそれまでだが、読んでいると、純粋な「面白さ」だけではない心の揺らぎを感じる。少しソワソワするような、それでいて身体の深いところから疲労が抜けていくような感覚だ。
入院時、2度目に深夜特急を読んだ時にも同じ感覚になった。
1度目と2度目の間に、本の中に登場するいくつかの街を訪れたという親近感も多少はあるだろうけれど、どうもそれだけでは説明できない読後感が残った。
スピノザがおもしろい
休んでいる期間、深夜特急のほかに読み漁っていたのが、哲学関連の本だ。
といっても、哲学者たちが書いた原典はあまりに難解で眺めるだけで疲れてしまう。そもそも、体調が万全な時でさえも理解などできない。
ということで、NHK出版の「100de名著」でカジュアルに古今東西の哲学に触れることにした。
プラトン、アドラー、西田幾多郎…。時期も地域も問わず、アマゾンで適当に購入して読んでいる中で、とりわけ印象的だったのがスピノザの「エチカ」だ。
スピノザは17世紀に生きたオランダの哲学者で、44歳で他界するまでに2冊の本しか残していない。死後、さらに数冊が出版されるが、その中の1つが倫理学を意味するエチカだった。
詳しいエチカの解説は100de名著を読んでもらうとして、とりわけ唸らされたのは、そこに記されていた「善悪」についての記述だった。
ごく簡単に(雑に)説明すると、スピノザはこの世の中には「それ自体として善いものも悪いものもない」と考える(らしい)。
美味しいご飯も人を騙す行為も、それ自体は事物として善いとも悪いとも言えないのだ、と。
さすがに無理があるだろうと、反論が思い浮かんでくる。僕たちが生きる社会には明に暗に善悪が定義されているじゃないか、と。
スピノザの主張はひっくり返りそうになるほどの暴論に聞こえるが、その後の説明を読んでいくうちに納得させられることになった。
「善悪=マッチング」理論
善悪などない、と言われても、社会には明らかに定義されたものがある。この矛盾をどう考えるか。スピノザは「組み合わせとしての善悪」で説明する。
すべての事物には善も悪もなく、誰と、あるいは何と組み合わさるかによって善悪の概念が生まれるという。
Aさんにとっての善は、その時のAさんとうまく組み合わさって活動能力を増大させてくれるもの。逆に悪は、活動能力を阻害したり、減少させたりするものということだ。
スピノザ曰く、人間や物などにはそれぞれ「本来の自分(モノ、システム)であろうとする力=コナトゥス」が備わっていて、それとマッチするかによって善悪が決まるらしい。
例えば、エチカでは音楽で説明している。
落ち込んでいる人(憂鬱の人)と音楽が組み合わさると、力が湧いてくる。ところが、亡き人を悼んでいる人(悲痛の人)にとって音楽は、悲しみに浸るための邪魔となってしまう。
また、耳が不自由な人にとっては、音楽は意味をなさない。
つまり、音楽それ自体には善し悪しはなく、誰とどのような状況で組み合わさるかによって、効果効能が変わる、ということだ。
言い換えるなら、足の形と靴のようなイメージだろうか。
アディダスのスーパースターにもナイキのエアフォースワンにも、ABCマートの棚に並んでいる時点では善し悪しはない。
それを左右するのは、履く人の足の形(コナトゥス)に合うかどうかだ。足の形に合えば気分良く歩けたり速く走れたりするし、合わなければ指や踵が痛くなってしまう。
スーパースターはAさんにとっては善だが、Bさんにとっては悪ということもあるだろう。
そうやって考えると、商売繁盛する商品やサービスというものは、多くの人にとって善いもの、マッチするものと言えるかもしれない。
なるほど。あくまでほんの一部だが、スピノザの哲学は面白い。
巷ではスピノザが流行り始めていると耳にするが、何事も善悪を決めようとするポリコレ全盛期の反動として、多くの人が面白がるのも理解できる気がする。
人生をチューニングする
さて、話は冒頭の「節目に読みたくなる本」に戻る。
節目というのは、人生の中でも濁りが少ない、真っさらに近い状態だ。スピノザ的には、本来の自分、コナトゥスが無意識的に敏感になっているとも言える。
ということは、そうしたタイミングで読みたくなる本、反応するモノは、自分にとっての善と見なすこともできるのではないか。
もしかすると、ここに人生のヒントがあるのかもしれない。
などと思い、深夜特急をパラパラとめくりながら気がついたのは、自分がこのストーリーに惹かれるのは、「制約のなさ」からくるのだとわかってきた。
26歳の沢木耕太郎は、寄り道をしたり途中の街で長期滞在をしたりしながら、一切の制約を受けずに、自分の意思だけで歩みを進める(ように見える)。
人生は歩みを進めるにつれて制約が増えていく傾向にあるからこそ、いつまでも自分の決断だけで旅を続ける深夜特急に憧れるのだ。
そして僕は、節目に次の進路を決めようとするとき、なるべく自分の意思以外の制約を受けずに決断をしたいと願っているのだと思う。
であれば、大学生の頃には深い感動がなかったことにも説明がつく。
制約とはほとんど無縁の学生生活を過ごしていた頃には、あらゆる決断の優先順位のトップがピュアな自分で、何かから解放される必要がなかった。
けれども、社会に出て働くうちに他者の目に触れ、いつの間にか優先順位の上位が入れ替わり、勝手に制約を課してきた、という面は少なからずありそうだ。
周りからこう見られたい、これくらいの収入は確保したい、そのためには⚪︎⚪︎をするべきだ、というように。
だからこそ、節目になると深夜特急を手に取り、制約から離れて考えることを試み、「他者」の方角に向いた方位磁針の針を「自分」に戻すかのように、人生のチューニングをしているのかもしれない。
…などということを考えられるくらいには体調も回復し、毎日コンテンツと向き合っています。
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