ワイン界「世紀の番狂せ」王者フランスに50年前勝ったアメリカ“夢のボトル”は映画に

2023年8月21日
全体に公開

夏の高校野球、決勝が間近です。全国を目指す地方大会では、勝つことが宿命づけられたような常勝軍団が、格下とみられていた相手に負ける「番狂せ」があります。語りつがれ、新たな歴史の1ページを作ることも。

今回は、ワインの歴史に刻まれた「パリスの審判」を紹介しましょう。

フランスで開かれたテイスティング大会で、当然勝つと思われた地元の絶対王者・フランスが、新参のアメリカ・カリフォルニアワインにまさか負ける──。そんな“大事件”が、50年足らず前に起きました。

今やカリフォルニアワインは世界的な人気もあり、広く知られています。その転換点となったのが、この「パリスの審判」です。

ご紹介するのは1時間49分の人気映画。残暑の休息に、ワイン片手にぜひご覧になってください。手軽に「ワイン通」に一歩近づきますよ。

「フランスのワインにあらずば、ワインにあらず」

お勧めする映画は『ボトル・ドリーム カリフォルニアの奇跡』。2008年に公開されると、全米でスマッシュヒットを記録しました。

この映画1本で、美しいカリフォルニアのワイン産地「ナパ・ヴァレー」の風景やワイン造りの様子、さらにワインの歴史まで学べます。

Amazon Prime Video

舞台は1976年にパリで開かれたワインの試飲大会。ブラインドテイスティングといって、銘柄を伏せた状態でワイン通の審査員がワインを次々に試飲、1本ずつの点数をつけていきます。

「フランスのワインにあらずば、ワインにあらず」

そう思われていた時代です。歴史が浅く、欧州では見向きもされなかったカリフォルニアのワインが、この大会に持ち込まれました。

そして、有名な赤と白の各4本のフランスワインを押さえて、見事「優勝」しました。出品のワイナリー(醸造所)もまったく予想しておらず、「優勝してしまった」と言った方が正確でしょう。

スミソニアン博物館に展示されている優勝した2つのカリフォルニアワイン/The Napa Wine Project

なぜ、これが歴史的か。ここからフランスワインが専門の私なりにカンタン解説をしたいと思います。

事件な理由①:ワインの歴史が米仏で違う

旧世界(伝統国)と新世界(ニューワールド)という言葉をご存知でしょうか? 

ワインの業界では当たり前に出てくる言葉なので、これを機会にぜひ覚えてください。

フランスやイタリアなど古くからワイン造りが行われてきたヨーロッパのワイン産地を「旧世界」と呼びます。

一方、大航海時代以降、その移民たちによってワイン造りが伝えられ、生産を始めた国々を「新世界」と呼んでいます。

はじめに旧世界のフランスの歴史から。

フランスワインの歴史は古く、ワインが初めて伝わったのはローマ帝国時代と言われています。ローマ軍を率いるジュリアス・シーザーが、兵士の栄養補給のためにワインを造ろうと、遠征先にブドウを植えていった土地が、シャンパーニュやブルゴーニュ、ローヌなど。今では世界的なワイン産地となっています。世界一高額な「ロマネ・コンティ」の名がついたのも18世紀です。

次に新世界の筆頭アメリカに話題を移します。

カリフォルニアのワイン生産が盛んになったのは、ロマネ・コンティが名付けられてから遅れること100年あまり、19世紀後半です。ヨーロッパ移民がアメリカを訪れたことがきっかけです。

米国内のワイン生産の90%を占めるカリフォルニアを代表する銘醸地ナパ・ヴァレーですが、「パリスの審判」の少し前の1968年は、わずか16軒のワイナリーしかなかったそうです。

映画では、当時のナパでのワイン造りの牧歌的な情景が描かれています。パリスの審判とは、そんな歴史が浅くワインの世界では「幕下」扱いだったナパのワインが、横綱のフランスワインに挑んだ、と想像してください。

Dariusz Sankowski/Unsplash

事件な理由② :ワインの格が米仏で違う

パリスの審判に出品されたワインは、赤白の各10種類です。そのうち、フランスが各4アイテムで、カリフォルニアが各6アイテム。ラインナップを見ると、フランスワインは「王道中の王道」といえるボトルばかりです。

赤ワインは、1855年にナポレオン3世の時代に制定され、今でも厳格に守られているボルドー格付けの最上級品。白ワインも、今となっては入手困難なブルゴーニュの著名な生産者たちの造る特級クラスの畑のものばかり。

いずれも当時から高額で取引される銘柄ばかりでした。

シャトー・ムートンに貯蔵される最も古いボトルは1859年もの/Chateau Mouton Rothschild HP

一方、この映画の主役となるカリフォルニアの白ワイン「シャトー・モンテレーナ」は、元弁護士のオーナーが、ナパの荒廃した畑と醸造所を買取って、新たにワインをリリースしました。それが1972年と、つい最近です。

コンテストに出品された1973年ヴィンテージは、その翌年に収穫されたブドウで仕込まれたワインです。

シャトー・モンテレーナ/Chateau Montelena HP

誰がみても「戦う前から勝負がついている」状況ながら、このナパ発の新作が、番狂せで優勝を勝ち取ったのです。

白ワインの結果 (シャルドネ種)
1位:シャトー・モンテレーナ 1973 (米)
2位:ムルソー・シャルム/ルーロ 1973 (仏)
3位:シャローン・ヴィンヤード 1974 (米)
4位:スプリング・マウンテン 1973 (米)
5位:ボーヌ・クロ・デ・ムーシュ/ドルーアン 1973 (仏)
6位:フリーマーク・アビー 1972 (米)
7位:バタール・モンラッシェ/ラモネ 1973 (仏)
8位:ピュリニー・モンラッシェ・ピュセル /ルフレーヴ 1972 (仏)
9位:ヴィーダー・クレスト 1972 (米)
10位:デイヴィッド・ブルース 1973 (米)
赤ワインの結果 (カベルネ・ソーヴィニョン種主体)
1位:スタッグス・リープ・ワイン・セラーズ 1973 (米)
2位:シャトー・ムートン・ロートシルト 1970 (仏)
3位:シャトー・オーブリオン 1970 (仏)
4位:シャトー・モンローズ 1970 (仏)
5位:リッジ・モンテ・ベロ 1971 (米)
6位:シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ 1971 (仏)
7位:マヤカマス 1971 (米)
8位:クロ・デュ・ヴァル 1972 (米)
9位:ハイツ・マザーズ・ヴィンヤード 1970 (米)
10位:フリーマーク・アビー 1969 (米)
パリスの審判で優勝したシャトー・モンテレーナ/ Hidefumi Nogami

事件な理由③:審査員は仏ワイン界の重鎮ばかり

ブラインドテイスティグの審査員は、いずれも当時のフランスワイン業界を代表する人物でした。

主催者のスティーブン・スパリエ氏は、パリのワインショップのオーナーで、のちにワイン学校「アカデミー・デュ・ヴァン」を創設しました。著名な学校で、私もこの東京校に通いました。スパリエ氏は自身のコネクションを最大限に活用し、当時のワイン会の重鎮を招聘しました。

審査員らは、今の時代にも集めるのが至難の業です。だれも彼らの評価には、横から文句を付けることができない。そんな格式高い「審判」であったというわけです。

審査員一覧
・オベール・ド・ヴィレーヌ:「DRC」(ロマネ・コンティの生産者)共同経営者
・ピエール・タリ:「シャトー・ジスクール」(ボルドー格付3級)オーナー
・ジャン・クロード・ヴリナ:「タイユヴァン」(三ツ星レストラン)オーナー
・クリスチャン・ヴァネケ:「トゥール・ダルジャン」(三ツ星レストラン)シェフ・ソムリエ
・レイモン・オリヴィエ:「ル・グラン・ヴェフール」(三ツ星レストラン)オーナー・シェフ
・ピエール・ブレジュー:AOC(​​原産地呼称)委員会の首席審査官
・オデット・カーン:「ラ・ルヴュー・デュ・ヴァン・フランス」(ワイン専門誌)編集者
・クロード・デュボワ・ミヨ:「ゴー・ミヨ」(グルメ評価誌)販売部長
・ミシェル・ドヴァーツ:「アカデミー・デュ・ヴァン」講師

審査の様子/Grgich Hills Estate HP

事件な理由④:皮肉にも世界に広まった真実

この試飲大会が、なぜ世界中に知れ渡って、歴史に残る「審判」となったのか。

それは番狂せの「結果」だけでなはい、一つの偶然がありました。

大会の様子を取材したのは、アカデミー・デュ・ヴァンで授業を受けたことがあり、主催者とたまたま縁のあったTIME(タイム)誌の記者でした。「もし他に事件でも起これば、そちらに出向く」ぐらい、興味のない取材だったようです。

ただ、大番狂せに居合わせた彼は、記事をすぐさま特ダネとして書き上げます。すぐにタイム誌やニューヨーク・タイムズ紙で「パリスの審判」というタイトルで配信されました。

ちなみに、この結果がフランスのル・フィガロ紙に掲載されたのは、大会から3カ月後のことです。フランスにとっては「取るに足らない」という否定的な扱いでした。

カリフォルニアワインにとっては「戦う前から不利」。とても対等とは言えない勝負でした。しかし皮肉にも、誰も口を挟めないフランワイン界の一流人物らによる厳正な審査の結果がでました。そして、SNSがない時代にあっても、その事実は信頼できるメディアを介して世界に拡散されたというわけです。

Jingda Chen/Unsplash

ワインのアメリカンドリーム。舞台裏に1人の移民

映画のモチーフになったカリフォルニアのワイナリー(ワイン醸造所)は、「Chateau Montelena(シャトー・モンテレーナ)」。映画では、オーナー親子のストーリーですが、実際に出品されたワイン造りに貢献したのは、ワイン醸造家のマイク・ガーギッチ氏です。

ガーギッチ氏は、クロアチア生まれの移民です。

1958年、35歳で裸一貫、無一文でナパにたどり着いたそうです。そんな彼が、カリフォルニアワイン興隆のきっかけの立役者になったのです。

映画では、それらしい人物が登場していますが、主役ほどのスポットライトは当たっていません。ただ、彼の存在無くして「パリスの審判」はなかったでしょう。

大会後に一躍有名人になったガーギッチ氏ですが、その半年後、モンテレーナを去って自らのワイナリーを立ち上げました。

その彼も今年で100歳。先日、親族やカリフォルニアワインの礎を築いた仲間たちに囲まれ、盛大にお誕生日のお祝いがされたようです。

マイク・ガーギッチ氏/Grgich Hills Estate HP

ワイン業界の「世紀の番狂せ」が今につながり、移民だった彼が100歳を迎えてワインを優雅に嗜んでいるとは、なんとも感慨深いです。

まだまだご紹介したい「ワイン映画」はありますが、また改めて。今回の映画に合わせて「今日はナパワインでも、飲んでみようかな」と思っていただければ嬉しいです。

文:古川康子(シニアソムリエ)

編集、バナー写真:野上英文(MIT Sloan Wine Club)

応援ありがとうございます!
いいねして著者を応援してみませんか



このトピックスについて
樋口 真章さん、他331人がフォローしています