顔と表情はどう違うか

2024年5月20日
全体に公開

何かが「在る」ということが、ひどく実感しにくくなっていると私は感じているのですが、気のせいでしょうか。そもそもこのトピックスは、スクリーン越しに「見る」経験が多くなっている現代、リアルとシミュラークラの区別がつけにくくなり、リアリティの喪失が起こっている事実を論じることを目的としています。つまり、社会の変化、特にテクノロジーの変化によって、人々の感覚に変容が起きているのだと想定しているのですが、身の回りにいる人に尋ねても、私のような実感が全くないらしい人も少なからずいます。つまり、そう感じているのは私だけで、ひょっとしたら私の「気のせい」かもしれないと暗に指摘する人もいます。もちろん、私の「気のせい」ばかりではないと、私は信じています。人は適応力が高いので、すぐに新しいものを受け入れ、それに順応してしまう。最初の驚きや違和感も、すぐに忘れてしまう。それはそれで、人間のすごい力だとも思うのですが。

映像の不気味さ

たとえば、最初に写真というものを見たときの人の反応を、私たちは具体的に想像することができません。固定された映像というものを、人々はどう感じ、どう受け止めたか、現代人には追想することも困難です。アーティストの新井卓は『百の太陽 / 百の鏡』(岩波書店、2023年)で、こう書いています。

十九世紀初葉、写真術の登場によって人々は、生身の視覚から切りはなされた映像をはじめて目の当たりにした。そのとき映像は興味をかきたてられると同時にひどくよそよそしく、恐ろしげで、死を連想せずにはいられないものだった。見ることが連続的な運動——ものそれ自体の動き、そしてわたしたち自身の身体と眼球の震え——と無関係に観測されることは、そのときまで決してなかったからだ。
新井卓『百の太陽 / 百の鏡』(岩波書店、2023年)p.70より

今では写真の映像などまったく日常的なもので、新鮮味もなければ驚きも感じませんが、最初に写真を見た人は驚愕し、恐れ慄いたわけです。しかしこれは19世紀初頭だけの話ではない。現代人だろうと、生まれた瞬間から写真の映像に慣れているはずはないので、初めて写真を見ておそれおののいた経験が幼いころに一度はあるはずです。そのときの驚きや怯えの感覚は(フロイト風に言えば)すぐに抑圧されてしまうが、少なくとも一度は映像が持つ不気味さを人は経験しているはずです。現代人といえども。

上記の新井卓の指摘も、何となく読み飛ばしてしまうと、その意味を正確に掴み損なうほど繊細な内容です。写真を初めて見た人間は、そこに写っている世界の姿を不気味に感じたわけです。なぜかというと、その世界はもはや「私」とは無関係だから。「私」のリアルな経験とは別のところに世界があるはずがないのに、それがあるように見えたからです。誇張して言うなら、世界が二つになってしまったからです。同じものが二つあるということは、どっちも存在しないのと一緒です。写真という映像は、所与のものであったリアリティを殺し、文字通り世界そのものを殺してしまったと言えます。写真という映像は不気味なものです。その不気味さを、私たちは皆幼いとき、写真を初めて見たときに確かに経験したのですが、それを忘却してしまったのです。

「顔」と「在る」の不気味さ

新井卓はこうも書いています。

現代のわたしたちはカメラを向けられれば笑顔を作る、という奇妙な習慣を身につけている。ところが、笑いや涙を浮かべたポートレイトを見るとき、わたしたちは写された人の顔を見ていない。そのときわたしたちが見ているのは表情であり、表情が示唆する(と思い込まされている)写真の文脈に過ぎない。
新井卓『百の太陽 / 百の鏡』(岩波書店、2023年)p.24より

これも、意外と現代人にはわかりにくい文章ではないかと怪しみます。顔と表情が違うものだということは、自明でしょうか? 顔と表情は違う。表情は記号であり、意味であり、メッセージです。それはすべての人間が身につけている、普遍的な言語です。しかし顔は違う。顔は、共有される何かではありません。顔は、その人にしか属さない、しかも語り得ない(言語化できない)何かです。つまり顔は本来、不気味なものです。私たちはひょっとしたら、人の表情しか見ていないのではないでしょうか。その人に顔があることを忘却していないでしょうか。

ここまで書いて思い出すのは、劇作家の太田省吾のエッセイ『動詞の陰翳』に出てくる次のような文章です。太田は詩人の石原吉郎の詩句を論じながら、人が「在る」ことの揺らぎに言及し、こんな風に言うのです。

<在る>とは、日常の外面的表面動作、行為という集めようもないような断片を寄せ集めて、そこに<私>が<在る>としか言えないような頼りなさ、仮構感をまぬがれることができない。<在る>がたしかめられないから、われわれは小さな動詞、買うとか食うとかという動詞で紛らしているという情勢にある。
太田省吾『動詞の陰翳』(白水社、1983年)p.13より

これは、新井卓が顔と表情の区別で述べていることと同じです。「表情」の陰に隠れて見えにくくなっているのが「顔」だとすれば、具体的な動作を表す動詞の陰に隠れて見えにくくなっているのは「在る」という動詞の意味です。私たちには他人の「顔」が見えず、他人の「在る」ことがわからない。「顔」や「在る」に対して不気味さを感じていないとすれば、それが何よりの証拠です。それはつまり、「顔」や「在る」ことに対する不気味さを抑圧し、「顔」や「在る」を忘却しているわけです。この忘却こそが、私たちからリアリティの感覚を奪っている原因の一つであることは間違いありません。

新井卓はダゲレオタイプ(写真黎明期に用いられた感度の低い銀板写真技術)で写真を撮る、特異な写真家です。撮影のためには、毎回銀版を数時間も磨かねばならず、露光時間も恐ろしく長くかかる。なぜ現代においてわざわざダゲレオタイプで撮影するのか。私の勝手な想像ですが、それは新井卓が「顔」や「在る」の不気味さを痛感しているからではないでしょうか。その不気味さを知っているからこそ、その聖性を映像に招き入れるための儀式として、ダゲレオタイプが必要なのではないでしょうか。映像が生まれたときの技術を再び用いることで、歴史を遡行し、リアリティの根源を追認する作業。私たちは写真をスマホで撮ることに慣れていますが、もし全員がダゲレオタイプでの写真撮影を経験したとしたら、映像というものに対する意識が変わり、少しは世界がよくなると思うのですが、どうでしょうか。それともこれも私の気のせいでしょうか。

トップ画像はUnsplashのMick Hauptが撮影した写真

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