クリスチャン・ラッセンの表層世界

2024年5月13日
全体に公開

クリスチャン・ラッセンという名前を知っている人は、私と同世代(80年代生まれ)かそれより上の世代と想像しますが、どうなのでしょうか。私とラッセンの出会いは、イルカやクジラを描いた彼の絵のパズルに取り組んだ小学生の頃、つまり昭和が終わり、平成に入ってすぐの頃です。あの頃はパズルが大ブームで、いろいろな絵柄のものが出回っていましたが、ラッセン画のパズルも数多くあって、小学生の私にはラッセンのマリンアートが「オシャレ」に思えたんだと思います。そして、結構大きなサイズのパズルを組んで、それをしばらく自分の部屋の壁に飾っていました。

ラッセンとのつながりはそのときだけで、もう少し年齢がいくと私にとってのオシャレなものも変化して、以来ラッセンに関心を抱くことは全くなくなるのですが、折に触れてその絵柄は、街中に貼られているポスターだったり、CDのジャケットなどで目にする機会はあって、ああ、あの絵だと昔パズルを部屋に飾っていたことを懐かしく思い出したりもしました。もっとも、ここ20年くらいは全く目にする機会もなくなり、思い出すこともほとんどなかったのですが。

最近、美術作家の原田裕規氏による『評伝クリスチャン・ラッセン 日本に愛された画家』(中央公論新社、2023年)を書店で見かけて購入したのですが、この本を読むまでラッセンがどういう人物なのか私はまるで知りませんでした。日本だけで有名になった画家であるとか、90年代の日本でなぜブームになったのかなど、その文化史的な側面を実に興味深く読み、私のこのトピックスのテーマとも深い関連があることに気づいたので、どういう点が深く関係しているのか、以下にまとめてみたいと思います。

イメージだけの世界

まず、絵の制作に写真を用いているという点。その愛好されるモチーフであるイルカやクジラを描くにあたって、ラッセンは実物を見る(あるいは実物を自分で写真に撮って、それを素材にする)のではなく、他人が撮った写真資料を用いる、という点が非常に印象的でした。もちろん、写真を用いているからオリジナリティがなくてだめだとは思いません。フランシス・ベーコンやゲルハルト・リヒターのような巨匠だって、制作に写真を用いている。そもそも1960年代以降のスーパーリアリズムのような潮流だってある。しかしラッセンの場合には、人間の視覚とは異なるカメラアイの冷徹さや、リアリズムの問題、あるいはイメージの政治性に興味があって写真を使っているとは思えない。それは単に、イメージを正確に切り取るためのもっとも効率の良い手段だから、という気がするわけです。

もちろん、それが悪いわけではない。ただ、いろいろな意味でラッセンの絵の奥行きのなさは、そうした制作のプロセスをかんがみると、なるほどと頷けるものです。描かれた生き物も背後の風景も、個別にはリアルに描かれているのに、全体として見るとフィクションにしか思えないようなイメージになる。言い方が正しいか分かりませんが、フォトショップで複数のイメージを合成加工するような作業を、90年代にすでにしていたのがラッセンなのかなと、そんな風に思いました。だから、どれほど細部が写実的に見えても、制作者にとってそのイメージは、実物(物理的存在としての実物)があっての複製というよりは、そもそも最初から観念的なシミュラークルでしかないような気がします。評伝を読んで初めてラッセンがハワイ育ちのサーファーだと知りましたが、それでも彼が存在論的な意味で、海とか海洋生物に興味を持っていたのか疑念が湧くのを禁じ得ません。

暗さも自意識も捨象して

二つ目は、「『死』の気配だけが徹底的に排除されている」(p.215)という点。原田氏はマリンアートと水族館のアナロジカルな関係に注目し、現実そのものを見せているように装いつつも、そこでは真の現実性たる「死」は影もない点を強調しています。確かにそうです。ラッセンの絵には「暗さ」がない。この世界に「死」など存在しないような予定調和の雰囲気が漂っている。だからこそインテリアとしては適当なのかもしれませんが(小学生の私が部屋に彼の絵のパズルを飾っていたのもその「明るさ」ゆえだったのでしょう)、あまりにリアリティを感じさせないその世界観は、今の私には空々しいものに見えてしまいます。

三つ目は、「主観のなさ」(p.224)あるいは「内面の蒸発」(p.333)です。以前、中平卓馬の写真について触れたことがあります。中平は主観を排し、剥き出しの現実を見つめるために「主観のなさ」を方法論として採用するわけですが、ラッセンの「主観のなさ」は全く対照的です。イメージの先にある現実に向かおうとするわけではなく、イメージだけからなるフラットな世界が彼の住む宇宙で、だからこそそこには表現すべき制作者の内なる自意識など存在しない。もっとも、ラッセンらしさがないわけではありません。ラッセンの絵は、誰が見てもすぐにそれとわかる特徴を備えている。しかしそこには(上にも書いたように)奥行きがなく、これまた言い方が正しいかわかりませんが、AIが描いたような空虚さを感じさせる。

原田氏はラッセンを「ポストモダニスト」として位置づけています。確かにポストモダンの文脈で語る場合、ラッセンは実に興味深い存在です。ポストモダンという言葉にはすでに随分と手垢がついてしまいましたが、この用語はあまりに早く用いられすぎたような気もします。ポストモダンの実態は、私たちのリアリティが生成AIの脅威によって激しく揺さぶられている現代においてこそ、いよいよ露わになっている。ラッセンの空虚な絵画はむしろ、来るべきこれからの世界において不思議な「リアリティ」を発揮するのかもしれません。彼の絵画に「共感」(?)する人は、ひょっとしたらこれからの時代にこそ大勢生まれてくるのかもしれません。

トップ画像はUnsplashのTJ Fitzsimmonsが撮影した写真

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