「現実」の手触りの喪失:世界はこうだという思いこみを捨てよ

2024年3月23日
全体に公開

写真家の中平卓馬は『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(ちくま学芸文庫)所収のもっともよく知られたエッセイ「なぜ、植物図鑑か」において「世界、事物の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除してゆかねばならない」(p.20)と書きました。中平の批評における主張は一貫しており、同じことのくり返しです。つまり、私たちはイメージや意味を世界に押しつけ、その世界に安住しているが、それでは世界の真の姿は見えず、イメージや意味の彼方で、世界と対峙しなければならない。彼はそう論じるばかりでなく、写真家としてもそうした写真の制作に取り組みました。中平は「情緒とは見ることを裏切り、おのれの内面をミスティファイするところから生まれる」(p.20)という厳しい自己批判から出発するのです。

しかし芸術史を見れば、つい最近まで(いや、現在においてもかなり)アーティストは自らのユニークな世界像を表現することが主たる任務でした。情緒的であることを批判されたら憮然とするアーティストも少なくないはずです。しかし自分の色眼鏡で世界を見ることを、中平は「世界の私物化」として厳しく批判します。私には、中平が批判したかったもの、情緒的に解釈された世界像を拒否したい気持ちもよくわかります。人間が共同幻想的に築き上げてきた世界像(たとえば、科学が唱えるような世界や宇宙の姿、民主主義や資本主義のイデオロギーが作り上げている世界像などなど)は決して真実ではなく、たとえ真実であるにせよ、真実の一面でしかない。しかし、世界を人間の色眼鏡でぜんぜん解釈しないで済ますことは、きわめて難しい。

意味をなぞるのではなく、その向こうを「見る」

ロラン・バルトの『明るい部屋』も、角度こそ違いますが、似たような観点から映像というものの性質を論じています。バルトは写真を「ストゥディウム」と「プンクトゥム」という二つの側面を備えたイメージとしてとり出すのです。「ストゥディウム」とは、安定した解釈コードのことです。写真を見て、ああこれは何を写したものだ、こういう意図で撮影されたものだ、この感情はよくわかる、というような感想を惹起するイメージは、すべて「ストゥディウム」に属します。ほとんどの写真はこの「ストゥディウム」(共有された世界観、価値観に訴えるイメージ)の要素が作り上げています。一方、理解不可能な要素、それでいて自分を惹きつけてやまないイメージが、「プンクトゥム」と呼ばれます。それは、予定調和の感想などとは無縁で、見る者の心をざわつかせ、落ち着かない気分にします。なぜなら、そのイメージがどうして自分を揺り動かすのか、自分で理解できないからです。そうしたイメージはまれですが、バルトは映像に現れるこの「プンクトゥム」に、特別な価値と可能性を見出していました。

UnsplashのKlaudia Piaskowskaが撮影した写真

中平もバルトも、人間が共有している安定した解釈コード(言語とその意味)の枠内に収まらない、突き刺すような現実の閃光に、真の世界のひらめきを見たのです。前回のトピックスで私は、人間やモノの不気味な「存在感」について述べましたが、それも中平が言うような解釈される以前の世界像、あるいはバルトの「プンクトゥム」と同じものの領域に属しています。それを聖なるものの領域と呼んでもいいかもしれません。人間のコードの外側にあるものこそ宗教の源泉だからです。私は、この聖なる領域の存在を信じていますし、信じなければ世界のリアリティというものもあり得ないと思うのですが、同時にその近づき難さも年を重ねるに従っていよいよ痛感しています。それは単純に、生きれば生きるほど、固定観念が私たちをとりまき、世界とはこういうものだという思いこみ、ドグサが強化されるからでしょう。

対極的な人間世界と動物世界

動物を例にとってみましょう。動物は言語を持ちません。ゆえに自我意識も皆無か、きわめて弱いと推定できます。彼らは主体と客体という、分裂した二元論的世界に生きてはいません。彼らにとって自分はすなわち世界であり、世界はすなわち自分です。自分と世界は一体であり、一元論的世界が彼らの住処です。だからこそ彼らに宗教は必要ないわけです。人間とは違い、聖なる領域から締め出された存在ではないからです。では、私たち人間は、安定したコードの世界を捨て、そうした動物の世界観(コスモロジー)を取り戻すべきなのでしょうか?

もちろん、すっかり動物の世界観に戻れるはずもないのですが、我々がもともとはそうした聖なる領域からやってきた事実、聖なる領域を捨てたことにはデメリットもあるという、動かし難い事実も認識するべきだとは思います。現代の私たちの世界に対する意識、生に対する意識は、もちろん作り物です。それは人間の伝統が作り上げてきたイメージであり、決して真実といえるような性質のものではありません。そこに安住するのは危険です。ひたすら受け身に生きること、自分の生を他人に委ねてもよいのであれば、危険でもなんでもないのかもしれない。しかし貪欲に、もっと深いリアリティを求めるのであれば、既成のイメージにおのれのコスモロジーを重ね合わせるのは欺瞞でしょう。

「現実」と「リアル」の崩壊

中平やバルトの写真論が書かれたのは70年代です。すでに半世紀の時が経っており、当時からずいぶん世界も変化しています。おそらくもっとも大きな変化は、当時よりも多くの人々によって共有されるメディアが減り、多様化の一途を辿っている点でしょう。かつては新聞や雑誌、テレビが主要なメディアであり、そうした情報空間は多くの人々によって共有されていましたが、今はネット空間に広く分散され、「島宇宙化」がますます進展しています。そもそも面と向かったコミュニケーションの機会が激減しており、他者(肉体を備えた存在としての他者)のリアリティは希薄となりつつあります。もうひとつは、現実と虚構の境が融解しつつあるということ。バルトが写真の特質を「それはかつてあった」と表現したのは有名ですが、彼にとって写真とはリアリティの保証だった。中平も写真の特質とは「記録」であるとくり返し主張しており、リアルという概念が写真という映像の根幹に位置づけられていた。

映像がリアリティの保証であり、リアルな表現であるという主張は、現代ではすでに牧歌的に響きます。21世紀に入ってから、映像はその可塑性を高め、ネットで映像を見ても、それが現実なのか虚構なのか容易には判別できません。素朴な「リアリティ」や「現実」という概念はすでに崩壊しています。何が「リアル」なのか、何をもって「現実」と呼ぶのか、問いはより根源的な部分へ遡行しています。カントは18世紀の哲学者ですが、その『判断力批判』において、「存在感」は自然という外部世界のなかにのみ見出されると述べていますが、論が進むにつれて、「存在感」の根拠は私たちの認識能力のうちにある、と意見を変えています。これは乱暴に言い換えれば、「リアリティ」は物質としての世界の側にではなく、私たちの心のうちにあると言ってるわけです。カントの立場は、スクリーン越しの現実にリアリティを感じている現代人の私たちの立場と、それほど隔たっているわけではありません。すでに18世紀のヨーロッパでは自我が肥大化しており、リアリティの比重は外部世界にではなく、それを認識する「私」という意識の側に傾いていたわけです。このまま物質世界はますますリアリティを失い、私たちの「心」の世界だけがリアリティの根拠となるのでしょうか。スクリーン越しの世界は空間なき世界(非物質的世界)ですが、そこに閉じ込められてしまえば私たちは完全に肉体性を失うでしょう。「存在」とその「存在感」の支配する物質と肉体の世界は、完全にその扉を閉めてしまうことになるでしょう。

トップ画像はUnsplashのBoris Smokrovicが撮影した写真

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