人間の「二重感覚」と「ある」のリアリティ

2024年3月15日
全体に公開

「ある」「いる」という存在感を表すうまい表現がなかなか見つかりません。これは日本語に限らず、ほかの言語でもそうなのではないでしょうか。私たちとって、そこに何かが「ある」「いる」というのは、しごく当たり前の事実なので、殊更にそれを表現する特別な言葉がないのは当然かもしれません。そもそも写真や動画のような複製技術の登場により、現実からカッコ付きの「現実」が枝分かれしたのは歴史の上ではまだまだ最近のことです。だから、この異なる二つの現実のリアリティを、うまく区別する表現がないことに不思議はありません。ただ、それでもやはり、この二つは異なっています。そして前回の記事では、最大の違いとして「存在感」を挙げたのでした。

哲学者の船木亨は『見ることの哲学 鏡像と奥行』(世界思想社、2001年)で、次のように指摘しています。「ひとは、何かを見ているとき、通常『それが見える』とはいわず、『それがある(存在する)』という。だが、鏡で見るときには、『それがある(存在する)』とはいわず、『それが見える』という」(p.190)。この事実は、無意識のうちに、私たちは映像と現実を区別していることを示唆しています。映像を見ている(媒介ごしに見ている)と感じているときには「見える」と言い、現実そのものを媒介なしに見ていると感じているときは「ある」と言う。やはり、現実と「現実」のあいだには質的な違いがある(と感じている)のです。

二重感覚あるいは逆転性という人間の能力

船木は同書のなかで、メルロ=ポンティを引用しつつ、人間の二重感覚についても述べています。この部分も非常に興味深いので引用します。

二重感覚においては、受動と能動の関係が消えてしまうわけではなく、右手が<触れる>ことを通じて左手が<触れられる>ものとして意識され、またその逆のことが起こる。そして、その向きを——右手を左手が、また左手を右手がというように——任意に「逆転」させることまでできる。(中略)他者の身体に触れるときには、わたしが触れるかぎりにおいて、逆転してわたしが触れられることが可能である。
船木亨『見ることの哲学 鏡像と奥行』(世界思想社、2001年)p.174より

メルロ=ポンティは、人間は行為者にも被行為者にもなり、その両方の感覚を本源的に備えていると言います。当たり前のことに思われるかもしれませんが、こういうことです。「私」は触れる自分を意識することができるが、触れられる「私」をも意識することができる。触る「私」も、触られる「私」も、感覚として実感できる。メルロ=ポンティは人間のこの性質を「逆転性」と呼んでいますが、先に私が「存在感」と呼んだものは、人間のこの「逆転性」の能力と深く関係していると思います。

この「逆転性」があるからこそ、人は他者(自分と同じような感覚、感覚を備えた存在としての他者)を理解し、共感できるわけです。共感とは、他人をもう一人の自分として想像し、自分と置き換える行為にほかなりません。それは他人を、肉体を備え、感情を備え、記憶を備えたもう一人の自分として理解することです。「逆転性」の能力は、人間に先天的に備わったものではなく、自らの肉体と世界への働きかけのプロセスを通じて獲得されます。したがって、重要なのは、私たちの肉体とその経験、ということになります。肉体の経験を抜きにして、他者への深い共感は期待できません。

もう一度くり返しますが、人間には「二重感覚」とも言われ、「逆転性」とも言われる能力があり、人は自分を主体であると同時に客体としても意識することができます。私自身を内側からも、外側からも認識することができるのです。普段生活しているとき、私たちは自分の肉体を意識しません。平常ならば肉体は快も不快も感じていません。肉体は透明であり、無いかのごとくです。近代の視覚テクノロジーが、ことさら私たちの生活と経験から肉体性を奪う方向へ進んでいる事実は、すでにこれまでの記事でもくり返して述べたとおりです。肉体という物質が備えた「存在感」が見失われがちなのは、これもまた当然かもしれません。

UnsplashのKrysten Merrimanが撮影した写真

「ある」は不気味である

しかし「二重感覚」は、私たちが行為者であると同時に被行為者でもあることも強調します。触られるというのは、本質的に不自由で、不気味な経験です。思い出してください。部屋に一人でいて、鏡の前に立ち、自分の顔を静かに眺めていると、次第にどんな気分になるか。自分だとわかっているのに、一瞬自分ではない誰かと向き合っているような気がして、動悸が早まり居心地悪くなる瞬間を。誰かとじっと近距離で見つめ合ったとき、相手の「存在感」がふいに感じられて、薄気味悪さを抑えきれない瞬間のことを。夜の公園の巨木がまとう影の重さや、コンクリートの壁がもつ鉱物性の圧力を。

世界は本来、不気味なものです。私たちが他人や周囲の世界に普段あまり不気味さを感じないのは、それらに意味づけをして、その解釈に安住しているからにほかなりません。私たちの認知は言語と深く結びついていて、言語こそが本来は不気味で不可解な世界を明るいヴェールで包んでいるのです。しかし、瞬間的に、そのヴェールが破れ、不気味で不可解な本来の物質性(「存在感」)が顔をのぞかせることがあります。そうした経験は、媒介ごしに見た世界、つまりスクリーンを介した映像としての世界では、なかなか味わえません。それはまずもって、映像はすでに誰かの解釈を経ているからであり、また、映像ごしの誰かはその肉体によって私たちに働きかける(触れる)ことができないからです。しかし、多くの人にはそれがいいのだと思います。触り、触られる現実とは、不気味だからです。近代の歴史は、不気味でしかない「存在感」を忘却する方向へと、無意識に歩みつづけているように思われます。

トップ画像はUnsplashのShoeib Abolhassaniが撮影した写真

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