トピックス開始のご挨拶

2024年2月27日
全体に公開

はじめまして。今月からこのトピックスで記事を執筆する小林美香と申します。トピックスのタイトル、「ジェンダー目線の広告観察 その「らしさ」はどこから来たの?」の前半部分は、2023年9月に刊行した『ジェンダー目線の広告観察』(現代書館)からそのまま取ってきたもので(記事を通して本の宣伝ができればという極めて安直な動機もあってつけたのですが)、「その「らしさ」はどこから来たの?」というタイトルの由来と、とくにこのトピックスを通してお伝えしたいことをトピックス開始にあたってのご挨拶も兼ねて記しておきたいと思います。

『ジェンダー目線の広告観察』では主に、東京五輪2020開催前の2010年代末からコロナ禍にかけての広告を観察し、その表現とジェンダーをめぐる価値観、社会的な背景について扱っているのですが、幸いなことに新聞や雑誌、ウェブ媒体などで書評を書いていただいたり、取材して頂く機会に恵まれました。中でも、第4章の「「デキる男」像の呪縛を解くために」で取り上げた、社会の中で推奨される「仕事において有能で、異性愛規範を前提として女性にモテる男性」のイメージについての論考に対する反響が大きく、ジェンダーをめぐる規範的な価値観の中でも、「男らしさ」というざっくりとした言葉で推奨されている男性のあり方や、その中に含まれる意味に対して違和感やわだかまりを抱いている人が多いことを実感しました。拙著を読んでくださった方からの反応や対話を通して、「男らしさ」を含め、「その「らしさ」はどこから来たの?」という「そもそも、それって何なの?」という問いかけが必要なのでは、と思いを新たにすることになりました。

男性ではない者から見た「男らしさ」

「そもそも、それって何?」という問いを投げかける時、その問いを投げかける側である私の「そもそも」である前提のお話をしておきますと、私は自分自身を男性ではなく、生物学的・社会的な存在として女性として生きてきた/生きていることをあるは程度引き受けていますが、人を男性と女性の二種類に振り分ける考え方が、自分には「そもそも」フィットしない認知の仕方を幼少時から持っています。充分に大人になってから、その考え方に「性別二元論」という名前があることや、二元的なジェンダーに当てはまらない性自認として「ノンバイナリージェンダー」というあり方があることを知りました(日本では、歌手・アーティストの宇多田ヒカルさんが自身を「ノンバイナリージェンダー」として公表したことが話題になりました)。

ですから、私にとって、ジェンダーをめぐる価値観の中でも、とくに「男らしさ」の表現について考えるということは、男性ではない者から見たという前提で、自分のあり方とは異なる存在としてあるてい程度距離を持って眺めているということがあります。また、その見方はあくまで「私見」であり、「女性から捉えた男性」という対立項のなかに、自分の見方を位置づけるつもりはありませんし、だからこそ「観察する」対象や私の態度を表明して記述する必要があると感じています。

「男性らしさ」の表現が社会の中で問題として扱われることはあるだろうか?

「ジェンダー目線の広告観察」を執筆する契機の一つが、2022年に大阪駅に掲出されたゲーム広告の女性キャラクターの性的な描写をめぐる議論でした。広告のジェンダー表現が話題になるとき、アニメやゲームのキャラクターや、所謂「萌え絵」として描かれる女性の描写が女性の性的対象化や性差別的な価値観という観点から議論されることが多く、ジェンダー表現を議論することが、「炎上案件」として注目を集める性的客体としての女性像を巡ることに終始する傾向があり、「ジェンダー表現の問題は、女性の描写に関わること」として、男性(このように大きく括ってしまうことも問題なのですが)の意識の中では「所詮は他人事」と見做されているのではという印象を受けます。しかし、ジェンダー表現の問題はジェンダーを問わずあらゆる人に関わってくるものであり、私の目には、広告のような形で公共空間で「デキる男」として差し出され、受け入れられている「真っ当な就労者・社会的な成功を収めている男性像」の表現の幅が極めて狭く限定的に映り、「その幅の狭さが問題視されないのが問題なのでは?」と感じられるのです。

このような観点から広告の中の男性像を意識して見るようになった経緯には、コロナ禍の経験が影響しています。世の中全体でステイホーム、リモートワークが推奨されていた時期に、私自身も原稿の執筆や大学などでのオンライン講義の仕事で自宅で過ごす時間が長くなり、直接人に対面する機会が激減し、画面越しに人の顔を見たり、動画配信を視聴したりする時間が長くなりました。以前も現在も、俳優やアイドル、アスリートなどメディアで注目を集めている人に深く関心を持ったり、熱烈なファンとして応援することはあまりなく、テレビも持っていないので芸能人と呼ばれる人たちのことにも疎いのですが、それでも車内広告など公共空間で目にする広告に登場する顔に視線が引き寄せられるようになりました。おそらく、生身の人の顔が見られないぶん、人の顔を見たいという気持ちが広告への関心につながっていったのでしょう。

そんなある日、近所のスーパーに買い物に出かける道すがら、駐車場の端に設置された自動販売機の側面全体に貼られた写真の人物に見入ってしまいました。それは、缶コーヒー、「ジョージアグラン微糖」の広告で、山田孝之さんが演じるネクタイを締めたスーツ姿のビジネスマンが、缶コーヒーを片手に視線を上に向けて写っていました。背景には高層ビルの景色の一部が映り込み、夕暮れのひと時にコーヒーブレイクをしている設定です。ビルの上層階にあると思しきオフィスの一角に佇むスーツ姿の30代ぐらいの男性の姿を目にしてふと思ったのは、「今、オフィスでこんな姿で働いている人ってどれくらいいるんだろう?」ということです。ステイホーム、リモートワーク、ニュー・ノーマルという言葉が唱えられ、就労環境や就労時に求められる服装は大きく変わっているのに、また高齢化社会はどんどん進行していくのに、広告の中で描かれる男性像はこの先も変わらないのだろうか、変わっていくとしたらどうなるんだろう、そんなことを思いながらこの写真を撮りました。

筆者撮影 2021年 東京都板橋区

ノイズキャンセリングしないで観察する「広告ハンター」

「ジェンダー目線の広告観察」を執筆していた頃から現在にいたるまで、私は電車内や駅構内、路上などの公共空間で目にする広告で気になったものを観察・採集するように写真を撮っています。そんな私の撮影と記録の仕方を見て、友人から「広告ハンター」と呼ばれるようにもなっていて、このような観察という行為を通して、表現の変化や周囲の環境、社会的な背景などについて、さまざまな気づきや問題意識を得ています。日常生活でいたるところで目にする広告に対していちいち意識を向けるのは困難ですし、この文章を読んでいる方の中には、広告を煩わしく感じて見ないようにする、ノイズキャンセリングをするように意識の背景に追いやっているという方も多いことでしょう。
私は、広告に限らずアートや写真など視覚表現に対する好奇心が強く、見ることについて考え、見たことを言葉で表現する仕事をしてきました。「どうしてこういうふうに表現されるのだろう?」、「このイメージから私はどういうメッセージを受け取っているんだろう?」、「この表現は社会のどのような変化を反映しているんだろう?」そんな問いかけから、「ジェンダーの「らしさ」」が広告の中でどのように形作られていて、私たちの意識に影響を与えているのかということをこのトピックスでは考えていきます。

どうぞよろしくおつき合い下さい。

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