「私」のリアリティの不確かさ

2024年2月3日
全体に公開

前回、顔について考えました。今回も顔から始めたいと思います。多くの人々にとって、誰かとは顔である、というのが出発点でした。私たちは誰かを想像するとき、その人の顔を想起します。人のアイデンティティとは顔なのです。なぜ顔なのかというと、私たちの多くは感情を顔で表現し、目で世界を認識しているので、顔が私たちの中心であり、その核となる部分だと認識しているからです。その思い込みはさほど間違っていないと思います(もっとも、目の見えない人にとってはそうではないだろうという推測も述べました)。一方で、顔は私たちを欺きもします。顔から、その人の感情が読み取れないこともしばしばです。だからこそ、私たちは顔の裏側に「内面」というものが隠れているような気がしてしまい、目には見えないそうした「内面」あるいは「心」が背後にあるのだと思い込むわけです。私は、人には「内面」も「心」も一切ないと言いたいわけではないのですが、ここでいう「内面」や「心」が、整合性のある信念、性格、感情の統一体(つまり揺るがぬアイデンティティを持った「私」)を意味するとすれば、そんなものはないだろうと考えます。

さて、「私」という観念はどのように生まれるのでしょうか? そこには言語が大きく関わっています。言葉を操るようになって初めて、人間には(自分にも他人にも)表と裏があるような気がし始めるのではないでしょうか? なぜなら、私たちが「心」と呼んでいるものの正体は、言語だからです。私たちは心の中で色々なことを呟きます。自分で喋り、自分で聞いています。その独白の世界を、大抵の場合は、「心」とか「内面」と呼んでいるのではないでしょうか? 確かに他人の独白は私には聞こえません。しかし聞こえたとしたら、私たちはその人の隠れた本質に触れたということになるのでしょうか? そうは思えません。

現実と言語のかかわり

イギリスの認知科学者ニック・チェイターは『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』(高橋達三・長谷川珈訳、講談社選書メチエ、2022)で、「あらかじめ形作られて内なる深みに隠されている信念や欲望や動機やリスク選好性、というものは虚構」(p.172)だと言い切っています。私たちの心は一種の「解釈者」であり、守備一貫した「内なる私」なるものは存在せず、その場その場でそれらしい解釈を施し、それを言葉にしているだけで、信念も欲望も動機も「自分が想像するほどには確固たるものではない」(p.159)ことをさまざまな実験結果を挙げて証明しています。

チェイターは「脳」を「心」と捉えた上で、それを「解釈者」と呼んでいますが、「心」や「内面」の正体が言葉だとすると、私たちの正体とは実に不可解なものです。何より、言葉とは「私」が発明したものではありません。そして「私」は「解釈者」なので、言葉の「読み取り機」ということになります。私たちは現実を、そのまま受け取ることはできません。そのままでは意味をなさないからです。試しに時計を見てください。その気になれば、文字盤に示された数字や針の位置の意味を読み取らずに眺めることができるはずです。ですが、そのように眺めると、今何時だか分からない。それを心の中で言語化して初めて、意味を「読み取る」ことができるのです。しかし、時計そのものは何かを意味しているわけではありません。猫が時計をいくら眺めても、今が11時38分だとは知るよしもありません。「11時38分」とは言語であり、かつ意味なのです。しかし、時計を眺めている人と猫と、どっちが純粋な現実を見ているのでしょうか? そのものを見ている猫よりも、言語という媒介により現実を認識する人間の方が、不純な気がしなくもありません。

チェイターは映画技法のクレショフ効果(同じ人物の同じ表情のカットでも、その前後にどんなシーンを置くかで印象が異なる)を例にあげながら、次のようにも言っています。

感情とは内なる世界で発見される何かではなく、創作行為なのだ。したがって、恋人の顔を一瞬よぎった表情を解釈するとき、そこに愛や後悔や失望といった感情を「見る」ことはできない。より正確に言えば、クレショフ効果の餌食たる私たちの脳は、きわめて多義的でありうる表情を(自分の抱いている疑念や恐怖や希望と言った、有り合わせの背景情報と併せて)優しさ、はぐらかし、退屈の証拠、その他無数の可能性の具現化として解釈する。
ニック・チェイター『心はこうして創られる「即興する脳」の心理学』(高橋達三・長谷川珈訳、講談社選書メチエ、2022)p.145より

他人の心が読めるというのは、顔以外の無数のコンテクストを手がかりに(入力データを増強することにより)解釈の精度を上げているに過ぎません。重要なのは、当人にとっても、自分の気持ちは言葉を介した解釈に過ぎないということです。他人にもそれははっきりと見えないし、自分でもそれははっきりと見えない。生の現実というのは(そんなものがあるとして)、言語によって覆い隠されてしまうし、かといって言語がなければ認識することも難しい何かなのです。

UnsplashのPawel Czerwinskiが撮影した写真

幻のような「私」と「私」を取り巻く人々

人間の自己同一性はかくまで脆弱で不安定なのです。私たちは、目の前にいる誰かを常に誤解しているとも言えますし、自分自身さえ捉え損なっているのかもしれません。人間のどこに、確固として安定した部分を見出すことができるでしょうか。自己同一性を担保してくれるものがどこかにあるでしょうか。例えば、物質としての身体は、自己同一性を担保しうるでしょうか。細胞は常に入れ替わっています。確かに、DNAのような情報は安定していて確固たるアイデンティティを保証するようにも見えます。しかし現代のテクノロジーではコピーも可能です。精神とか心のような不可視の部分は、前述したように言語に支えられています。つまり言語が、あるように見せている幻のような存在です。チェイターの仮説が正しければ「心」もまた自己同一性と呼びうるほどの確固とした一貫性を備えてはいないことになります。

先週、東アジア反日武装戦線のメンバーであった桐島聡が自ら名乗り出て、大きなニュースになりました。彼のモノクロの指名手配写真は、誰もが目にしたことのある有名な写真だと思います。つまり彼の顔は、広く世間に知れ渡っていて、多くの人々の記憶に焼きついていたはずです。にもかかわらず、大勢の人々と関わりながら生活していた彼のアイデンティティに誰も気がつかなかった。今日のニュースでは、DNA鑑定の結果、名乗り出た人物を桐島本人と推定しうると報じられていました(確定はできない!)。が、ここまでの議論を踏まえると、その鑑定結果にどれほどの意味があるのかも心許なく思えます。逃亡生活が半世紀近くになるので、顔は同じではなく、彼の「心」だって大きく変容しているはずです。もちろん、そんなことを言い出せば司法制度そのものが成立しなくなってしまいます。極論なのは重々承知していますが、人のリアリティとは何なのだろうと改めて考えてしまう出来事でした。

DNAや指紋、顔写真は、確かに個人を同定する有力な証拠に違いありませんが、最新のテクノロジーはそうしたものの操作や複製さえ可能にしつつあります。人間の記憶さえ可塑的なものであることが最近の研究では判明しています。「私は私である」という主張は、予想外に難しい。このトピックスは、ここ数十年の視覚テクノロジーの発達が現実感覚(リアリティ)に与えた影響を考えているわけですが、いま論じているのはそもそも私たち人間のリアリティが本質的に薄弱なのではないかという根本的な問題です。ですから横道にそれているのですが、もし私たち人間の存在が確固たるものでないならば、私たちが認識する現実も確固たるものであるはずがありません。つまり、かつては確固たるリアリティに溢れた世界があり、それがテクノロジーの発達で揺らいだ、という話ではなくなります。いやむしろ、桐島聡に関する報道を例にとるなら、人のアイデンティティとかリアリティを担保しているのは顔写真とかDNA鑑定などのテクノロジー技術のほうであって、そうした技術が生まれる以前には、人間のアイデンティティを客観的に証明するようなものは何も存在していなかったわけです。人類史とは、そもそもアンリアルな土台の上に築かれた儚く脆い世界なのでしょうか。

トップ画像はUnsplashのWarren Umohが撮影した写真

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