なぜ人は呪う・呪われるのか?

2023年6月13日
全体に公開

はじめまして、オーナーの橋本栄莉(はしもと・えり)と申します。日本で生きづらさを抱え、人類学を学びアフリカ・南スーダンに逃亡してから15年。気づけば大学で、世界の呪術や信仰に関する講義をしています。

「呪いの解き方・かけ方」と題したこのトピックを開いてくださった方の中には、「憎いあいつを懲らしめる効果的な呪文が知りたい」と切に望む方もいるかもしれません。そういうことも無理ではないのですが、またそれはどこかで(期待した方、すみません!)。

「呪い」をキーワードとして、このトピックスで問いたいのは次の問題です。

――どのように社会は人を呪う心をつくるのか?

――社会そのものが一つの呪い、という視点にたって世界を見てみると何がわかるか?

呪いと社会

「人を呪うこと」は、人間の負の感情——悩みや嫉妬、理不尽な経験、不公平感など——に端を発する、個人的な現象と思われがちです。しかし、実はとても社会的な現象でもあります。なぜなら、私たちが何に悩むべきで、何に悩まなくて良いかを決めているのは社会だからです。

「何が幸福・不幸か?」「あなたの人生はこうでないと!」

私たちは、毎日出会う様々な人やメディアから、このメッセージを受け取っています。

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広告を例に考えてみましょう。

今日あなたが乗った電車に、「脱毛」の広告はありませんでしたか。その横に、「植毛」の広告はありませんでしたか。

…私たちは体毛を無くせばよいのでしょうか?生やせばいいのでしょうか?体毛をコントロールすることが、なぜ個人の幸福・不幸につながるのでしょうか?

それなりの訳があって残ってきた・残らなかった体毛に、「ここは生やそう!でもここは剃ってよね!」という、ムチャなメッセージを一方的に出し、そのメッセージを大きな疑問も持たずに受け入れているのは誰でしょう?——そう、社会(私たち)です。

私たちが日々社会から受け取るメッセージは常に、その社会や時代が掲げる「こうあるべき」という思想——呪い――とセットで存在します。

ムチャな要求を含むメッセージの中で、私たちは人知れず「こんな私に誰がした!」と自分や自分以外の何ものかに対する呪いの心を育てているのです。

この呪いは、人から人へと知らぬ間に感染し、「幸せってこういうものだよね」という全体的な考え方をつくっていきます。

牛の呪いと「紙切れ」の呪い

わたしはひょんなきっかけから、南スーダンのヌエルと呼ばれる民族集団のところでフィールドワークをするようになりました。彼らは、牛に強いこだわりと関心を持つ牧畜民です。牛は、人々の生活の糧であるばかりでなく、経済活動や結婚、賠償、宗教生活や個人のアイデンティティとも深くかかわっています。

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ヌエルの人々の生を眺めていると、牛という呪いにとらわれているようにも見えます。

牛を持たないことは大事件で、牛なき人々は人生を「詰んだ」も同然だと語ります。愛する息子の結婚のために、何十キロと歩いて親戚に「少しでいいから牛を貸して」と頭を下げて回るお父さん。牛がないことで「非モテ」でありつづける若者たち、それをケラケラと笑う少女たち。

あなたは「たかだか牛ごときで大げさな」と笑ってしまうでしょうか。

――では、私たちの世界は?

貨幣経済のなかで生きる私たちについて、ヌエルの友人が抱いた素朴な疑問です。

「なぜ君たちは『血の通っていない紙切れ』(=紙幣、カネのこと)をそんなに大事にするの?」

カネがあること・ないことが日々の関心事で、それによって人生が左右されかねない私たちを、「たかだか紙切れごときで大げさな」とヌエルたちは思うかもしれません。でも私たちは「紙切れ」の呪いに、それを呪いなどとは思わずに毎日必死に向き合っています。

もちろん、カネによってしかできないこともあり、それが世界の経済発展(本当に「発展」と言えるかはさておき)を支えてきたことは確かです。でも同じように、牛によってしかできないこともあり、それが生み出す深い思考や知恵があります(今後のトピックスで紹介予定!)。

「血の通っていない紙切れ」に右往左往する日本の私たちと、牛に翻弄される南スーダンの生のあいだを行き来していると、なにものかに「呪われていること」は全人類が抱える悩みにも思えてきます。

呪いとの付き合い方

呪いといえば、ファンタジーや因習をはじめ、非合理的なイメージがあります。いつでもどこでも合理的人間でありたい!というのは私たち人間の悲願かもしれません。

でも、さきほどの体毛の話を思い出してもらえばわかるように、私たちは少々、いや、かなり合理的とはいえない側面を持っています。

私たちは非合理を合理に見せる力も鍛えてきましたから、「創られた合理性」に勝手に悩み苦しんでいるだけかもしれません。

人類学はそれを笑うことはありません。体毛の広告や「紙切れ」、牛の背後にある何億もの人間の嘆きを、自らも嘆きながら聴こうとすることが人類学徒の仕事です。

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このトピックスでは、わたしの南スーダンでの経験や文化人類学の知識とともに、日常的に経験するさまざまなモヤモヤを「呪い」として読み解いていこうと思います。わたし自身、アフリカの大地や人々からの教えに救われたことは数知れません。

私たちがある社会に生きている限り、モヤモヤや苦しみを根こそぎ消し去ることは正直言って難しいです。でも、世界の具体の人々の生や、彼らとのコミュニケーションをヒントに、私たちの凝り固まった世界の見方を少しずらしたり、距離をとったりするだけで、案外楽になるかもしれません。

気になる社会の「呪い」がありましたら、どうぞコメントをお寄せください。人類学との接点を探りつつ、みなさんと一緒に呪いを解く方法(たまにかける方法)について考えていきたいと思います!

トピ画:筆者撮影

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