登ったら消えるハシゴ ~「多様性の強要」について思うこと~
先日に読んだ、『「多様性」にムカつくこと』というトピックスがとても興味深かったので、触発されてアンサー記事?を書きたいと思います。
今回の記事はこちらの内容をベースお話ししますので、ぜひ先にご一読くださいませ。
「多様性の強要は画一的だ!」という声に、私が連想したのは「多様性の尊重」という言葉やスローガンって登ったら消えるハシゴの一つだよなあということです。もちろんそれは脳や神経由来の多様性尊重がテーマであるニューロダイバーシティも例外ではありません。だから私にとっても大切なテーマです。多様性を強要するな!という若者の瑞々しい感性に共感しつつも、忘れてはいけない大事な視点だと思うので整理させていただきます。
「登ったら消えるハシゴ」とはなにか?
私は普段twitterをやっていまして、そこで学んだ「言葉」が色々あるのですが、その中の1つに「登ったら外す梯子」があります。これを私は「登ったら消える梯子」と少し言葉をアレンジして大切に使わせてもらってます。
例えば「自分らしさ」や「自己肯定感」なんかがそうで、生きてく上でとても大事だけど手にいれると途端に消えてしまいます。自分らしく生きている人は、「自分らしく生きるとは何か」をまず考えませんし、「自己肯定感」が高い人は自分を肯定的に捉えるための努力をしたりしません。つまり、それが「ない」ときにはとても重要なのだけれど、達成され満たされた後はほぼ不要になる概念や言葉たち、それが「登ったら消えるハシゴ」です。
この言葉はもともと、対人支援において語られてきた言葉ですが、そっくり同じ構造が社会課題の解決に関しても言えるかと思います。例えば、少し前に「イクメン」という言葉が(おそらく意図的に)流行りました。父親なのだから自分の子どもの育児をするのはそもそも当たり前のことです。ですが、本来当たり前のことが当たり前でない、何とかしなくてはいけない状況が、この社会には至る所にあります。課題の解決には、何らかのアクションが必要です。そこで出てくるのが何らかのハシゴ(手段)を用いて、社会課題の解決に向かおうとする発想です。重要なことは、このハシゴは登ったら不要になる、消えるハシゴだということです。イクメンの例で言うと、男性の育児が当たり前になったらこの言葉はもう必要がなくなります。
そもそもなぜハシゴが必要なのか
ここまで「登ったら消えるハシゴ」についてご説明してきました。私は、「多様性の尊重推進」、つまりダイバーシティという言葉もまた「登ったら消えるハシゴ」の一つだと思います。
ここで考えなくてはいけないのは、そもそもなぜそんなハシゴが必要なのかその理由です。
答えは明確で、抑圧されたり差別されることで生きづらさを抱えている人、場合によってそれが理由で命を落とされた方が「すでにいる」からです。それは、人種差別であったり、ニューロセクシズムであったり、セクシャリティに基づく差別など様々な形がありますが、共通しているのは特定の「種類・属性」の人が優遇され、特権を与えられている現状があるということです。私たちはこの事実から目をそらしてはいけないのだと思います。
そしてさらに重要なのは、その目的です。
多様性が尊重される社会を目指すのは、第一義的にはその社会を構成するひとり一人の存在や人権が尊重されるためです。さらには、誰もが自分の持っているものを充分に発揮することが出来る社会を目指すためでもあるでしょう。だから、「多様性を否定する多様性」は多様性を否定したり拒否したりするほうが、一人一人の人権や存在が大事にされない限り、目的に反しているということになります。
重要なのは「登ったら消える」こと
ここまで色々とダイバーシティ尊重の意義について書いてきましたが、
「多様性の強要は画一的だ!」
という気持ちも正直よく分かる気がしています。
本来「登ったら消える」はずのものが、まるで究極の目的であるかのように扱われてしまっている場合があるように私も思うからです。別の言い方をするならば、「手段の目的化」という、よくある落とし穴です。多様性の尊重はあくまで手段であって、目的ではありません。だから「いかなる場合であっても多様でなければならない」「多様でないなんて許せない」というプレッシャーが強くなり過ぎることは、その時点で手段が目的になってしまっているようにも思います。
真に一人一人が大切にされる社会とは、誰もダイバーシティなんて言う必要のない社会
そういうことなんだと私は思っています。
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