僕たちはどうやってJALを再建したのか?⑧ 「更生計画コンプリート、そして再び現場へ」

2023年1月13日
全体に公開

今回は久しぶりに僕のJAL再建話に戻りたいと思います。

前回は「関空・中部空港のドラマ」として執筆しましたが、その続きとなります。

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これまでの記事で書いてきたように、僕のJALにおける再建計画の遂行の任務としては、

①タスクフォース派遣への対応、

②JAL再建計画をゼロから作り直す、

③策定した再建計画に基づいて関空・中部のM&Aを実行

という内容であった。債権の調整も終わり、JALは2011年3月28日に無事に裁判所から更生計画の終結を決定してもらい、晴れて更生会社から株式会社に戻ることとなった。

以下が更生計画終結に際し、国交大臣から発表された内容である。

  1.本日、日本航空の更生債権約2,550億円について、合計11の金融機関から資金調達を行うことによって一括弁済が行われ、これを受けて東京地方裁判所は、会社更生手続終結の決定を行いました。これにより、日本航空は、裁判所及び管財人の監督下から離れ、通常の株式会社として企業経営を行うことが可能となりました。
2.国土交通省としては、日本航空の再建は、更生計画に従って着実に進行していると考えており、また、更生債権の一括弁済が行われたことは、日本航空の再建の進捗状況について、金融機関からも一定の評価が得られたものと考えております。 ここに至るまでの関係者の御尽力と御協力に感謝を申し上げる次第です。
3.しかしながら、会社更生手続が終結したといっても、日本航空の再建過程の一つの通過点にすぎません。 日本航空においては、引き続き、事業構造の改革、安定した財務基盤の構築に真摯に取り組むことはもちろんですが、企業再生支援機構の支援期間が終了する平成25年1月18日までの間に機構保有株の売却が可能となるよう、日本航空の成長性や信頼性についても、市場から評価が得られる企業へと再建を進めていかなければなりません。
4.このため、日本航空においては、航空の原点である「絶対安全」の確保を大前提としつつ、海外の格安航空会社の参入等による航空会社間の競争激化や、今般の東北地方太平洋沖地震による航空需要の減少という厳しい環境の中でも、着実に業績を上げ、わが国の発展基盤である航空ネットワークの重要な部分を担う、強靱な航空会社を目指して、なお一層の努力を重ねていただきたいと考えております。  

僕は更生計画遂行中は「更生会社 日本航空の鈴木大祐です」と名乗っていった。おそらくもうこんな経験をすることは無い事を願いたいが、数少ない体験であったかもしれない。

さて、僕の方はというと2010年1月19日に更生法を申請し、その後春頃まで計画を創った後に、中部関西の再建を担当した。この案件が終わったのが2010年の秋頃だった。

無事に中部、関西の雇用を守りながら固定費の変動費化に成功することができた。そんな折に、人事部で異動を監督していた方から一緒にご飯でも行こうよ、というお誘いがあった。今まで人事部と食事なんてなかったので、これはそういう話かなと直感的に感じていた。

ランチの約束をし、場所は本社から徒歩5分くらいのところにあるジョナサンであった。このジョナサンには本当に世話になった。今でも仲の良い中途同期の友達とは週3日以上は一緒にここに行き、ドリンクバーをしながらランチをしたものだった。天王洲はあまり食事をする場所が無く、ファミレスもほとんどないためこのジョナサンはランチタイムは大人気であった。12時に行くと入れないので、僕達は大体11時45分くらいに入店することにしていた。

さて、話をもとに戻すと人事部の方とジョナサンにはいり、注文を終えた後は早速に本題要件のお話だった。

「今回は再建に関してとても頑張ってくれたと感謝している。ただ、こういう状況なのでボーナスは払えないので、代わりといっては何だけど好きなところに異動させてあげようと思うけれどどうかな?」

僕も次について考えていたところだったので、これは大変ありがたいお話で、大変感謝したことを覚えている。

JALに入社した時も、お世話になった役員さんのご指導もあり僕は最初羽田空港の現場に配属となった。生まれて初めて制服を着たわけだが、やはり日本航空という会社はオペレーションの会社であり、現場があっての会社である。現場は何よりも重要な場所である。

別記事で詳細はまたあらためて書きたいと思うが、僕は企画や予算機能を現場が自分で考え、自分でコントロールできるような仕組みを作るべきであると、この現場経験を通じて確信するようになった。JALは昔から本社ですべてを決める中央集権体制であったので、この考え方・主張は本社側からすると相当煩かったと思う。実際に今自分自身も客としてお世話になっているJALスカイワイダーという34インチの世界で最も広いエコノミークラス座席の設定については、おそらく本社の決定を現場が覆した唯一無二の事例になったと思う。

JALの事業は大きく①旅客運送、②貨物、③その他という形であり、当然ながら旅客運送事業の収入が圧倒的に多い。そしてその旅客運送事業は、①空港、②客室、③整備、④運航、の4つの本部によって成り立っている。

僕は7年ほどのJAL生活の中で結果としては①空港、②客室、④運航の3つに関わることとなった。そしてこの更生計画がうまくいき、再生をこれから実行していくというフェーズにおいては、僕はお客さまと直に接し、かつ一番長い時間を共にする客室本部こそが、JAL再生の鍵であると考えていた。

まさにこの考えをそのまま人事部の方に伝え、僕は結果として成田空港、羽田空港を拠点とする客室本部で商品・サービスを企画、運営する部署に配属されることとなった。

当時はまだ成田が巨大な拠点を持っていたため、僕は成田がメインの配属場所となった。JALの年収は倒産もあり賃金カットもされており、とてもではないが家を借りるというのは不可能であったため、社宅に住めることが唯一の救いであった。

本社の時は新浦安にある社宅に住む事ができ、住環境も施設自体も居心地は良かった。

しかし、成田がメインになったことにより成田の社宅に移るということが社内のルールであった。その成田の社宅が鬼のように強烈な物件であった。

逐50年近い物件で、昭和初期の集合住宅そのものだった。広さは確か60平米なかったと思う。割り当てられたのは1階部分で、家に入るとものすごく古い匂いが漂っていた。

昭和の建物なので、居室は基本畳だった。また古すぎて壁と床の間には細い隙間があり、よく見るとそこから黒い蟻んこが列をなして家に入ってきているではないか。ということで入居して最初の仕事は、壁と床クラックをセロテープで全て塞ぐということだった。

また元々80平米くらいの浦安社宅から引っ越したので、荷物が入らず、結果一部屋は物置にせざるを得ず益々居住環境は悪い状況であった。

更に悪いことは続いた。引っ越しを終えたその夜、台所に飲み物を取りに行った時に、黒光りする最も嫌われる昆虫と出くわしてしまった。アリの次はゴキか、、ともうため息しか出なかった。すぐにコンビニに殺虫剤とホイホイを買いに行った。

さらに、そんなヘトヘトな中で風呂にはいろうとすると、これまた異次元ワールドな風呂だった。昭和のマンションにはよくあったみたいだが、ガスを風呂の中の給湯器で燃やし、その排ガスを出すための煙突が各家から壁を突き抜けて外に出ているというものである。火をつけるにはカチカチと回す火打ち石みたいのがあり、それで火をつけてお湯にするというものだった。今の給湯器は追い炊きとか素晴らしい機能がたくさんあるが、それはその場で釜で火を焚いてお湯を作ってシャワーに繋いでいるだけのものだった。よってシャワーから出てくるお湯の水量は極端に少なく、ちょろちょろとしか出てこない。おそらく現代の給湯器でシャワーを浴びる水量の10分の1くらいしか出なかった。

給料も90%ダウン、シャワーの水量までも90%ダウンということでさすがに心は折れた。衣食住といわれるが、住居がどれだけ精神衛生に重要かを改めて実感した。

そんな給湯器なので、風呂もとても小さかった。建物が小さいからなのか、昭和のスタンダードだからなのか、風呂の作りもかなり変わっていた。60センチ四方くらいの正方形のバスタブで、深さが1メートル以上あるような作りであった。足を延ばすなど不可能で、風呂で寝たら絶対おぼれ死ぬと思うようなバスタブだった。実施に当時まだ幼児だった息子を風呂の端につかまらせて温めながら僕はチョロチョロシャワーで何とか髪を洗っていた時に、泡が目にはいり少し目を離した瞬間に息子が手を滑らしたのか、水の中に沈んでいく事件もあった。1秒で気付いたからよかったが、これまたエラいところにきてしまったものだとおもった。ゴールドマンサックス時代はタワマンに住んでみたりもしていたが、この落差はあまりにも強烈で若干鬱になりかけたことは否めない。

そんな状態で僕は成田の客室本部に初出頭することとなった。

最初は皆さん初めての人ばかりであったが、ここで改革を一緒にやった人たちとは一生に亘る深い心のつながりで結ばれる戦友となるのだった。

長くなったので、続きはまた次回に。

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