僕たちはどうやってJALを再建したのか ① 資金調達編

2022年6月11日
全体に公開

今回からは、書ける範囲でドラマ「半沢直樹」でも話題になったJAL再建プロセスのど真ん中にいた人間の一人として、当時のことを回顧して連載してみたいと思います。本当に様々な人間模様がありました。事実は小説よりもはるかにドラマチックだったように感じます。

米国の証券会社であるゴールドマンサックスが自分の新卒からの職場だったのですが、ゴールドマンサックスでJALを担当し始めたころには、その後にまさか僕がJALの社員になって、JALの再建計画を作ったり、JALの再建のど真ん中のプロセスに関わることになるとは全く思いもよりませんでした。

僕はゴールドマンサックスに在籍しているとき、テレコムメディアテクノロジー部門に所属しており、それで前回のポストに書いたようにUSJ再建にも関わったのですが、幼少のころから乗り物オタクで、飛行機や鉄道が大好きでした。小学1年生の頃には神戸に帰京するときに乗る新幹線が楽しみすぎて、ノート1冊まるまる自分で「しんかんせんのひみつ」というオリジナル豆知識ノートを作って、乗る前から楽しんでいました。

当時はゼロ系でしたので、全く意味は分かってなかったと思いますが、ブラシモーターの仕組みとか絵にかいて説明文を書き写したことを今も覚えています。

そんなこともあって、運輸業界も担当させて欲しいということをお願いし、航空会社や鉄道会社の担当にならせてもらいました。

その時のお客様のうちの一社が、将来僕の人生も変えることになる日本航空でした。

そのJALにおける僕たちの「JAL再建実録」を今後回想して書いてみたいと思います。

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資金・資本不足に悩んでいたJAL

2005-2006年当時、JALは高コスト体質や内紛に苦しみ、資本不足に陥ってた。JAL=JAS統合から社内では混乱が続き、とても大変であったと後にJALの同僚からはよく聞いたものだった。現場でも徹底した節約大作戦が展開されていた。コピーをするに全て裏紙、再利用できるものは徹底的に再利用していた。

2006年3月期の連結純損益は472億円の赤字だった。燃油高が響いたうえ、安全トラブルの影響などで旅客需要が伸び悩んだ。

2006年3月期末の自己資本比率は6.9%で2005年末の9.0%から悪化し、累損一層のため1300億円規模の準備金、剰余金取り崩しが行われ、資本はさらに減少した。

そして、JALを窮地に追い込んでいたのは負債サイドの対応だった。2007年3月に集中する社債の償還の資金手当てに迫られていた。

出所: https://www.jal.com/ja/ir/management/pdf/mtbp_070206.pdf 

当時ゴールドマンにいた僕は、JALに何度もエクイティ調達のピッチにいっていた。僕らの営業スタイルとして、お客様とのフェイスタイムを最大化するために特定の内容に応じて、シリーズものの勉強会を無償で行っていた。JALに対しても様々な資金調達手法の紹介だったり、僕たちの方で最適だと考える資本構成やそれを実現するための財務戦略の提案などを行なった。毎週のように天王洲アイルに通い、合計で数十回は訪問したと思う。

しかしどうしてもマンデートがもらえない。親密感はかなり高まっていることは肌で感じていたが、案件を取ることは至らず、困惑していた。後で知らされたのだが、実は裏で某証券会社がすでにエクイティの主幹事をやっていたのだった。だから何度も何度も勉強会をしたり、いろんな分析資料を持っていってもゴールドマンの僕たちには全然仕事が来ない日々だったわけだ。

そんなもんで、足元ではライブ案件もなかったので、入社して数年経って初めてゴールデンウイークにお休みが取れて、奈良に遊びに行っていた。奈良ではシカにせんべいをあげたり、奈良の大仏に遊びにいき、あの小さな柱の穴をくぐっていた。

東大寺の大仏様の鼻の孔と同じ大きさの穴が開いた柱

しかし、そんな時に突然会社から電話が来た。

当時の僕はまだ30歳くらいで今よりも10キロ単位でスリムであった。今であれば柱から抜けなくなってミスコールになっていたことだろう。

しかし当時まだ細身だった僕はスルッと柱を抜けて電話をとることができた。当時はまだスマホではなくガラケーを使っていた。

「今からJALビルに来れるか?」

という突然の会社からの電話であった。

僕はそのままタクシーを飛ばして奈良から関空に向かい、飛行機で急いで東京に戻りJALビルに向かった。

空港から天王洲までの道が激混みで、タクシーの運転手さんに

「とても大事な緊急の仕事で、どうしても間に合わないといけないからなんとかしてくれませんか?」

とお願いしたら、ちょっとした荒業で僕をオンタイムでJALビルに届けてくれた。あの時の運転手さんへの感謝は未だに忘れられない。

JALビルに到着

JALビルに着くと、突然エクイティオファリングを手伝って欲しい、ということだった。突然すぎてGSの皆、嬉しさ30%で困惑70%、といった感じだった。

どうも詳細を聞くと、某証券が他社の主幹事もやっていて、そちらがローンチしてしまったのでJALの株はもう売れないから主幹事を辞退すると急に言ってきたということだった。

JALからすると、資金がなくて死にそうな時に信じていた人、いきなり目の前から別の人と駆け落ちをして消えてしまったような、本当に困難な状況だった。

半沢直樹で描かれていたのは嫌な銀行像であったが、この時の出来事は証券絡みであった。今でも当時の関係者たちはあの日のことは忘れずに覚えていることだと思う。

さて、そんな経緯でゴールドマンの僕たちにマンデートが来たのは良いのだが、エクイティ調達で想定していた2000億円が集められなけば、JALは倒産する危機的状況であった。

2ヶ月で2,000億なんて普通はありえない調達スケジュールだが、やはりゴールドマンの組織力は凄まじい。全チームメンバーが、寝る時間を2ヵ月間削りに削って体力の限界まで仕事をした。

2か月間の奮闘

JALビルに呼ばれたその日から、僕たちの不眠不休の奮闘は始まった。通常半年くらいかけて準備することを2ヵ月でやるので、単純計算でも3倍働かないといけない。

僕も途中で40度の熱が出たのだが、それでも毎日朝6時まで仕事して、シャワーを浴びて1時間仮眠して、そして朝8時には会社行って、文字通り死ぬ思いでJALの為に全力を投じた。

ローンチ直前は寝ずに連続70時間の勤務だった。あの時バファリンを一気に8錠飲んだことを今でも覚えている。

ローンチ直前までくると、座ると意識を失ってしまうので、最後の方は立って仕事をしていた。

あまりにも過酷だったので、上司のAさんが僕を呼び「大祐、体力が大変そうだから、君の仕事を分担するメンバーをいれようとおもっているけれどどうか?」といわれた。

当時のGSでは、1年生の時には資料の質が低いと「ぜんぜん、ダメ。やり直し」なんて言われて、目の前でビリビリっと紙を破って捨てられたりするほど体育会の感じで人材育成をする場所だったが、それでも何とか頑張ってきて数年も経てば当たり前のこととして日常になっていた。(※今思うと最初は精神的にもきつかったが、愛の鞭だと感じるようになり、育てて頂いたことに今はすごく感謝しています)

しかし、JAL案件において上司にこれを言われた時に僕は初めて会社で涙を流してしまった。自分の力・体力が足りなくてそんな風に思われてしまった自分に対して怒りがでて、悔しくて仕方なかった。

しかしそれを見た上司のAさんは僕の気持ちを察してくれ、僕の仕事の分担ではなく、僕の下にジュニアメンバーを増強してくれて「引き続き君に任せる」と言ってくれた。

彼からすれば厳格なタイムリミットが明確にある案件の中で大きなリスクを取ったことになるわけだが、僕の為にそういう判断をしてくれた感謝の気持ちは今でも強く覚えている。

約40日後にオファリングを発表した後は、ロードショーと呼ばれる投資家巡りの旅に出た。

僕はJALの西松社長と一緒に世界一周しながら世界中の投資家を回った。この間もほぼ寝る時間はなかった。当時は機内WIFIなんてなかったので、飛行機の中で寝れるくらいだった。

時差の影響を押さえるため、西回りでロードショーを行った。最初はフランクフルトにおり、ロンドンを経て大西洋を越えてNYに飛んだ。文字通り飛行機で世界一周をした。

終盤のニューヨークに降り立ったときに、またもやトラブルが発生した。

パイロットが薬物検査に引っかかったというニュースが飛び込んできた。なんでこんなタイミングで!?とチームの誰もがその悲運を恨んだ

ホテルの一室で緊急会議を行ったのを今でも覚えている。詳細が説明されたが、悪意がある事件ではないことが分かり、チームとしては引き続き全力でやるということで一致団結した。

やはりそんな逆境においてもゴールドマンは凄かった。なんだかんだでエクイティ部隊を総動員して、なんとか株を売り切っていった。

あっという間に過ぎた2ヶ月の奮闘の末、ゴールドマン・サックス他主幹事団はJALの為に2000億円弱を調達し、当時の倒産の危機からJALを救うことに成功した。但し、株価が下落したため、調達額は約1700億円となった。

その年の冬にNYに全バンカーが集まる会議があったが、このJALの案件は難易度が高いものをしっかりとクローズしたということで、正確な名前は忘れてしまったが、Deal of the Yearみたいな表彰を頂戴した。

JALに転職することになった経緯

苦しいけれど濃密な時間を一緒に過ごしたので、JALと僕の信頼関係は一気に縮まっていた。それからは、JALの西松社長はじめ経営陣の皆さんにとても可愛がって頂いた。

その後はことあるごとにJALからはアドバイザーとして使って頂けるようになった。IRの時は毎回お手伝いをさせて頂き、資料作成から投資家面談のアレンジ、同行に至るまでサポートさせて頂いた。

2008年の初夏のとある海外IRツアーでJALの役員さんとアメリカに行き、毎晩夕食をご一緒した。そうした時間を過ごすたびに、JALに対して自分の中で金融以上のサポートをさせてもらいたい、という気持ちが強くなっていた。

そんなこともあり、確かテキサスのオースティンでの夜の食事の場でふと

「僕はどこかのタイミングでJALに移籍して、金融支援だけではなくて、本気で事業の再生のお手伝いをさせていただきたいとおもっています。」

なんて事を伝えていた。ウイスキーをロックで飲んでいたからかもしれないが、とりあえず頭の中の想いがストレートに言葉になって口から出ていた。

帰国してしばらくすると、役員のお一人からランチに来れないか?と突然お電話を頂いた。ちょっとGSの他の人には内緒で来て欲しい、ということだったので、はたして一体何だろう?と思っていたが、とりあえずお伺いすることにした。

天王洲の高層ビルの上の方のレストランに呼ばれ、そこでランチをご一緒することになった。そしてその時にこう言われた。

「本当にJALに尽くしてくれる気持ちはまだある?給料はあまり払えないけれど、来てくれるなら20年ぶりに中途採用をやると西松さん(当時の社長)が言ってるよ」

というお話だった。

「一度持ち帰って考えさせてください」

とは言ったものの、もうその時点で答えは出ていた。

自分に対してこんな風に信頼してくれている方々を裏切ることはできないし、僕はJALに行きたい、と決めていた。

そして実際に西松さんは20年ぶりに中途採用を再開してくれたのだった。大企業なのでヘッドハントみたいな形にはできないので、公式な採用プロセスを立ち上げての採用だった。

ちゃんと面接の準備は入念にして臨んだのだが、後で聞いたらどうも僕は1次面接では落ちていたそうだ。

「ゴールドマンからJALに来たいだなんて、あいつは絶対に冷やかしだ」

と若手人事部面接官が言って僕は落選したらしい。ただ、すぐに社内会議がありこの中途採用が行われた経緯が僕であったことが共有されたようで、その後は問題なく進んだ。

内定が決まり提示された給与を見ると想像以上の下がり方だった。

半減どころではすまない強烈な年収の下がり方だった。僕はお金では動かない人間なので、給料が下がるのも覚悟の上だったので気持ちに揺らぎは一切なかった。

しかしながら、当時のJALは経営再建中だったので毎年ボーナスはほぼゼロであり、若手も含めて賃金カット中だった為、生活への影響はすごかった。住民税は前年度所得ベースの課税のため、住民税の支払いよりも給料のほうが安く、仕事をしているのに税金でお金は減るという状況だった。ゴールドマン時代に散財していたら終わっていたが、しっかり貯金する性格だったので、生活はなんとかなった。

JALへの入社

そんな経緯で僕はゴールドマンからJALに転籍することになった。そして最初の配属場所は羽田空港の空港職員としての現場だった。

中学高校も自由で有名な私立の武蔵中高で、人生で一度も制服を着たことがなかったのだが、この時初めてJALの空港で制服を着ることとなった。

当時の鼠色の制服は現場からも評判が良くはなく確かにダサかったのだが、生まれて初めての制服だったので、ちょっと嬉しい気持ちもあった。

JALの空港現場につくと最初2週間は教育だった。空港のスリーレターを覚えたり、JAL PASとよばれる独自のチェックインシステムの使い方を覚えたり、ゲートの責任者や出発便コントローラーのやり方を覚えたり、、という感じだった。

ただ、知れば知るほど現場運用の大きな非効率が気になって仕方なくなり、誰にも頼まれてはいないが、それを提言書に纏めて経営陣に報告し、空港をもっと働きやすく、効率が良く、お客さまも快適な場所に変えるためにアクションをとることを勝手に頭で決めていた。

(続く)

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次回(クリックで2話に飛びます)はJAL空港現場で取り組んだことをご紹介したいと思います。

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