感覚科学とウエルビーイング:タイに新たなフードネットワークSSBWが立ち上がる

2024年2月21日
全体に公開

タイ王室財団が主催する国際会議PMAC2024の開催期間中にSSBWが主催した、「Truth of Japan Taste」料理イベントについてレポートします。SSBWは、日本とタイのアカデミアが中心となり昨年9月に設立された「より良い幸福のための感覚科学ネットワーク」(Network for Sensory Science for Better Well-being)の略です。

ネットワークの目的は、最新の感覚科学の知識と技術を共有し、幸福を追求する新たな食品や食体験の質の向上を図っていくことです。そして、食が持つ栄養的価値だけでなく、楽しさや満足感といった精神的価値をこれまで以上に引き出し、多様性を尊重したより豊かな社会を目指します。

ネットワークは、食事を通じて五感すべてを刺激し、豊かな食体験を提供することで人々の幸福感を高めることに焦点を当てています。また、提供される食品の質とともに、食べる人のマインドフルネスや内省を通じた食体験の向上という伝統的な仏教的視点との融合にもチャレンジしていくようです。

SSBWが食のウエルビーイング価値を体験できるイベントをバンコクで開催

SSBWはタイの人々に本物の出汁(だし)の風味を体験してもらう講座「Truth of Japan Taste]をバンコクで開催しました。今回の参加者は40名限定で、趣旨に賛同するアカデミアと企業の有識者が参集しました。講師は辻調理グループのシェフ大引伸昭氏と女子栄養大学教授の西村敏英氏(うま味インフォメーションセンター副理事長)が日本から招聘されました。総合司会はチュラロンコン大学食品科学助教授ナティダ氏です。

この40名限定の特別イベントは、日本食のおいしさの構成要素である、コクうま味を試食とサイエンスレクチャーにより頭と体で理解してもらうことを目的としています。多くの人は「コクとうま味」については言葉で知っていますが、その味わいを意識して実体験できる機会は少ないです。私もSSBWサポーターとして参加し、多くの「なるほど、いいね!」を学ぶことができました。

辻調グループは、1960年に大阪で開校した辻調理師学校から始まり、14万人以上の卒業生を輩出する日本最大級のシェフ育成機関です。卒業生は日本や世界各国の飲食業界で活躍しています。2024年4月に「辻調理師専門学校 東京」の開校を目指して、2022年には国立大学法人東京学芸大学と連携協定を締結して「食と環境」をテーマに教育研究を進化させています。

うま味インフォメーションセンター(UIC:山本隆理事長)は2007年に設立された東京都のNPO法人で、うま味の啓発を日本国内だけでなく世界に向けて発信し、これまでも多くのシェフ、料理研究家、アカデミアとコラボした実績を持つUmami啓発の総本山です。今ではUmamiが英語になり世界中でUmamiのレストランが誕生するきっかけはUIC活動だと言っても過言ではありません。

当日のイベントのリーフレットより転載

この体験イベントは、タイの味の素社の2階にあるクッキング・クラブで開催され、チュラロンコン大学のスイモン博士による熱いメッセージで始まりました。

私たちは医学及び心理学、社会学的アプローチの飛躍的な進化によって、料理のおいしさの秘密を物質的側面と生理・心理的側面の両方で理解する時代を迎えています。その知見をより継続的で健康な食の開発と、だれもが自然に環境にやさしくそしてより健康になれる食環境整備にむけて実際に活用していくことが重要です。
SSBWの初代チェアのチュラロンコン大学スイモン教授の挨拶  抜粋

会場にはタイ栄養士会のメンバーも幾人か見つけることができました。タイ栄養士会のチャニダ会長は栄養管理のスペシャリストとして、今回の知識を栄養士の現場に役立てて欲しいと挨拶をしました。

PMACのサテライトイベントでは、減塩料理の調理におけるうま味と香りの効果的な使用について西村先生から多くのことを学びました。 
本日は幸運にも日本人シェフをお招きし、「コク」と「うま味」を体感できる料理を提供します。 味と香りが食べ物の風味をどのように左右するのかを学びながら、今日の料理を味わってください。 
また、この知識は、栄養士が入院中の患者のために減塩食を準備する必要があるときに役立つツールになると期待しています。
タイ栄養士会 チャニダ会長の挨拶 抜粋
スピーチをするタイ栄養士長チャニダ氏とファシリテーターのチュラロンコン大学理学部助教授 ナティダ氏     筆者撮影

挨拶に続き、実際に日本のシェフがどうやって昆布とかつおから「だし」をひいているのか実演コーナーに移ります。そして、大引シェフが実際の調理におけるコツを披露し、西村氏が調理の裏に潜んでいるサイエンスの話が続くという、シェフと科学者がコラボした「コクとうま味」の美食学ガストロノミー講座の始まりです。

大引シェフによれば、出汁を引くときの注意点は下記だそうです。

・昆布のうま味を抽出するときの温度、意外に低い。
・鰹節を加えるタイミングと温度、決して沸騰させない。
・昆布、鰹節から抽出するうま味のバランス、温度と時間が決め手。
辻グループ辻料理教育研究所 大引シェフ

そして、シェフがとらえるコクとは下記だそうです。

・料理に使用する食材(うま味)の相乗効果  
・味、香りの広がりと持続性  
・五感すべてのへのアプローチ
辻グループ辻料理教育研究所 大引シェフ

西村氏は「だし」を食品化学で解剖すると、次の3つが見えてくると付け加えます。

・だしに含まれるうま味物質は昆布からくるグルタミン酸と鰹節からくるイノシン酸だ。 
・この2つのうま味物質が合わさることで、うま味の強さ数倍高まる、うま味の相乗効果が生まれる。  
・純粋なうま味はそれほど“おいしい”という感覚は弱いが、素材の持つ味を高め、おいしさを引き出す役割がある
うま味インフォメーションセンター 西村副理事長

そして、食品のコクの定義は下記だと説明します。

食品のコクは、味、香り、食感のすべての感覚刺激によりもたらされる総合感覚であり、より多くの刺激から生じる「複雑さ」、それらの刺激による「広がり」と「持続性」の3つの要素の強弱により客観的評価が可能である。
うま味インフォメーションセンター 西村副理事長
西村博士(うま味インフォメーションセンター副理事長)によるコクとうま味の関係の説明  

イベントは大詰めを迎え、大引シェフは日本の素材で引いた出汁と、バンコクのスーパーマーケットで買ってきた地元の食材の見事なコラボで、「コクとうま味」を体感できる2品目を提供しました。

1品目は、最初のデモンストレーションで引いた「昆布と鰹節のあわせ出汁」を使った海老しんじょうのクリアスープ・タイプです。これはシンプルなうま味の世界を体感できる一品とのことです。

2品目は、出汁に味噌ペーストを加え、うま味と他のアミノ酸の味と味噌の風味も加わった複雑な風味、即ち、より濃い味、強いコクを体験できる濁りスープ・タイプです。参加者は西村氏の科学的な説明に加え、この2つの海老しんじょうを実際に食べ比べることで、「コクとうま味」の本質を頭だけでなく心と体で理解できたようです。

参加者は2つの海老しんじょうの風味を注意深く味わった。   筆者撮影  

西村氏は、この2つの海老しんじょうの試食が終わった後、どちらがコクを強く感じるか参加者に質問しました。全員が味噌を加えた二品目のえびしんじょうを選びました。体験イベントの成功です。参加者はコクの要素—味の複雑さ広がりと深み、そして持続の違い—を明確に区別していました。

しかし、どちらの料理が好きかという質問に対して、参加者の意見は分かれました。これは食の感情的価値の複雑さを示しています。科学的には、複雑な味覚成分を取り入れた後者の料理が優れているとされますが、実際のおいしさは人の主観、つまり過去の食体験によって大きく左右されるという真実です。これは、食を通じて人々のウェルビーイングを向上させる際に、嗜好に対応できるような感覚科学的なアプローチの必要性を示唆しています。

イベントは、タイのFood & Beverage協会の事務局長であるピチェット博士によって締めくくられました。ピチェット博士は、コクとうま味が日本食に限定されるものではなく、タイの伝統的な調味料にも見られる共通の特徴であることを指摘しました。これらの調味料は、タイ料理の濃厚で複雑な風味を生み出し、食材の味を引き立てていると言います。

イベントの風景 イベントはタイ語で終始笑いに包まれて進行した。   筆者撮影

「コクとうま味」は日本食の専売特許ではありません。タイで一般的に使用される魚醬ニョクマム)や発酵小エビのペースト(カピなどは、日本の醤油やみそと同じようにグルタミン酸をたっぷり含んだ伝統的なうま味調味料と同じ仲間です。異なるとすれば、日本の醤油や味噌は大豆や小麦を中心とした植物性原料を用いますが、ニョクマムやガピは小魚やエビなどの動物性原料を用いていることです。

そして、これらのうま味調味料と一緒に野菜や肉を時間をかけて煮ると、食材からゆっくりと溶けだしてくるアミノ酸や糖、そのメーラード反応物質、そして脂肪分が合わさり、濃厚で複雑な風味、コクを生み出すと考えられます。

2024年ユネスコの発表によれば、世界3大スープの一つ、伝統的なタイの伝統食「トムヤムクン」はインドシナ半島で初めて、食の無形文化遺産登録が審査されることになっているそうです。日本も2013年に出汁のうま味を特徴とする日本の食文化をUNESCO無形文化遺産登録に申請し登録を勝ち取った経験があります。SSBWは日本の経験を参照し、トムヤムクンのおいしさの秘密を文人類学・食品科学・心理学的側面から解き明かし、世界の食卓をより楽しく、健康的で持続可能にすることを目標の一つに掲げています。今回のイベントでもトムヤムクンのユネスコ登録に向け、SSBWは応援していくことが表明されました。

Truth of Japan Taste の体験イベントは盛況のうちに終了した。  タイ味の素社クッキングクラブにて筆者撮影

SSBWの活動を理解する

SSBW(Sensory Science for Better Well-being)は、人々のより良い幸福のために感覚科学を活用していこうという産学官連携のネットワークで、最新の感覚科学の知見を共有し、健康で持続可能な食環境の創出を目指すことで、社会的なウェルビーイングを高めることを目的としています。このネットワークは、古代から哲学者たちが感覚と知覚の重要性を探求してきたように、SSBWも現代において感覚科学を通じて人間の幸福とウェルビーイングを追求しています。

古代ギリシャやローマの哲人たちは、人間の知識や認識がどのようにして感覚を通じて形成されるかについて深く考察し、感覚や知覚と幸福の関係をとらえようとしていました。例えば、プラトンはイデア論を提唱し、感覚世界が真の現実ではなく、イデア(形相)の不完全な写しに過ぎないと考え、知覚と現実の関係について深く掘り下げて考察しています。そして、感覚が必ずしも真実を捉えることができないと考え、理性を通じてのみ真実に到達できると主張しました。

プラトンの弟子、アリストテレスは、師匠とは異なり、感覚と知覚を人間の認識過程における基本的な要素として重視し、感覚が外界の形態を受け取り、それを心が処理することで知識が生まれると考えていたようです。ローマ時代のエピクロスは、快楽主義を説き、感覚的な快楽を人生の究極の目標と見なし、感覚が人間の幸福にとって重要であるという視点を提供ました。その後の多くの哲学者が幸福とは何か、感覚を見つめることになります。

SSBWは、古代ギリシャやローマの哲学者が示唆していた感覚と知覚の重要性を、感覚科学という現代のサイエンスを用いて、食の持つウエルビーイング価値を捉え直そうとしています

食べ物の美味しさは人間の反応であり、食べ物に内包されているものではありません(食品企業への影響)。人間は食べ物や飲み物を摂取することで気分や感情が変化します(サービス企業への影響)。しかし、人間は、食品や栄養素について一貫した知識や態度を持っていません。  

したがって、私たちは人々にもっと健康的な食事をするよう働きかけるべきです( 医学への影響)。しかも、人間はコンピューターと同じではありません。 したがって、私たちは情報をどのように扱い、選択するかを知る必要があります(社会への影響)。  


私たちは健康とウエルビーイングに貢献するマインドフルな食事を考えていく必要があります。  

マインドフルな食事とはなにか?私たちは味覚だけでなく、嗅覚や視覚でも食べ物や飲み物を味わいます。そして、食事中に呼び出される感覚特性に注意を向ければ (= マインドフル・イーティング)、食べ物をもっと味わうことができます。  


優れた感覚特性を引き出すことで、人々はより良く食べることができます。 (= 感覚的なナッジ) そして、感覚を刺激しながらマインドフルに食事をすることは、人々の体と心の健康と幸福の両立を可能とします。
SSBWの日本の代表の東北大学文学部坂井教授  PMACでのメッセージを引用。
日本とタイの知恵が食のウエルビーイング価値をより高める   UnsplashのGareth Harrisonが撮影

SSBWがローンチされるまでの道のり

SSBWは、2022年、東北大学文学部坂井教授が大会長を務める日本味と匂い学会年会が仙台で開催された際、東北大-チュラロンコン大交流協定を記念する特別シンポジウム後に開始された、クローズドの交流会を契機としています。その時、タイから来日したのがスイモン教授やナタスダ心理学部長でした。交流会での議論をきっかけに、感覚科学を活用してより良いウェルビーイングを実現するためのネットワーク構想が生まれ、その後も参加者の輪を広げてアイデア交換が活発に行われました。

そして、その翌年9月21日にバンコクの食品展示会(Food Ingridient Asia)のサテライトイベントで、SSBWとしてローンチされました。サテライトイベントは国際グルタミン酸技術協会(IGTC)の支援を受けることができ、実現したそうです。

SSBWの目指すところ:
タイおよびASEANにおける健康と幸福の科学的アプローチを開発する先駆者を目指します。  

SSBWは何をやるところですか? 
感覚科学によるより良いウェルビーイング(SSBW)ネットワークは、感覚科学を活用してタイおよびASEANの人々のウェルビーイングを向上させることを目指し、専門家を結集するユニークなプラットフォームを提供します。このネットワークは、健康で持続可能な食環境を創造することを目指して、多様なステークホルダーを集めています。  

持続可能な未来への協力
私たちのビジョンの中心には、食品製造業やレストラン業界のような消費者中心の産業との協力があります。私たちは、アカデミアと産業の間の架け橋として機能し、タイおよびASEANにおける持続可能で健康的な食環境を保存し、向上させるための革新的な方法の研究と応用を促進することを目指しています。  

タイの料理遺産と世界への影響 
豊かな農業の多様性と根深い料理の伝統で知られるタイは、新たな課題に直面しています。西洋の食文化の流入は、これらの伝統を脅かし、心血管疾患や肥満などのラ生活習慣病に寄与しています。私たちの使命は、より健康で持続可能な食習慣へと回帰することを促し、社会規範を改革することです。  

革新的なアプローチと国際的な洞察
私たちの戦略には、感覚的な誘導や栄養プロファイリングシステムを含む社会実装理論の開発が含まれます。OECD諸国の中で最低の肥満率と最高の健康寿命を維持しながら、西洋の食文化と調和的に融合している国、日本をモデルとしています。日本がダシやうま味を食事に巧みに使用していることは、世界の健康改善に貴重な洞察を提供します。  

ネットワーキングによる相互理解と共創 
2022年、私たちは日本でのアイデア交換を最初の一歩とし、日泰のアカデミアで議論を重ねました。2023年9月、SSBWネットワークは、タイの食品科学技術協会(FoSTAT)および国際グルタミン酸技術委員会(IGTC)の支援を受けて、アジア食材エキスポ(Food Ingridient Asia Expo)と時を合わせて正式に発足しました。
クッキングeventの配布資料を和訳
2023年9月21日に開催されたFood Ingredient in Asia Expoのサテライトイベント風景。FoSTATのAnadi会長が中心になり企画された。  プルマンホテルにて筆者撮影

このネットワークは、タイの食品産業にとっても大きな意義を持つとタイ食品技術協会会長のアナディ氏は言います。

特に感覚科学に基づく製品開発は、消費者の健康志向やウェルビーイングへの関心の高まりを背景に、市場での新たなニーズを満たすことができると思われます。特に、このネットワークは食品生産者、加工業者、レストランオーナーなど、食品産業のさまざまなステークホルダーを結びつけることで、産業全体のイノベーションと成長を促進する可能性を秘めています。 

さらに、この取り組みは、持続可能な消費と生産の推進にも寄与します。仏教の価値観に基づく感謝の心と節度を持った消費は、食品廃棄の削減や地球資源の保護に繋がり、経済的な利益だけでなく、環境への配慮にも貢献するのです。
タイ食品科学技術協会 アナディ会長

今回は、SSBWというタイと日本で生まれたネットワーク活動を中心に紹介しました。SSBWの取り組みは、感覚科学の進歩を活用して個々人のウェルビーイングを向上させる新しいアプローチを提案しています。AI技術の発展により、これまで解析が困難だった感覚情報の解析が可能になりつつあり、SSBWはこの新しい科学的知見を社会に応用することで、より良いウェルビーイング社会の実現を目指しています。

近年、特に日本企業の間ではウエルビーイングという言葉を耳にすることが多くなりました。外に開かれた五感(視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚)と内に向けられた内臓感覚(迷走神経が運ぶ意識されない感覚)、この2つの情報が脳にインプットされることで私たちは外界と内界を認識することができ、そしてその2つの世界を統合した精神世界(ウエルビーイング)を構築することができます。個々人の過去の経験に基づく記憶と嗜好を踏まえ、この2つの情報を操作することが、個々人のウエルビーイングを向上できる第一歩だと思います。もともと、これらの五感が運ぶ情報量はこれまで解析が困難なほどの膨大でしたが、AIの進歩は、解析可能な感覚科学としての転換を可能とさせつつあります。

SSWBの目指すウエルビーイングとは何なのか?次回は、Nature Intelligence 社の調査内容を踏まえて紹介します。

Truth of Japan Tasteのサイエンス監修を実施した西村氏(うま味インフォメーションセンター) 配布パンフレットから転載

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