【対談】詩集『やがて魔女の森になる』ができるまで(後編)

2024年3月31日
全体に公開

「サイゴノ空」から「魔女」へ

藤井 『半島の地図』「サイゴノ空」から『やがて魔女の森になる』「世界が魔女の森になるまで」にいたる、書き方の変遷のようなものがあれば教えてください。

川口 『半島の地図』の巻頭「サイゴノ空」は、殺されてしまった小さな女の子の語りで書いた詩でした。殺されたからその子の人生はそこで終わるしかないのですが、生きていたらこれからこうなったかもと、もうどこにもない自分の姿を思って語る詩です。この詩を書いた時期に小さな子供が犠牲になる事件が頻発している気がして、その子たちの目にこの世界はどう映っていたのかを思わずにはいられなかった。

 この詩集を作った後、私の詩の先生で、今年の九月に亡くなられた鈴木志郎康さんが「この「サイゴノ空」は、川口さんの実年齢までしか想像できてないよね」と指摘されました。たしかにそうなんです。大人の女性になって洗濯機を回しながらぼんやり外を眺めている場面までしか書いてない。無意識でした。それで、これからは私自身の実体験にないことはもちろん、経験していない年齢も想像していこうと心に決めていたんですよね。

 「世界が魔女の森になるまで」は4連構成で、さまざまな時期の女性の姿を描きました。学生、子育て中で働きながら家事もこなしている、シングルで仕事をしている、老年になってやっとひとり暮らしになった、そういう四つの場面。老年期の女性を想像することは難しかったのですが、こうありたいという希望というか願望も込めています。

テーマはシスターフッド

川口 詩集の大きなゴールとして考えたのは「世界が魔女の森になるまで」を書いたときのモチーフで、シスターフッドとかフェミニズムの問題を含んだ一冊にしたいということでした。

藤井 BL読みの話からつながっているとはいえ、はっきりこのテーマで編もうと思っていらっしゃるのは、少し意外でした。

川口 SNSで触れたさまざまな声に後押しされたのかもしれません。ネガティブな問題も多いですが、SNSは誰でも発信することができて、それがどこかへ届いて誰かが受けとめることもある、そういう可能性の場でもあると思うんです。

 全然知らない遠くにいる誰かが、私が考えたり感じたりしていることに近い思いを言葉にしていることに気づいたり。私はツイッターしかやっていないのですが、小さな傷や名づけようのない痛みや苦しみが流れていくのを目にすることが多くて。それを詩の形で掬い取れたら、と思いました。

 また、私にとってシスターフッドの原点は、大学生のころにあります。若くて、つらいことや苦しいことはそれなりにあって、そういうとき頭の中で「誰か助けて」と思う。だけど、その「誰か」って誰? と思ったんですよね。子供だったら「おかあさーん」と呼ぶかもしれない。でも私の母は私の苦しみをわかって助けてくれるタイプではないし、呼びたくはない。その「母」は概念だな、と。では、恋人かというとそれもなんだか違う。

 そのとき、高校時代に読んでいた三原順の漫画『はみだしっ子』のある場面を思い出したんです。たしか、苦しくて助けてほしいときは知っている人の名前を順々に思い浮かべて唱える、それが神様を信じていない自分にとっての祈りだ、みたいなくだりがあった。それだ、と思ったんです。

 それから私も、ひとり暮らしの部屋で眠れないようなとき、今電話をかけて話ができそうな女友達の顔と名前を順々に思い浮かべることにしました。今みたいに携帯電話じゃないし、真夜中だから実際に電話をかけたりはしない。けれど、そうやって女友達がいると思うことが、私にとっての救いであり、祈りのようなものだった。シスターフッドって、私にとってはそういうことです。

 現在は、「理解のある彼くん/彼女ちゃん」みたいな言い方で求められたりするようですが、そういう対象だと依存になりやすい。ふわっとゆるく編まれたセーフティネットになるような関係性が複数存在することが大事なんじゃないかと思うんです。

 #MeToo運動はSNSを中心に世界的な広がりを見せましたが、どこかの誰かが私の気持ちに近い思いを抱えているという感覚の広がりがあれば、すくわれる。救助の「救い」にまではなれなくても、詩によって掬い取れることもあるのではないか、そんなことを考えています。

藤井 普段私が詩の編集をするときは、意味内容を追っていることは少ないのですが、今回の川口さんの詩集は、詩の意味が自然に入ってくるところがあって、そうすると「私はこうだった」と自分のこれまでの経験や思いが呼び起こされました。これまでシスターフッドという言葉に対して簡単ではないと思ってきたのですが、時間をかけてようやく言葉になることがあると改めて感じています。

言語化できなかった思いを言葉に

藤井 川口さんと私は世代がひとつ違うのですが、私が社会に出たのは雇用機会均等法が施行されて15年ぐらいの時期でした。川口さんもOL時代を経験されていますね。

川口 雇用機会均等法の前なので、「女子は自宅外通勤不可」「女子は留年浪人不可」「女子は英文科のみ」みたいな求人票が普通だった時代ですね。

藤井 びっくりしますが、世代が違えば経験していることも違う。この問題意識を継続させながら、「現代詩手帖」2022年8月号で「わたし/たちの声 詩、ジェンダー、フェミニズム」という特集を組みました。特集タイトルにある「/」に、連帯の難しさと希望を込めています。

 ツイッターで「#文学界に性暴力のない土壌を作りたい」という、映画業界の#MeToo運動の影響を受けたハッシュタグが始まって、これがおさまってきたころに、伊藤比呂美さんが声をかけてくださった。その前に川口さんの詩集があったという感じが私の中にあります。

川口 でも、藤井さんご自身がずっとあたためていた企画だったんですよね?

藤井 いつかやらなければいけないと思っていました。そもそも、どうしたらフェアな社会が実現するのかを考えることがすべての企画に通じているわけです。ただ、フェミニズム、ジェンダーの問題について正面から取り組むときには、さきほどから話題に出ている主体の問題がある。詩の世界では、詩における主体が書き手とイコールではないという前提のもとにいろいろな試みがされてきた格闘の歴史があって、それを書き手の属性の話に引き戻していいのかという問題が残る。

川口 私もこの特集に「声はここにある」という文章を寄稿しています。現実でいやな目に遭っても、詩の中では自由にのびのびと生きられると思っていました。でも書き続ける中で、いくら言葉の世界は自由、虚構で非現実だから現実とは切り離されていると思っても、書いている身体は現実の場に存在している以上、まったく無縁ではいられない。

 詩を書き始めたころは、空想や妄想の空間に遊んで、自分の内なる世界を書くのが楽しかった。でも言葉は、時代や社会の空気を吸っている私の中から出てくるんです。詩の主体は書き手とイコールではありませんが、現実の問題がないことにできないのであれば、詩の言葉の可能性を信じて書いてみてもいいんじゃないか。

 私が、自分があの人だった可能性もある、あそこで傷ついている人の立場に自分がいても全然おかしくない、そう考えるときの想像力は、詩の言葉によって育てられてきたものです。そのように他者の存在について想像させ、自分というものの枠を越えるように詩が働くこともある。

藤井 詩をとりまく状況や環境については、書く人以上に、批評がそれを言わないといけないと思うんですよね。

川口 ある場所で「世界が魔女の森になるまで」の朗読をした後、普段は詩を読まないという若い女性が「最初のところすごくわかります」と秘密を打ち明けるように言ってきてくれたことがありました。もしかしたら、その人の中の言語化されていなかった思いや痛みに触れたということかもしれない。

 今回の詩集は、他の詩にも「私も同じように感じます」とか「私のことかと思いました」と感想を寄せてもらったりしていて、詩の主体は架空の女性なのだけど、誰かのリアルと響き合うものが形作れたのだとしたら、そこにあるのもシスターフッドだと思いたいです。書くときは本当に目の前の言葉だけ、次の一行のことしか考えていないのですが、形になった詩がそういうふうに届いたなら、書いてよかった、知ってもらえてよかったと思います。読んだ人にも、こういうことを書いてもいい、言葉にしてもいいんだと思ってもらえたらうれしいですね。

流れを作るように書く

藤井 私もそうでしたが、たくさんの人の気持ちが寄っていくような、こういう詩集がもっとあってもいいですね。このことは意味的に読みやすいことと関係があると思います。

川口 読みやすさや散文的であることについて私自身はあまり意識していなくて、読むときはリーダブルではない詩も好きなんです。でも、自分で書くときは流れを作るのが好きなのかな。第一詩集の『水姫』から気づけば水のことばかりよく書いていて、詩人の野村喜和夫さんに「水の詩人」と言ってもらったりしました。私が生まれたのはこじんまりした海辺の町で、二本の川が海に注ぎ込む河口のあたりが生活圏だったから、流れる水の感じが身に染みついているのかもしれません。水そのものだけでなく、流れていく感じが好き。

 詩も、文法的には流れていくように行から行へと書くのが好きですね。その流れに乗っていった先で思わぬところまで来ちゃったとか、こんな流れができるとは思わなかったみたいに書けることがたまにあって、そういう瞬間が詩を書いていておもしろいと感じるときです。流れを作ることによって自分が思いがけなかったところに行ける、思ってもみなかった一歩が踏み出せる感覚。枝や草とかが伸びていく感じも好きで、思いがけない形で伸びちゃったねとか、すごい高いところまで行っちゃったよとか、そういう進みゆきが楽しいんだと思います。

藤井 川口さんはいろんな書き方ができる方、鮮やかに書き分けられる詩人という印象ですが、とくにご本人はそんなにはっきり書き方を変えた意識はないということですね。あと、ずっとおっしゃっているように自分のことを書かれていないということも大きい。透明感というか、誰かの声をすうっと受けとめるように形にされる、そんな書き方ですよね。

川口 空っぽの器になって、何かが入ってきてそれを詩にするという感覚はあります。

藤井 ちょっと小説的なのかな? 私は、この詩集の中では「寝台」が好きです。また、「曖昧なカンガルー」という詩は、翻訳者の菊地利奈さんと川口さんがオーストラリアの詩祭でご一緒されたときの場面ですね。

川口 物語があるようでつかみきれない、そんな感じを書くのも好きです。「曖昧なカンガルー」は、私としては珍しく実際にあった出来事を書いた詩で、あとがきっぽく最後のほうに入れようと思いました。

藤井 でも、やはりフィクションの要素が入り込んでいる。

川口 どちらにしろ言葉にする時点でフィクションになるので。

藤井 表現の大事なところはそこですよね。手を離れたときから書き手のものではなくなる。それは本当にそう思います。

魔女として生きていける森を願う

川口 ところで、「魔女」といえば、『魔法少女まどか☆マギカ』というアニメがあって、私の大好きなアニメ『TIGER & BUNNY』と同じ2011年に放映されて話題になりました。女の子たちが、一見かわいいけど正体不明の生き物と契約して魔法少女になって、魔女と戦いながら暮らしているという設定ですが、魔法少女として戦っていると濁りや穢れを帯びてそのうち魔女になってしまうのだと物語の終盤でわかってくる。魔女は魔法少女のなれの果て、というわけです。戦い続ける少女は魔女になるしかなくて、災いをもたらす存在となって新たな魔法少女に倒される。

 ものすごいリアルを言い当てられた気がして、深夜にひとりで観ていて号泣しました。つらすぎて、濁ってもいいじゃないか、魔女としてそのまま生きていける場所はないのかと想像し、逆に全世界が魔女の森になっちゃえばいいんだ、という気持ちも込めて作品のタイトルにしました。

藤井 なぜ「魔女」なのか、みたいな話もしましたね。私自身は、魔女より山姥のほうがイメージしやすかった。年を取ってくるとこれまでと違う景色が見えてくる。私は最近、言葉で戦う戦いは女が負ける可能性が高いと感じています。これは結構切実です。それでもみんなそれぞれの場所でがんばっている。

 置かれている環境が違うことは分断を生みます。子供がいるとかいないとか、親を世話しなきゃいけないとかそうじゃないとか、お金があったりなかったりということは、それぞれ寂しいことで、なかなか一緒に手をつなぎにくい状況だけれども、そこであまり黙らないで、みんなで共有し合って、自分はこんなことで苦しんでいるということをちゃんと言っていける社会であるほうがいい。これもシスターフッドではないでしょうか。

川口 魔女は、既成の制度の中では異物となって弾き出され、周縁に押しやられた存在でもあります。現実の社会になんとか馴染んで生きていても、やはり私の中にも弾き出されそうな部分はある。藤井さんの言う「女が言葉で戦っていくことの難しさ」もそれですよね。

 で、現実の中でうまく生きていかれなくて疲れたら、暗闇の森に少しのあいだ身を潜めたい。森の中で、魔女たちが大鍋をかきまわすみたいに言葉を行き交わせてゆるいネットを張って、回復したらまた現実と戦いにいく。そんなイメージもあるんです。具体的には、私の女友達の別荘があった軽井沢の森がそんな場になっていました。

藤井 そろそろ私の結論ですが、女性たちの言葉を批評するのは女性たちでありたい。女性たちの言葉への批評を男性たちに任せきりにしない。80年代に吉原幸子さんと新川和江さんが編集された「現代詩ラ・メール」は、そこを評価すべきなのではないかと思います。権威を与えるのは男性だったり男権的な組織だったりするけれども、新川さんと吉原さんがなさったことは、女たちが女たちを育てるという10年間の活動でした。

 女たちの言葉を女たちが応援する。もちろん女と言ったときにシスジェンダーだけじゃない、多様な性であったり、弱い立場に置かれてしまう人たちも包括する思想がフェミニズムだったりジェンダーの考え方であるべきなので、そういう人と言葉を交わし合って生きていきたいと思っています。

小さな声に光をあてる

川口 フェミニズムを視野に入れシスターフッドをテーマとして作った詩集を、男性はどう受けとめるのだろうと思っていたのですが、歌人の江田浩司さんが「みらいらん」に書いてくださった批評がうれしかったです。マジョリティである男性として読んでいると、自分がこの詩の言葉の世界から受け入れられない、異質な存在であることを感じる、と書かれていました。

 〈「世界が魔女の森になるまで」は傑作である。男の世界、男の言葉を脱臼させる詩句が快い。いや、私にはちょっと居心地が悪い。ちょっとか、と改めて問うのはやめておこう。川口特有の女性性を内包した詩句が、男の世界と、そこから創られる男の言葉を裁断する。詩句に底隠る怒りの激しさが、「女性」から欠けている存在としての、「男」の私を告発する。〉

 ここまで率直に、私自身が覚悟を決めて編んだ詩集の言葉を真っ正面から受けとめて対峙してくださったことが、ありがたいと思いました。なんとなく遠くから、文芸や表現の領域だけのこととして論評するんじゃなくて、「居心地が悪かった」と書いてくださっていることに希望を感じます。

 「現代詩手帖」8月号が力強い特集となったように、今、小さな声が聞こえ始めている。そうした時代の空気を受けて、この詩集に萩原朔太郎賞を出してくださり、ありがたかったです。それは私自身だけではなく、世代の異なる多くの女性たちの励みになります。これまでは見えないことにされていた、名づけがたい声に光を当ててもらったようで、本当によかったと感じています。

藤井 そもそも若さにプライオリティがあったり、「女性が書くこと」が優遇されたりするのは遅れた社会です。賞の選考委員も半数が女性じゃないと男性にも女性にもアンフェアになるはず。『やがて魔女の森になる』は、書いた川口さんだけではなく、若い人もそうじゃない人も、女性もそうじゃない人も、みんなを次のステージに連れていってくれる。そういう詩集であってほしいですね。(おわり)

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