【事業妄想】終活の再発明:エンディングを、エンジニアリングする | SFデジタルツイン

2023年8月30日
全体に公開

🪦 これまでの終わり

終活。

人間が「より良い最期」を迎えるための準備活動。

この言葉は比較的新しいが、人は昔から、自らの死に対して、準備をしてきた。

肖像画や、エジプトのミイラから、世界中の墓に彫られた言葉や造形、自伝まで。

遺産を残そうとする者、戦いの中で死のうとする者、後継(分身)を残そうとする者・・・

さまざまな方法で、自らの生の意味、あるいは生の延長を作り出そうとしてきた。

👻 終わりの再発明

カニエ・ウェストは、米国シカゴ出身のラッパー・音楽プロデューサー・ファッションデザイナーだ。(最近もなにかと話題に事欠かない人だ。)

彼は、前妻 キム・カーダシアンの誕生日に、亡くなった父親のホログラムをプレゼントした。という報道があった。

もっと最近では、1970年代から活動しているスウェーデン出身のバンド ABBAのメンバーが若い頃のアバターを使ったライブショーが話題になった。

デジタルツインという考え方がある。

現実世界から集めたデータを基に、双子のように瓜二つの街やモノを、コンピュータ上で再現する技術のことだ。

マインドアップローディングという考え方がある。

脳をスキャンしてデジタル・コンピューターに個人の精神状態を完全に複製することだ。

脳マッピング・シミュレーション、仮想現実、ブレイン・マシン・インターフェイス、コネクトミクス、脳からの情報抽出など、多くの研究が行われている。

ヒトが、自身の記憶や経験、思考回路の、完全なデジタルツインを作り出せたらどうなるだろうか?

会議に代わりに出て自分の経験や思考回路を基にして発言をしてくれるサービス、自分の記憶や感情を保存しておけるサービス、自分の分身と向き合うことができるサービス・・・色々な活用のされ方をするだろう。

ただ、それは、もしかすると私たちの新しい墓になるかもしれない。

これは、よくあるSFみたいなお話。技術的課題や倫理的課題を一度、度外視した妄想だ。

新しい墓:Takuya Watanabe

上記の画像は、私が今回考えた「新しい墓」のかたちだ。

人は生きる間、たくさんの情報に触れ、最新の自分をデジタルツインの素材として貯めておく。生前も、それらのデータをさまざまに活用するだろう。

そして、死後。

長い年月をかけて蓄積した故人のデジタルツイン・ヒューマン(ゴースト)が、霊廟に顕れることとなる。生前の記憶のエコー(こだま)を聴く、対話のための霊室。

冒涜だろうか? - それは誰が決めるのか。当人か、無関係な誰かか、あるいは神かAIか。

さて、仮にこの墓が実在した場合、それは、私たちの意識を「そのままアップロード」したわけではない。それはもうひとつ次の話だ。

無数のデータから、私たちの人格が自動生成されているだけ。ChatGPTの一歩先に、ホログラムがくっついたようなイメージを想像している。

ここでは、祖先の知恵に触れることができる。シャーマンGPT的な何かを想定している。

おばけ≒ゴーストの技術的な発生。昔から儀礼とトランスを通じて引き起こしてきた奇跡に再現性を与えたようなことだ。

ソーシャルメディアにアップした無数の言葉、写真、声。

スマートウォッチが計測した身体情報。

XRグラスや、BMIが計測した、目線や脳波の情報。

こうしたデータが行き着く先は、パーソナライズされた人格の設計図かもしれない。

🤖 身体、あるいはセンサーの重要性

さて、こんな技術が現れたら、次は「意識のアップロード」だ。

これは、不死と何が違うのだろうか?人間は身体がなくても生きられるようになったということだろうか。

しかし、ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言葉が脳裏をよぎる。

「万物は流転する」

人間はめまぐるしく変化するからこそ、人間なのではないか?

誰も同じ川に二度入ることはできない。
ヘラクレイトス

分人という考え方がある。

私がはじめてこの言葉に触れたのは、小説家の平野啓一郎のエッセイだったと思う。

彼曰く

「個人」は、分割することの出来ない一人の人間であり、その中心には、たった一つの「本当の自分」が存在し、さまざまな仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営むものと考えられています。
これに対し、「分人」は、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことです。
中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉えます。
この考え方を「分人主義」と呼びます。
職場や職場、家庭でそれぞれの人間関係があり、ソーシャル・メディアのアカウントを持ち、背景の異なる様々な人に触れ、国内外を移動する私たちは、今日、幾つもの「分人」を生きています。
自分自身を、更には自分と他者との関係を、「分人主義」という観点から見つめ直すことで、自分を全肯定する難しさ、全否定してしまう苦しさから解放され、複雑化する先行き不透明な社会を生きるための具体的な足場を築くことが出来ます。
平野啓一郎

私はこの考え方は、本当にそうだなと思う。付け加えるとしたら、時間によっても人は変わるということだ。

人は、常に自分をコントロールできるわけではないし、常に一貫した思考や行動原理を基に生きているわけではない。(自由意志についての話)

過去犯罪を犯した人が、いまも悪人とは限らない。過去善い行いをした人が、いまも同じ善人とは限らない。

なぜだろうか。理由はたくさんあると思うが、中でも、外部刺激を受けることは重要な要素ではないだろうか。

新しい墓では、人はそれ以上変化しない。生者のエコーを聞くだけだ。私たちが本当に不死になるとしたら、意識をアップロードするだけでは足りない。

外からの刺激を得て、それに反応することで、変化しながら持続すること。

言い換えてみる。

人は常に変化している。人は行動や考えが完全に一貫した主体ではない。環境や状況に揺れ、影響し合う、自身でもコントロールしきれない存在だ。生きるということは、過去と連続しながらも、そうした影響関係の最中で揺れ動き、存在することなのかもしれない。

🎈 そして、はじまりの発明

襲名という。

代々、名を継ぐこと。秘伝のタレを継ぎ足しながら味を継ぐように。厳しい稽古と規律立った生活を経て、個人は、より大きな存在の一部になる。

歌舞伎の世界など、〜代目〇〇。は、初代の分身であり、延長だ。もはや、彼は個人ではなく、〇〇という存在になったのだ。

それは、技だけでなく、伝統や文化や、人格までをも継ぐことだった。武や芸で、伝説的な名を継ぐ者たち。ある時は血縁で選び、ある時は厳しい修行の末に最も優れた者を選ぶ。

キリストの子という。

ある地域で、神の子とされた者。その教えを信じ、実践すれば、誰でもキリストの子になれるという。意志を継ぐ者。キリストの思考回路が、インストールされるということ。その同調率や実践の徹底が最も優れた者は、聖人と呼ばれたりする。

はるか昔から、私たちは生の延長を試みてきた。

あるときは血で。あるときは知で。

同じ願いを、現代で想像する。私は新しい墓の先に、新しい身体を想像した。

身体は、この人間の身体でなくてもよい。同じ自分の身体でなくてもよい。襲名や教え子のように。

身体が覚えていることは失われてしまっても、また取り戻し、さらに先に進んでいけば良い。バーチャルな身体でインプットができるなら(脳のようなものに同じような変化の契機になる刺激がいくなら)それでもよいだろう。

魂の所在も、その頃にはわかっているかもしれない。

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