フィルム写真はなぜエモいのか。解像度を補完する○○の力。
日本のZ世代をはじめ、カナダや米国、欧州などのZ世代にも高い支持を得て世界的なヒット商品に成長した、チェキ。
世界で100を超える国・地域で販売しており、1998年の発売から20年以上たったにもかかわらず、2019年3月期に過去最高の販売台数1002万台を記録したオバケ商品だ。
さらに、つい先日は需要拡大により、富士フイルムが45億円を投じるニュースが話題になっていました。
かくいう私も、(Z世代ではないけれど)チェキの楽しさはよく知っており、スマホで撮影した画像をプリントできる「スマホdeチェキ」を持っています。
写真がその場で「じじじー」っと出てくるガジェットとしての楽しさはもちろんのこと、プリントされた写真も「いい」のです。
実際に旅先での思い出や、ミニ薔薇を育てていたときの写真などを飾っています。
うん、エモい。間違いなくエモい!一体、なんでこんなにエモく感じるのでしょう?
解像度が低いということ
デジタルの世界では、「いかに解像度を高めて、鮮明な画像が撮れるようになるか」という点でしのぎを削り、それを再現するモニターの解像度もぐんぐんと上がり、テレビ画面では、「肉眼で現実世界を見るよりくっきり、はっきり見える」という現象が起きていました。
対するチェキからプリントされる画像というのは、ピントが合わず、白飛びしたり全体的にぼや〜んと柔らかい印象に。
高解像度なデジタルスクリーンとは対照的に、粒子が荒く、エッジが曖昧で、さらにインクと印画紙で表現される色味はくすみがかっており、ノスタルジックな風合いがあります。
例えるなら、手編みのセーターと機械で編まれたセーターでは質感が異なるのと似ているでしょうか。例えが適切でなかったら申し訳ないですが(何かいい例えがあれば教えてください)物理的な違いがエモさに繋がっているのは、要素としては大きそうです。
解像度を補っているもの
さて、この解像度が低いチェキの写真を見たときに、一体私が何を感じているかということです。
そうですね、旅先の写真では、これは朝食だったのですが、比較的早い時間に予約したため、まだあまり席が埋まってなくて、窓から生まれたての朝陽が降り注いでキラキラしていました。
まだ少し眠かったのですが、旅の嬉しさや興奮も相まってそんなに気になりません。あと、このフレッシュジュースが本当にフルーティで美味しかったんだよなぁ…といった具合です。
ミニバラの方は、(引越し時に処分してしまったのですが)このバラを育てていた時期にどんな風に仕事に取り組んでいたかとか、どんな気持ちでベランダに出てバラに水やりしてたかとか、そんな日々の生活のことを思い出します。
おそらく上記のような解像度の高い写真であれば、
「朝食のメニューは具体的に何だったか」「どんなしつらえのテーブルや椅子か」
「バラの咲きっぷりはどうか」「葉っぱの虫食い」
などの、物理的な側面に焦点が当たるように思います。
ですが、この曖昧な画像のおかげで私の中に眠っている「記憶」があれやこれやと呼び起こされていきます。
これが他の人の写真の場合はどうでしょうか?
独特の風合いから同じようにエモさを感じて、「記憶」ではないにせよ、解像度を補って余りある「イメージ」をあれやこれやと引っ張りだして、シンパシーを感じたり、類似シーンへ思いを馳せたり…といったことが起こるように思います。
つまりチェキをはじめとするフィルム写真からは、解像度が低いがゆえに、写真の風合いのみならず、自身の中にあるメモリーやイメージが触発されて、「エモい」と感じている側面が存分にありそうだなと感じていますが、いかがでしょうか。
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Unsplashのsoragrit wongsaが撮影した写真
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