福岡相互銀行(福岡シティ銀行→西日本シティ銀行)と磯崎新が残したもの
大分出身の磯崎新は1960年に在籍中の丹下研究室で「東京計画」に関わり翌年博士課程を修了、1963年に磯崎アトリエを設立します。そのわずか4年後(1967年)に竣工したのが福岡相互銀行大分支店です。
残念ですが手元には外観の高解像度写真は無く、福岡大学理工学部のホームページに以下画像と地図が掲載されています。
人造石の外観は今にもロケットで宇宙に飛び出しそうで、内部も銀行としては尖った設計になっています。たまたま当時の『新建築』で礒崎新ご本人に取材した方から55年前のエピソードを伺う機会がありました。
1968年3月号は既に入手することはできないため、同じように特集を組んだ鹿島の『SD』から内部を紹介いたします。
これが1960年代の銀行支店だったことが驚愕です。実際に監査に入った大蔵省の方も驚いたそうです。
新建築では図面を載せていますがこのピンクの部分は「礒崎さんがピンクにして送ってきたが理由はわからない(笑)」そうです。
出身地の大分では画材屋キムラヤで美術団体「新世紀群」を結成し、新宿で設計した「ホワイトハウス」には赤瀬川源平やネオダダの現代アート作家を集めた礒崎新らしいです。
私自身は礒崎設計のオフィスや住居の利用経験はないのですが「非常に使いにくい(笑)」そうで、施主や利用者目線というよりも、それ自体が芸術作品だと考えば後にコンペ審査員として選び出した新しい才能にも納得がいきそうです。
・1983年 香港ビクトリア・ピークコンペ:ザハ・ハディド 選出
・1989年 湘南台文化センター・コンペ:長谷川逸子 選出
・1990年 京都駅コンペ:原広司 選出
・1995年 横浜大さん橋コンペ:アレハンドロ・ザエラ・ポロ 選出
・2000年 せんだいメディアテーク・コンペ:伊藤豊雄 選出
他にも「何のための建築か?」というテーマで三つのキーワードが挙げられました
前川國男:「市民」のため
丹下健三:「国家」のため
礒崎新 :「美」のため「芸術」のため
師匠である丹下健三が築いたコンクリートの近代建築に対し、カラフルで謎の螺旋や不思議なダクトは真逆の強い個性のようなものを感じます。おそらく浅田彰が10+1で語っている内容に近いのではないでしょうか。
浅田──丹下健三のモダニズムを反転させたのが磯崎新のポストモダニズムだと普通考えられているけれど、表層的なマニエラ(手法)にこだわるという意味では丹下健三の方がマニエリスティックなので、まったく逆だとも言えます。たとえば《香川県庁舎》でも、伝統的な日本建築の木組みをいかに薄いコンクリートの直方体で実現するかに腐心している。岡﨑さんは批判的だけれど、ぼくはそれがきわめて洗練された形態を生んだことは認めるべきだと思います。ただ、その丹下健三の基礎にあったプロポーションの美学を、磯崎新はあえて無視してみせる。1:1:1の立方体のグリッドで押し切ったと称する《群馬県立近代美術館》はそのマニフェストだけれど、実は初期の作品からすでにそうですよ。それによって形態の美学ではなく形式の論理を自立させようとするわけです。ミケランジェロとパッラーディオの関係じゃないけれど、古典主義/モダニズムの論理(美学ではなく)はマニエリスム/ポストモダニズムによって初めて明らかにされるんですね。
その後、本店を設計した際に以下の言葉を残しています
福岡相互銀行本店は、断片として取り出された多くの場所に、できるだけ無縁な意味を発生するような手法でとおされている。個別な場において、それぞれの空間の異化を徹底しようとしたことだけは事実である。その異化とは、総体を制御していこうとする制度的なものにたいしての違犯をくりかえすことであった。ただ、あまりにも多くの分節がつくられ、それぞれに若干恣意的で即興的な操作が加わりすぎている傾向があるのは否めない。このような自己撞着をおこしたのには諸条件の決定がまちまちであり、単一システムによる同時決定が不可能であったこともからんでいる
本店も赤いですね!インド砂岩で造られています。大分支店の内部も色がポップで1960年~70年代を現しているのかもしれません。カラフルな銀行店舗の設計後、似たような建築が流行ったそうです。礒崎新が残したものを一言でいうと、
思想
ではないでしょうか?この辺りはもう少し資料を集めてみたいと思います。
なお、残念ですが2028年竣工を目指して建て替えることになりました。今年の3月30日にデザインが発表されています。
ちょうどこの記事を書いている6/24の「新美の巨人たち」は磯崎新の幻の低層都庁案になります。
この放送時点で田中さんは一級建築士ではないのですが上記ホームページの記載は大丈夫なんだろうか。
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