「経験の交換」 肉声とリアリティ

2024年3月29日
全体に公開

先日、東京都写真美術館の企画展「記憶:リメンブランス」に行きました。最初に篠山紀信のよく知られた「家」のシリーズが展示されていたり、あるいは村山悟郎によるAIと人間のスケッチの境界をさぐる作品が展示されていたりと見応えがあり、とても楽しめたのですが、一番最後に展示されていたフィンランドの写真家マルヤ・ピリラの作品にはいろいろと考えさせられました。特に、高齢者の人々へのインタビューで構成された映像作品には深い感銘を受けました。数名の一般の人々が自分のアルバム写真をめくりながら、自分の過去を語るというものです。前回の記事では、中平卓馬による、情緒や解釈のヴェールを剥がしたその先の現実へ向かう理念を紹介しました。ある意味では、ピリラの方法論はその逆をいきます。彼女は、率先的に人々に世界や現実を解釈させる。言葉で現実を補完し、織り上げてゆく。それはそれで実に尊いものだと感じ入った次第です。

言葉と世界の関係

中平の理念はよく理解できるのです。彼が70年代において、映像メディア(特にテレビや広告写真)に浸透していたイデオロギーや、現実を捻じ曲げようとする虚構性を鋭く批判したのはもちろん意味のあることです。映像メディアを「見る」とき、純粋に「見る」ことは難しい。なぜならそこにはすでに作り手の解釈が入り込んでいるから。知らず知らずのうちに、作り手の解釈を受け入れてしまい、自分の目で見ているつもりでも、それは他人の目で見た現実を追認しているに過ぎない。メディアがもたらすそうした詐術的な構造を中平は問題視し、純粋に「見る」ことの回復を唱えたのでした。中平だけでなく、幾多の知識人がそうした主張を展開したことで、映像リテラシーという考え方も次第に生まれてきたわけです。

国家や企業が映像の力を用いて、作為的に人々をコントロールするのことへの大いなる警戒が必要である一方、個人がプライベートな場所で、世界を言葉で解釈することは普通で一般的なことでしょう。そうしたプライベートな解釈に(当人の気づかぬうちに)社会のイデオロギーや価値観が忍びこむことは多々あり、それはそれで警戒が必要ではあるでしょうが、それでもなお世界を言葉で解釈することは人間の生の営みとして当たり前の行為です。そうした解釈が多少は現実を歪めるとしても、非難されるようなことではない。自分の色眼鏡を警戒しなければならないときもありますが、それをすっかり取り外すほど潔癖である必要もないでしょうし、そもそもそんなことは不可能だとも思います。

このトピックスではたびたびこのジレンマの話をしています。つまり、世界を、現実を「見る」とき、どうしても言葉がそこに介在してしまい、純粋に世界を見ることができない。理解しようとすれば言葉が必要となり、言葉はどうしても現実を別のものに作り変えてしまう。そうしたジレンマです。話をマルヤ・ピリラの映像作品に戻しますが、彼女の作品は、人々が家族アルバムを示しながら、自分の歴史を語るというだけです。映像としては、基本的にアルバムのモノクロ写真が映され、そこに語り手のナレーションが入るシンプルな作りです。別に有名人というわけでもなく、市井の人々の自分史ですから、ありふれているといえばありふれています。しかし、観ていてまっく飽きることがありませんでした。これは結婚式のときの写真とか、これは戦場で仲間と撮った写真とか、簡単なキャプションがつくだけなのですが、それだけでも古びたモノクロ写真の世界が実に生き生きとドラマチックに甦るのです。中平の文脈では、映像に付属する言葉はネガティブなものとして捉えられがちですが、ここでは映像を補完する言葉のポジティブな役割が浮かび上がってくるのです。

肉声の力とそのリアリティ

たぶん、それほど言葉が強い喚起力を帯びるのは、書かれたテクストではなく、肉声だからでしょう。フィンランド語なので、私には声からその意味はわからない。意味は当然、字幕で理解するのですが、肉声に込められた感情は外国語であっても伝わってくる。文字と肉声では、まったく情報量が異なり、肉声と比べれば文字などは抜け殻に近い。肉声には抑揚、間、感情の震えがあり、それは容易に記号化できるものではありません。肉声の豊かさには、まさにそこにその人がいるという「存在感」も含まれます。アルバムの写真だけを、説明なしに見ても、誰がどんな立場で、他の人とどういう関係なのか、何のための写真なのか、全く理解できません。だからこそ純粋に被写体を見ることができるのかもしれませんが、それは味気なくも感じます。写真の持ち主の、肉声による説明がつくと、写真の世界が映画のように生き生きと動き出します。急に世界の奥行きが広がり、ドラマが見えてくる。言葉の力を実感した瞬間でした。

哲学者の野家啓一は『物語の哲学』(岩波現代文庫、2005年)のなかで、柳田國男の民話収集や口承文芸の研究について触れて、次のように言っています。

彼にとって、物語や伝説の採集は、単なる懐古趣味の手すさびではなかった。柳田は物語の伝承を発掘することによって、「近代」が強いる「歴史意識の断絶」に抵抗しようとしたのであり、物語行為の潜勢力を顕在化させることによって、ベンヤミンの言う「経験の伝播能力」あるいは「経験を交換する能力」を再活性化しようと試みたのである。
野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫、2005年)p.94より

この文章はコンテクスト抜きではなかなか理解しがたいと思いますが、つまりこういうことです。現代では、人々の、物語の力が衰退している。人々は自分について上手く語れない。この現象は何を引き起こすかというと、コミュニケーション不全、過去や歴史についての意識の喪失、です。少し前に「コミュ障」と言う言葉が流行りましたが、言葉で自分を表現することの苦手なのが、現代人の特徴です。現代人は言葉の力を失いつつある。言葉の代わりに何で世界を理解しているかというと、イメージ(映像)です。近代になり、映像が強い力を持ち出すと、娯楽もコミュニケーションもイメージに強く依存するようになる。しかし、イメージは記憶や経験(両者は同じものですが)を伝達するのには弱い。伝達は言葉でこそ上手く機能する。しかし言葉の力が衰えているので、私たちは他者とのコミュニケーション不全に悩む。いや、他者とのコミュニケーションだけでなく、自分とのコミュニケーションも失われる。言葉の力の喪失は、自分の過去を構築し、意味づける力の喪失でもあるわけです。

こうして、私たちは世界からも、他人からも、自分自身からも引き離されて空洞化する。現在ばかりでなく、過去もあやふやになり、アイデンティティの希薄化が生じる。どれも現代人によく当てはまる現象です。言葉の拘束を逃れることが、あるがままの現実と向き合うための条件でもあるわけですが、言葉の喪失は別の不全をも引き起こす。世界からも他人からも離反し、過去さえ持たなければ、それはもはや人間とは言えない。その点で、ピリラがインタビューした人々の自分語りは、きわめて人間的で、経験を他者に伝える力に満ち満ちていました。ここまでの話をまとめると、どうなるでしょうか。つまり中平の理念は一面で正しいのですが(言葉が現実に色付けし、ある意味では歪めるのは確かですが)、言葉なくして世界を捉えることも難しい。要は、言葉の用い方なのだと思います。ツヤツヤして聞こえのいい言葉や文句は、往々にして世界からリアリティを奪ってしまいがちで、それは警戒すべきことです。しかし、言葉は同時に、世界に切り込み、そのリアリティを掘り下げる大きな力でもあります(その専門家が詩人です)。つまり言葉には、現実を歪める力と現実を掘り出す力があって、その両面をよくよく理解することが肝心なのでしょう。

トップ画像はUnsplashのLaura Fuhrmanが撮影した写真

応援ありがとうございます!
いいねして著者を応援してみませんか



このトピックスについて
樋口 真章さん、他508人がフォローしています