モンスターの息づく世界——野に返りし〈はぐりん〉を偲んで

2023年12月12日
全体に公開

 『ドラゴンクエスト・モンスターズ』シリーズの第三弾「魔族の王子とエルフの旅」が発売され賑わっています。従来の『ドラクエ』シリーズから派生し、モンスターの育成をメインとする作品。『ドラクエⅣ』の魔族ピサロとエルフの少女との物語が掘り下げられているようです。RPG世界にとってモンスターやエルフは不可欠な存在、彼らはもはや単なる飾りでも敵でもないのです。

 『ドラクエVI』をプレイしていた頃、私は期待に胸膨らませ「はぐれメタル」というモンスターとの戦いに明け暮れていました。〈仲間になる〉という情報を聞きつけたのです(実際には『ドラクエⅤ』から仲間になった)。はぐれメタルとはスライムと同系ですが、「メタルスライム」の発展形というべきモンスターです。彼らを倒すと望外な経験値が得られ、あの〈テテテテッテッテテー〉というレベルアップ音が鳴り止まなくなります。容易なレベルアップに結びつく分、そう簡単にはやっつけられません。そもそもはぐれメタルはあまり出没しません。そしてすばしっこい。出現してもこちらが攻撃を繰り出す前に逃げ出してしまう。出現率と討伐率があまりに低いため、仲間にしづらいのです。

 さて、何回遭遇し何匹倒したか定かではありませんが、戦闘後👇矢印が出現。この👇矢印はモンスターが仲間になる可能性を示唆するためワクワクものです。ただ、敵がアイテムを落とし肩透かしをくらう場合も。おそるおそるボタンを押すと

「なんと はぐれメタルが おきあがり なかまに なりたそうに こちらをみている!」

数多のプレイヤーがこの文言と光景に歓喜したことでしょう。

 しかし、喜びも束の間、なんと「はぐりん」(すでに仲間になったときの名前で呼んでいる)は野に返ってしまったのです。開いた口が塞がりません。理由は馬車がいっぱい?モンスターを預かるルイーダの酒場の収容数がいっぱいだったため。夢の光景から一転、何事もなかったかのようにいつものフィールド画面へ。あの刹那、幼き「はぐれメタルハンター」は『ドラクエ』プレイ史上最大級の切なさと喪失感を味わったのです。

 基本、モンスターは倒すべき敵でした。“Monster”——語源はラテン語の “mōnstrum” に遡ります。この語の幹を成す “monere” の意味は「警告する」——そこから自然界の「驚異」や「異形の者」などを指すようなったようです。RPG界に現れるモンスターはまさに「驚異」のヴァリエーションで、かつ「脅威」の存在。冒険の途、行く手を阻むモンスターは排除されるのが常でした。突如現れる別画面、飛び交う攻撃や魔法の数々。日本を『ポケットモンスター』が席巻する以前に、「モンスターの仲間入り」という革命的システムを見出した『ドラクエ』はそうしたRPGの日常に新次元を構築し、モンスターへの新たな見方をもたらしたのではないでしょうか。

 私はモンスターに対する認識の変化に関して、J.R.R.トールキン(1892-1973)が書いた “Beowulf: Monsters and the Critics” (「モンスターと批評家たち」, 1936年)というエッセイ(とはいえ研究論文なのですが)を想起します。トールキンは『ホビット』や『指輪物語』といった傑作を生んだファンタジー作家として有名です。しかし彼の本業は中世ヨーロッパの、とくにイギリスや北欧の言語を専門とする研究者でした。その学術的知見は彼の創造したファンタジー世界(ミドル・アース=「中つ国」)に存分に書き込まれています。

 そんなトールキンが愛読した中世の物語には必然、モンスターが多数登場します。その一つ、中世イギリスの物語に『ベーオウルフ』という英雄詩があります。これは英語文学の嚆矢ともされる作品です。舞台は6世紀ごろの北欧、主人公の勇士ベーオウルフが三種類のモンスターと戦いを繰り広げます。若き日には隣国を悩ます怪物グレンデルとその母親女怪を退治し、老王となって後は故国を襲うドラゴン(火竜)と死闘を演じ名誉の死を遂げます。まるでRPGの原風景がそこにあるかのようです。

 ところで、古英詩『ベーオウルフ』への関心が高まったのは19世紀に入ってからで比較的最近のことです。当時、文学作品といえば〈現実世界〉の人間模様を描くリアリズムが主流。ファンタジー色の濃い英雄物語にどれほどの関心が向けられたでしょうか。とはいえ『ベーオウルフ』は英語の発展を知る上で貴重な文献でしたし、作品内にみられる言及から歴史的資料としての価値も認められていました。ただ、物語の主要なイベントである〈勇者とモンスターの戦い〉は至ってシンプルかつ荒唐無稽と退けられ、とりわけモンスターたちは批評の「脇」に追いやられる傾向にありました。

 そんな中、トールキンはモンスターを議論の「中心」に引き戻します。彼らは気ままな空想などではなく、むしろ作品のプロットや主題にかかわる本質なのだ、と。

モンスターたちは作品の趣を損ねる欠陥などではない。彼らはむしろ本質で、詩の根底に流れる思想と結びつき高遠な雰囲気と威厳を与えている。

 実際にモンスターの描写は臨場感溢れ、はっきりとした動機や心情も表されています。自分を上回る強者ベーオウルフに片腕をもぎ取られ、足を引きずりながら必死に棲み処を戻ろうとするグレンデルは、自らの命の限りを悟ります。我が子を失ったグレンデルの母親は、人々が同様に抱く血の恨みに突き動かされています。宝物の守護者であるドラゴンも迫真性に富み、また貪欲と破壊を体現する象徴的存在でもあります。結果、彼らは皆討伐されますが、ベーオウルフも最後には朽ち果てます。古の世界で定められた運命の下、英雄もモンスターも例外なく儚い生の終わりを迎えるのです。

 エッセイの内容は多岐に渡りますが、総じてトールキンはファンタジーやモンスターに対する根強い先入観に一石を投じているように思います。そもそも人間が生きる現実世界がモンスターの息づく世界より優れているのか。ファンタジーは歴史やリアリズムに劣る、と。そして他の批評家が考えるように、グレンデルやドラゴンは「流行遅れの生き物」(“unfashionable creatures”)なのでしょうか。こうした根本的な問いのもと、トールキンは詩の世界観や詩人の想像力に光を当て、モンスター擁護の視点から作品の芸術的価値を説いたといえそうです。

 今や「流行遅れの生き物たち」はRPG界を颯爽と駆け回り、『ドラクエモンスターズ』のように、むしろ流行の先端を切り開いています。中世学者トールキンのモンスターに対する深い理解と温かい眼差しはRPGの歴史にも脈々と受け継がれているではないでしょうか。

 *ちなみに、グレンデルは『ドラクエⅤ』に登場します。残念ながら仲間にはなりません。

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