「アグリーです」……その主語は?

2023年8月9日
全体に公開

 次に新訳を考えていきたいのは“アグリー”とかいう横文字用語だ。

 外資系などで“アグリーです”みたいなカタカナ語が使われているという記事を時々目にするけども、会議である意見に賛成する時に“賛成です”とかではなく、わざわざ“アグリーです”なんていう言葉を使うのはカッコつけなのか何なのか、俺としては理解に苦しむよ。やはり軽薄に思えるんだよな。

 新訳にあたって皆さんは、別にてらいなしに“賛成です”と訳せば事足りるのではないか?と思うかもしれない。

 だが俺は一歩踏みこんでこう訳したい。“私は賛成です”と。

 ここにおいては“私は”っていう主語の存在が重要なんだ。だが何故重要かを話すには、日本語の性質そのものについてまず語る必要があるだろうね。



 俺はルーマニア語やルクセンブルク語、アルバニア語といった特にヨーロッパの言語を多く学ぶなかで、これらに比べると日本語はかなり情緒的で、フワッとした言い方がかなりできると思うようになった。

 その例が主語を省略できるという特徴である。上でも書いた通り“賛成です”という文章は“私は”みたいに主語をつけずとも意味は通じるし、文法的にも間違いではなかったりする。

 が、この特徴自体には、ヨーロッパ言語に造詣の深い方なら“いや、イタリア語とかチェコ語とかも余裕で主語は省略できるだろ”と思うだろう。実際、ルーマニア語もアルバニア語も主語は簡単に省略できる。

 だが日本語と事情が違うのは、これらの言語は“誰が動作の主体か?”によって動詞の形が変わるという点だ。例えばルーマニア語だと“私は行く”と“君は行く”では“Eu merg”と“Tu mergi”になるって感じだ。だから主語をつけない“merg”や“mergi”でも誰が主語なのか分かるってわけで、主語が省略されるんだよ。

 しかし日本語は“私は”でも“君は”でも同じく“行く”になり、動詞の形は変わらない。なのに何故だか省略できてしまい、その結果として主語が分からない時があったりする。これをやってしまって何でOKなのかが疑問だ。特にルーマニア語だったり主語の省略に文法的な背景がある言語を学ぶとマジに謎で面白いわけよ。

 俺が高校とかで古典を習っていた時に一番辛かったのが“それをやってるのか誰か全然分かんねえ!”ってことだった。問題に“この動作の主語を答えよ”とかいうのが出るとお手上げでさ。多分こういう人は少なくないんじゃないか。

 で、俺はこう思うんだよ。おそらく現代の日本語を習う外国語話者って、古典を習ってた時の俺たちと同じく“この動詞の主語が分かんねえ!”って疑問に苦しめられてるんじゃないかってさ。文章からいつ主語を抜いてよく、いつ主語を抜いてはいけないのか見当もつかないとかいう日本語学習者の悲鳴も時々聞くよ。そういう目線に立って日本語を精査すると、確かにその法則性が分からなくて驚いてしまう。

 ここが、日本語がフワッとしていて情緒的に使っちゃえると俺が思う理由の1つなんだよ。

 で、ここで“アグリーです”という表現に戻る。

 この記事で話題に挙げている“賛成です”を英語で言うにあたり“agree”が使われる際は、ほとんどの確率で“I agree”と主語が入るはずだ。何故なら英語では主語と動詞はセットで、主語を省略したりはしない。それは、三人称単数のみ語尾に“s”がつく以外では他の形が同型になっていて、主語がないと動詞の主が誰か分からなくなってしまうからだ。

 そして英語は動詞を単体で使うと命令形として扱われるから、“agree”とだけ書くとそれは“賛成しろ!”という意味になってしまうだろう。

 だけども“agree”が“アグリー”という横文字として日本語に入ってくると“I”などの主語を抜いたまま“アグリーする”って表現になってしまう。英語を横文字化して使っているのに、明らかに英語の用法を無視して日本語的なフワッとした使い方をしてしまっているわけだ。 “agree”単体で“賛成します”を意味させたいのなら、形容詞化した“agreed”なら英語圏でも普通に使われているだろう。

 例えばこの動画なんかだと、
 “The lights really make it shine ライトで本当にキラキラ輝いてる”
 “Agreed. 同感”
 という例文が紹介されていたりする。だから“アグリードです”と言えば、まだ英語文法に則っている感じがある。

 だが日本は、例えば映画の題名が“~s”と複数形なのに、邦題をつけるにあたりそれを横文字としてそのまま輸入する際、何故かその“s”を消してしまうということがよくある。日本は英語における接尾辞の重要性に無頓着な傾向にある気がしている。

 何故ここまで“アグリーです”に主語がないことに俺がこだわっているかと言えば、大きな個人的理由が1つある。

 子供時代、引っ込み思案な俺はコミュニケーション能力がかなり低くて、誰かと話す時にはずっと黙っているか、一方的にバーっと喋っちゃうかという0か100かのやり方しかできなかった。

 今考えるのなら、この“0”の状態で居られたのは主語がない日本語の環境だからこそだったかもしれない。“俺は……”と発言せずともある意見に追随する素振りを見せるなら、その雰囲気におんぶにだっこで発言なしのままやりすごせてしまう。日本語において主語を消すというのは自分を消すこと、周囲に埋没することに他ならないわけだ。

 そして“アグリーです”という言葉において作用している力学はこういうものに思える。この横文字を使うことで日本語中心の環境において際立とうとしながらも、“アグリー”の横に本来あるべき主語を消し去ることで、巧妙に責任をやりすごそうとしているっていうね。横文字を日本文化に引きこみ沈め、そしてその特性を消し去ったあげく都合のいいように悪用しているように思えてならないわけだ。

 これについて考えていると頭に思い浮かぶのは遠藤周作の『沈黙』だった。キリスト教徒への弾圧に関してこういったことが語られる。日本は沼であり、外来の文化を根付かせようとしてもそれらは呑みこまれた後に朽ちるばかりで、全く不毛だと。

 “アグリーする”って言葉は“agree”を日本語という沼に引きずりこんだ末路のようにも見える。言語において、これはもはや悪魔合体とでも呼称すべき現象が起こってしまったんじゃあないのか?とすら思えるわけだ。

 だから“アグリーする”ってどうしても言いたいのなら、せめて英語の文法に敬意を表して“私はアグリーです”と言うべきなんじゃないかと感じる。もしくは“agreed”を使っての“アグリードです”という表現か。

 だけど理想としては、英語の文法に学び“これに賛成するのは私である”と責任を引き受けたうえで“私は賛成です”と言うべきなんじゃないだろうか? 主語を省きがちな日本語を使う際には、主語を据えることから逃げない。そしてこれを起点にして、例えば“考えます”とか“思います”って発言するような場面でも、積極的に“私は考えます”だとか“私は思います”と言ってみる。

 こういう些細なところから意識の改革は始まるんじゃないかと俺は思っている。

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